小夜鳴鳥(ナイチンゲール)
「スタッフルーム」トップへ戻る
タイトル一覧
第二百二十四回「リプレイ」
第二百二十三回「さなぎ(イナズマン)」
第二百二十二回「助手」
第二百二十一回「師走」
第二百二十回「景色」
第二百十九回「オタクの恋」
第二百十八回「年上の女」
第二百十七回「店員の女」
第二百十六回「在日の女」
第二百十五回「窓の外」
第二百十四回「窓」
第二百十三回「凪」
第二百十二回「卒業」
第二百十一回「失踪」
第二百十回「M君」
第二百九回「共同製作」
第二百八回「8Mile(6)」
第二百七回「8Mile(5)」
第二百六回「8Mile(4)」
第二百五回「8Mile(3)」
第二百四回「8Mile(2)」
第二百三回「8Mile(1)」
第二百二回「トリップ(旅…)」
第二百一回「学校」
第二百回「走る!」
第百九十九回「走るメロス(3)」
第百九十八回「走るメロス(2)」
第百九十七回「走るメロス(1)」
第百九十六回「T君」
第百九十五回「ヤマアラシのジレンマ」
第百九十四回「成人式」
第百九十三回「最終回」
第百九十二回「エヴァ」
第百九十一回「流行」
第百九十回「廃墟」
第百八十九回「空虚」
第百八十八回「訃報」
第百八十七回「谷口くん(3)」
第百八十六回「谷口くん(2)」
第百八十五回「谷口くん(1)」
第百八十四回「キャプテン」
第百八十三回「数字」
第百八十二回「返品」
第百八十一回「ZERO」
第百八十回「みそっかす」
第百七十九回「ボランティア」
第百七十八回「ライブハウス」
第百七十七回「クラブ」
第百七十六回「オタク」
第百七十五回「本屋」
第百七十四回「主役」
第百七十三回「デジタルバブル」
第百七十二回「京都」
第百七十一回「紹介」
第百七十回「地震」
第百六十九回「フラッシュバック(青春編スタート)」
第百六十八回「快諾(真昼の夢)」
第百六十七回「老優」
第百六十六回「残像(流れ星)」
第百六十五回「疾風の人」
第百六十四回「引退」
第百六十三回「かげり」
第百六十二回「前夜」
第百六十一回「傷」
第百六十回「失格」
第百五十九回「会社」
第百五十八回「ブレイクスルー」
第百五十七回「ブーム」
第百五十六回「うめだ花月」
第百五十五回「十年前(のび太たちはタイムマシーンに乗って)」
第百五十四回「兆し」
第百五十三回「独立」
第百五十二回「E氏」
第百五十一回「師匠」
第百五十回「アサゴエゴエ」
第百四十九回「運命の人(4)」
第百四十八回「運命の人(3)」
第百四十七回「運命の人(2)」
第百四十六回「運命の人(1)」
第百四十五回「響」
第百四十四回「根拠」
第百四十三回「スケジュール」
第百四十二回「テスト撮影」
第百四十一回「インサート」
第百四十回「プロフィール」
第百三十九回「履歴書」
第百三十八回「小旅行」
第百三十七回「遺物」
第百三十六回「勉強」
第百三十五回「朝市」
第百三十四回「衣装小道具」
第百三十三回「終戦」
第百三十二回「ヒロシマ(3)」
第百三十一回「ヒロシマ(2)」
第百三十回「ヒロシマ(1)」
第百二十九回「気分」
第百二十八回「純愛」
第百二十七回「合議制」
第百二十六回「デザイン」
第百二十五回「代役」
第百二十四回「仮チラシ(三人めの小夜子)」
第百二十三回「モデル」
第百二十二回「ミーティング」
第百二十一回「対立(マイナスの表現)」
第百二十回「演出(工夫する心)」
第百十九回「現実の部屋」
第百十八回「空っぽの部屋」
第百十七回「林檎の唄(歌舞伎町の女王)」
第百十六回「通知」
第百十五回「決定」
第百十四回「洋館」
第百十三回「響の部屋」
第百十二回「難所」
第百十一回「時代」
第百十回「2003年」
第百九回「オーディションその後…」
第百八回「小津の町(4)」
第百七回「小津の町(3)」
第百六回「小津の町(2)」
第百五回「小津の町(1)」
第百四回「二人めの小夜子」
第百三回「オーディション(3)」
第百二回「オーディション(2)」
第百一回「オーディション(1)」
第百回「東京物語(10)」
第九十九回「東京物語(9)」
第九十八回「東京物語(8)」
第九十七回「東京物語(7)」
第九十六回「東京物語(6)」
第九十五回「東京物語(5)」
第九十四回「東京物語(4)」
第九十三回「東京物語(3)」
第九十二回「東京物語(2)」
第九十一回「東京物語(1)」
第九十回「巣立ち」
第八十九回「休戦」
第八十八回「純喫茶」
第八十七回「過去(第492回からの呼び声)」
第八十六回「小包」
第八十五回「すれ違い」
第八十四回「バッドナイト」
第八十三回「グッドナイト」
第八十二回「同窓会」
第八十一回「デジタル」
第八十回「サークル」
第七十九回「アングラ」
第七十八回「舞台」
第七十七回「女優」
第七十六回「種子」
第七十五回「田舎者」
第七十四回「都会のねずみ」
第七十三回「相席」
第七十二回「講演会」
第七十一回「流浪」
第七十回「ダンス(シンデレラは踊らない)」
第六十九回「返事」
第六十八回「招集」
第六十七回「プラットホーム」
第六十六回「聖戦」
第六十五回「打算」
第六十四回「鬼(隠)」
第六十三回「幻」
第六十二回「告白」
第六十一回「空白」
第六十回「二つの本」
第五十九回「帰還(リターン)」
第五十八回「鳩小屋」
『ぼくらの映画道・第二部〜小夜鳴鳥リプレイ』

第二百二十四回「リプレイ」
 
 すっかり荒れ果てた学校の機材室を前に、僕はとりあえず掃除する事から始めた。

 結果、うろ覚えの元の状態に戻すまで一週間以上もかかってしまったが、その大掃除の最中、僕の知らない学生たちの思い出の品が次々と出てきて、その様子はさながらひっくり返ったおもちゃ箱のようだった。
 機材や生活ゴミ以外にもかつての学生たちが置いて行った、衣装や小道具、上映会や文化祭の出店の看板やポスター、思い出の記念写真などが乱雑に転がっていた。
 どうやらその楽しげな思い出を捨て切れなかった前任者の代わりに、僕は僕の知らない思い出をゴミとして一つづつ捨てていった…
 正直、他人の思い出を身代わりに捨てる作業は、人としてとても気分の悪い作業だった。
 立つ鳥は跡を濁さない…
 その後も渡り鳥のように転々とフーテン生活を送る僕にとって、それは最低限度守りたい自分のルールとなった。
 僕はその大掃除のどさくさに、ゴミと一緒にもう使われなくなった古い機材も処分した。
 その中にはあの国内での現像が中止になって久しい、スーパー8の8ミリフィルムのカメラもあった。


 …すべては夢のあとだった…


 この頃の僕はもう再び、自分が人生の主役になる事はないだろうと半ば諦めていた傍観者で、師匠やT君たちに指摘されるまでもなく、監督やキャプテン(リーダー)としての資質が自分にはない事は随分と前から分かっていた。
 悲しいけど器(うつわ)じゃない…
 だったらせめて、自分以外の誰かが主役の物語で、味のある脇役の一人でいようかと思ったが、主役になれそうな奴はみんな途中下車で去ってゆき、なんの因果か僕みたいな半端者に、もう一度“猶予期間のチャンス”が与えられた。
 もし次に主役になれそうな奴(器)と出会ったら、今度こそ迷わずソイツについて行こうと決めていた。
 自主映画を撮る軍資金は懐(ふところ)にある…
 (軍師だった諸葛亮はいつか大空を舞う竜と出会う夢を見る…)

 初出勤の日から数日後、遅れて初出勤して来た同僚の女の子と、僕は初めてそこで出会った。


 僕と同じく卒業後に呼び戻されて、助手(さなぎ)に戻った山崎さんだった。



                     「ぼくらの映画道・第二部〜小夜鳴鳥リプレイ(完)」


2006/08/06

第二百二十三回「さなぎ(イナズマン)」
 

 あの日、僕たちはさなぎだった。


 映像学校を卒業して一年しか持たず、業界を挫折して、実社会で生きる事に失敗した僕たちはフリーターとなって、再び学生だった頃のように映像映画ごっこを繰り返しては、人生最後のモラトリアムの時(猶予期間)を過ごした。
 先んじて大人になった友人たちがいう通り、そこには何もなかったが、何もない事がただただ優しかった。
 咲かない花があるように、かえらない蛹(さなぎ)たちも確かにそこに居たのだ。
 昔、TVで「イナズマン」というヒーロ一番組があった。
 同番組の詳しい内容はあまり覚えてはいないが、正義のヒーロー イナズマンは“強いイナズマン”に変身する前。
 人間の姿から“ただ醜いだけのサナギマン”という第一次形態を経て、ようやくと真のヒーロー イナズマンになる、当時としては珍しい“二段階変身する”異形の戦士(※新人類のミュータント)だった…
 醜いだけのサナギマンに変身した主人公は最初何も出来ず、ただただ敵の攻撃から逃げ回るだけの、(はっきり言って変身する前の人間状態より更に弱い)、史上最弱のヒーローで、敵の攻撃から逃げ回るだけの姿は、子供心にも何とも情けない気持ちになったが、敵の猛攻に耐え切ったサナギマンは、その間に溜めた怒りの力で、無敵のヒーロー イナズマンにと華麗に変身する。
 (繰り返す…僕たちはサナギだった…)
 さなぎだった僕たちは醜い殻の中でドロドロと、それまでの子供だった自分自身を溶かして、新しく大人へと生まれ変わるための準備期間の時を過ごした。

 そして一度は大人になる事に失敗した僕たちは、もう一度だけ生まれ変わるために、学生(※幼虫)でもない、先生(※成虫)でもない、助手(アシスタントのさなぎ)になって、学校という卵の世界に“逆戻り”する道を選んだ…


 (巻き戻しのリプレイ…。ドロドロに溶けたサナギの僕たちは大人のカタチに、イナズマンになる事が出来るか?超力招来!バンバ フラッシュ!!!!)



2006/08/02

第二百二十二回「助手」
 
 結局、迷った揚げ句、僕はもう二年間 寄り道する道を選んだ。

 (他に行きたい場所も無かった…)

 何しろ学校にはのどから手が出る程欲しかった、撮影機材も編集機材も揃っている。
 うまく立ち回ればもう一回位、大好きな映像遊びが出来るかも知れない。
 僕には二年間のアルバイト生活で無駄に貯めた僅かな額の貯金があった。(大した額じゃない、新車で軽自動車を買うか“自主映画を一本作れば”それで終わりの金額だった)
 その使い道を探していた。
 (僕はそんな下心を抱えて、元いた学校に初登校ならぬ初出勤をした)
 初出勤の日。僕はこれから自分の持ち場となる、映画科の機材室の鍵を開けて愕然とした。
 そこは以前の整理整頓された、高価な撮影機材が沢山眠る機材庫の面影はなく、荒れ放題ちらかり放題にちらかった“ゴミ屋敷”になっていた。
 (僕はようやくこの時、あの日のT先生の質問の意図を理解した)
 部屋も荒れていたが、そんな機材室を利用する、学生たちのモラルはもっと荒れていた。(天地乱れる所また人心も荒れる…)
 特別、機械や機材に詳しい訳でもない、卒業して三年も過ぎていた僕が“わざわざ呼び出された理由”は“これ”だった…
 荒れ放題に荒れた部屋と、高価で命ともいえる、大事な機材の取り扱い方。時間厳守のルール。「報告・連絡・相談のプロセス」を教えられなかった当時の学生さんに、再びその約束(※秩序)を取り戻すのが、僕に与えられた“唯一つの仕事”だと勝手に理解した。

 (荒野の用心棒。一年め、僕はそれまでの“なぁなぁに慣れきった在校生たち”と事あるごとに対決する…。そして一度慣れた常識を変える事の難しさを知る…)

 結果、本格的に映像遊びを再開するのは、仕事や学校の年間行事のペースを掴んだ、助手生活二年めを待つ事になる…


 (楽しい楽しい映画地獄の始まり始まり…)


 (地獄でも構いやしないさ…若さとは馬鹿さ…)



2006/08/01

第二百二十一回「師走」
 
 数日後、僕はゼミの担当教諭であった恩師のT先生に呼び出された。

 留守番電話の伝言メッセージを聞いてしまった僕は折り返しT先生に連絡を入れたが、T先生は「直接会って話したい事がある」と、その時は具体的な用件を話してくれなかった。
 (何かまずい事でもしただろうか…)
 その日、本屋でのバイト労働を終えた僕は、しゃかずると重たい足を引きずって、何も身に覚えがない事を確認すると、約束のドトールコーヒーにむかった。(スターバックスなんて勿論無かった)

 とりあえずアイスティーか何かを注文した僕が着席すると、開口一番「お前“整理整頓”は得意か?」と聞かれた。

 (はっ?)

 「あと部屋の掃除はこまめにするタイプか?」
 「はぁ…」

 T先生の質問の意図はまるで分からなかったが、とりあえず僕は聞かれた事を聞いたまま正直に答えた。
 (新手の心理テストか何かと思った)

 「普通(※一般的な一人暮らしの成人男子の部屋)に比べれば、割と綺麗な方だと思いますけど…」
 「合格」

 (?!)

 どうやら僕は“何か”に合格したらしい…
 (合格した僕はその後ようやく本題を聞かされた…)
 それは学校の機材室担当の「助手(アシスタント)にならないか?」という内容の話だった。

 …僕は少しだけ迷った…

 実は僕は機材や機械のスペックにはあまり詳しくはない。
 (学生さんに機械の使い方を質問された時。正しい知識や使用方法。その答えを答えられるか不安だった…)
 そして何より普通、機材室のアシスタントは次の卒業生の中から選ばれるのがその学校の慣例で、卒業してから丸三年も過ぎた男にそんな依頼が来る事自体が不思議な話で、何か訳ありの様子である事は、先程のT先生の質問からもうかがえた。
 (それは出勤初日に判明する…)
 迷った僕はとりあえずその場では即答をせず、「少しだけ考えさせて下さい」と、後日改めて連絡する事を約束して、その会見の席を離れた。
 店を出ると、止まっていた風が少しだけ吹きはじめた。

 1996年12月の年暮れの出来事だった。


 (十年以上も前の昔々の話だ…)



2006/07/31

第二百二十回「景色」
 

 (綺麗事は言わないよ。これが僕という男のショボい正体さ…)


 遅い。そしてほんの一瞬の恋に浮かれた僕だったけど、気がつくとやっぱり一人きりの元の自分に戻っていた。
 (寂しさは変わらずに、不安だけがなくなり、気持ちだけが楽になった)
 結局はいつものあまんじゃく(天の邪鬼)だった。

 元の一人の部屋に戻って、元通りの生活を繰り返す僕だったが、窓から眺める風景は少しだけ変わりはじめていた。
 (山の景色が夏から秋、秋から冬に変わる時。夏の日差しをいっぱいに浴びた深緑がやがて紅葉の赤となり、そしていつか枯れ落ちるように…。人の景色もいつまでもそのままではいられない…)
 冬に迎えた新学期。春に控える卒業と進級。
 少しづつだが、でも確実に、日々人の流れは変わってゆく。
 変わらない(変われない)のは、世界で自分だけのような錯覚に、くらくらと目眩(めまい)がした。
 それからしばらく、あのすれ違うだけの美しい風景だったあの女(ひと)も、誰かと家を出て行ったようで、町で見かける事が無くなった。
 多分、お嫁にでもいってしまったのだろう…
 (それから二年後、ちょうど僕が大阪から千葉へと引っ越そうとする時、彼女は何故か急に出戻って来て、最後にもう一度だけすれ違う…)

 そんなその年の暮れ、バイト先の本屋から部屋に戻ると、自宅の留守番電話に一件の伝言メッセージが残っていた。

 再生(リプレイ)する?再生(リプレイ)しない?

 それは学生時代の恩師で、ゼミの担当教諭だったT先生からの伝言だった。


 (すっかり砂漠に戻った荒野に一陣の風が吹く…)


 気がつけば波瀾万丈…



2006/07/30

第二百十九回「オタクの恋」
 
 (若い内の恋愛なんて結局椅子取りゲームさ。早く座った者の勝ち…。将来への自信や暮らす足場のない僕は、他人を押し退けてまで椅子に座れなかっただけ。ずっとそうだと思っていた。でも本当は違っていた。当時の僕には“座る勇気”さえ無かった。卑怯な男の言い訳を年上のあの女に見た…若さとは馬鹿さ…)

 初めは仕事帰りに一緒に映画を観に行った。
 (「アクリ」という“人魚の映画”を見た)
 岩井俊二がシナリオの“ツマラナイ映画”だった。
 (まぁ、見た映画の内容なんて“今は”どうでもいいさ…)
 二十代中頃の遅い“生まれて初めてのデート”だった。
 その後も僕と彼女はお互いのお気に入りのCDや本を貸し合ったり、居酒屋やレストランに晩御飯を食べに出かけたりした。(喰ったメシの味なんて覚えていない)
 当時はまだメールなんて、便利な恋愛ツールはなく、携帯電話さえ普及していなかった頃だったので、(唯一あったのは昔懐かしいポケベル)
 夜な夜な気の利いたラブメッセージも送り合わない、昔ながらの古い男女交際だった。
 会って話す事もお互いの素姓話ばかりで、オタクだった僕は気の利いた言葉で彼女をクドく事も出来ず、ぎこちないだけの交際を続けた。(以下、「電車男」参照)
 この頃の僕は、毎月こつこつと貯める“貯金だけが趣味の男”になって、自主映画の事なんかすっかりと忘れてしまっていたので、このまま貯めた小金を彼女のために使い切って、ついでにふらふらのフリーターなんかも辞めて、堅実な仕事に就職しようかなと、自分の人生を簡単に考えていた。(若さとは馬鹿さ…)
 それから数か月が経って、彼女との交際を続ける僕は、徐々に何か分からない“不安のようなもの”に取りつかれた。
 今ならそれははっきりと“若げの至り”だったと気がつくが、(彼女の事を好きになった事が…。それとも彼女の事を重たく感じるようになった事が…)
 当時のまだ若かった僕には理解不能な感情で、僕は僕自身の漠然とした将来への不安から、別に嫌いじゃない彼女に次第に距離を置くようになって行った。(連絡も取らず、本屋で会っても目をそらした)
 僕にはまだ未練があった。
 それは別の女性に対しての感情だったのか?それともやり残した自主映画遊びへの未練だったのか?(多分その両方…)

 一方的にフェードアウトしようとする僕を問い詰める彼女に、僕はただ「ゴメンナサイ」とだけ謝った…


2006/07/28

第二百十八回「年上の女」
 
 別に今思えば、二言三言会話して“ハイサヨウナラ”というだけの事だったが、女っ気のないストイックな労働環境で、野良犬のように飢えていた僕たちは、そんな毎朝のゲームに熱中した。

 運良くそれが恋愛にと発展するケースも一つ二つはあったが、そんな幸運(ラッキー)を手にする男の顔は決まって男前で、ひ弱な文化系男子(メガネオタク)の僕には全然縁のない話だった。(おい、誰かブルーワーカーだ。ブルーワーカーを持って来い!)

 ゆうなればそれは退屈な毎日の中で、今日は目的地(お目当ての店員さん)に「到着出来るか?」を競う、一種のレースゲームみたいな恋で、僕は自分の目的地(ゴール)を“五階のマドンナ”に決めて、毎朝元気良く出走した…
 (ただ、それだけだ。窓の外の世界の女と大して変わりはしない)

 そんな退屈しのぎのゲームを一年以上繰り返していたある日、僕はとある女性(店員さん)と親しくなった。
 それはいつも通う五階のマドンナじゃなく、自分からはほとんど行った事がない、六階の人だった。
 (勿論、一番人気だったアイドルではない。しばらくその存在にさえ気がつかなかった、別の人だ)

 初めは一緒に乗り合ったエレベ一夕ーの中で目が合って、次は店の中ですれ違うと会釈を交わすようになり、その内同じエレベーターに乗り合うと、二言三言会話を交わすようになった。

 (特別綺麗な訳でもなく、特別愛想が良い訳でもない…)

 彼女は僕より二つ年が上の年上の女だった…


2006/07/27

第二百十七回「店員の女」
 
 潤いのない男ばかりの本屋のバックヤード(※裏方仕事)で、唯一女性(店員さん)と接触出来るのは、入荷した書籍を売り場に運ぶ一瞬だけで。
 一階から八階までの各ジャンルごとに分かれた売り場に、朝入荷した書籍や雑誌を運ぶのは、僕らバイト君の数少ない楽しみの一つだった。

 各ジャンルごとに担当する女の店員さんが分かれていて、人気のある女性店員さんが担当する書籍の運搬は、毎朝我先にと奪い合いになった。
 逆に人気の無い店員さんの階は一番最後の後回しになって、仕事が中々進まないとプリプリ怒って、余計に本が中々降りて来ない悪循環が続いた。(合掌)
 当然(?)、僕にもお気に入りの店員さんはいたので、いち早く検品作業を済ませると、素早く各階に分けられた台車の、お目当ての階のハンドルを握った。

 特に人気があった階は辞書や参考書を扱っていた六階…。児童書や教育書を扱っていた五階…。少し下がって歴史書や文庫本を扱っていた三階が“僕らの人気階”だった。
 本の売れ行き的には暇でマイナーな階ほど、店員さんの愛想が良かった。
 結局仕事が忙しいと、人は誰だって自然としかめっ面になる…。今思えば、ただそれだけの小さな違いだったが、でもそんな小さな違いが当時の僕らには大きな違いだった…(若さとはバカさ…)

 一番人気だった参考書・辞書コーナーの六階には、小柄で可愛い妹系の一番人気の店員さん(アイドル)がいて、絵本や教育書を扱う五階には、物腰が柔らかな店員さん(マドンナ)が揃っていた。
 お堅いビジネス書や分厚いパソコン雑誌を扱う階の店員さんは、不思議と扱う本と同じイメージがして、仕事の鬼という怖いイメージがして、あまり人気が無かったのが、今を思うと大変馬鹿らしい…(勿論そんな“違い”は無い。女の人は例外なく。みんな“怖い”のだ…)

 他の各階にもモデルのように綺麗な店員さん、頭の良さそうな知的美人の店員さんは何人もいたが、男はやはり出来る女や遠くに感じる美人よりも、身近で愛想の良い子。
 バイト君なんかに口を聞いてくれないオトナのオンナよりも、気やすく挨拶をしてくれる女の子たちの方が人気だった。(だからツンとすました美人モデルよりも、肉感的なグラビアアイドルの方が男子には人気がある…)

 当時の僕のお気に入りは一番人気の六階の“アイドル”ではなく、児童書や教育書を扱っていた五階の店員さんで、決してとびきりの美人さんではなかったけれど、笑顔がリスやモルモットのネズミ(小動物)のように可愛い、小っちゃな女性のマドンナだった…
 (どうも僕はちょっとだけオーラが地味めな人が好きなようだ…。花屋に派手に飾られた薔薇よりも、道ばたにひっそりと咲く花が心地好い)

 入荷した本の検品作業が終わると、僕は迷わず五階行きの台車のハンドルを握った。


2006/07/27

第二百十六回「在日の女」
 

 (まぁ、色々言い訳を書いたがそーゆ事だ)


 歳の頃なら二十代中頃の、色の白いキツネ顔で線の細い女の人だった。
 名前は知らない。
 とても綺麗な人だったが、派手に着飾る事はなく、どちらかといえば時代遅れの、流行に左右されない地味な装いで、平成より懐かしい昭和の香りがする女の人だった。
 僕はそのアパートの下を通り過ぎるだけの、何処となく薄幸そうではかなげな、その女の人に文字通り傍惚(おかぼれ)をしていた。
 当時はまだストーカー(つきまとい)という言葉は無かったが、それは今でいうなら一種のストーカー行為と判断されて、「気持ち悪い」と済まされてしまうような、とても淡い薄っすらとした感情だった。

 純情のない。1か0(有りか無し)の嫌な時代になった…

 当たり前だが意図的にその女の人の氏素姓を調べるような野暮な真似はしていない。(所詮、自分とは関係のない、窓の外の世界の人だ)
 ただ、たまに買い物に出かけたスーパーやコンビニで出会ったり、銭湯の帰り道にその人とすれ違ったりすると、その日は少しだけ得をしたようなラッキー(幸せ)な気分になれた。
 退屈な毎日を送るだけの当時の僕の暮らしの中で、確かにその人の存在はちょっとした幸福風味のスパイスのようなもので、結局は住む世界が違うすれ違っただけの、縁もゆかりも無い赤の他人だったけれど、今でもその女(ひと)の顔は薄っすらと覚えている。
 (他の窓の外の人たちの顔は完全に忘れた…)

 そんなあの女(ひと)が在日朝鮮人の家系だと知ったのは、随分と後になっての事だった。
 たまに見かける彼女の妹さんらしき女学生が、制服のチマチョゴリ姿で登下校をするのを何度か見かけた。
 (表札には日本名の姓が書かれていた…)
 別にここいら(大阪)ではたいして珍しい事でもない。
 だいたいそれ以前に最初(はじめ)から、彼女はとても遠い世界の人だった。


 何てゆう名前なんだろう?あの人…


 そう思うと窓の外の風景は少しだけ悲しくなった。


2006/07/26

第二百十五回「窓の外」
 
 外界との接触をなるべく避け、近所に住む同郷の友達とたまに遊ぶ高校時代からの友人以外、完全に没交渉になっていた当時の僕は“軽いひきこもり”だった。

 休みの日もあまり外に出かける事はなく、買い出しや銭湯、生活に必要な外出しかしなくなった。
 その癖部屋にいても特にする事がなかったので、見るTVもなくなると、煙草を吹かし、窓から外の様子をぼうっと眺めていた。
 雑多な下町にあるアパートから眺める人様の暮らしは、たいして変わり映えのしない、いつも通りのいつもの風景だったが、それでも通勤や通学する学生や会社員、買い物の行き帰りのおばさんたちを見ると、何となくだが確かに、世の中の時間が流れている事が確認出来て不思議と安心出来た。(世に何事も無し、平穏無事な世の中だった)
 夕暮れ時、皆がそれぞれの棲み家の今日の寝床に帰るのを確認すると、僕はそっとその窓を閉めた…
 そんな風にこっそりと見下ろす外界の風景に、やがて僕は幾人かのヒトに目を止めるようになった。
 眺める方の僕も含めて、人間はだいたいが同じ時間の同じサイクルで、生活を繰り返しているようで、少しづつ窓の外のご近所さんたちの顔を覚えた僕は、駅やスーパーでばったりその人たちと出会うと、「あっ、あの人はいつものあの人だ」と、一方的な親近感を抱くようになった。(無論、むこうの人は僕の存在に気がついていない)
 名前も知らないご近所さんたちに、勝手な妄想の親近感を抱くのはかなり悪趣味な行為だったが、長年連れだった友人たちとさえディスコミュニケーションの没交渉になっていた当時の僕には、それは決してこちらに害が及ぶ事のない、都合の良い間柄だった。

 (見る人…。僕はただただ何かを“見る人”だった…。そんなツマラナイ自分を窓の外の鏡に見た…)

 そんなこっそりと窓から外を眺める、人間観察の人間ウォッチングを生活の一部にしていた当時の僕には、ご近所さんたちの中でも“特別に気になる人”が一人いた…

 それはとても綺麗な女(ひと)だった。


2006/07/25

第二百十四回「窓」
 
 週に一度の缶ビールでの晩酌(※この頃は発泡酒なんて貧乏人の味方の結構な物は無かった)と、月々のショボい貯金だけが楽しみの、寂しい一人暮らしを送る僕だったが、その病んだ不健全な精神(こころ)に反して、適度な肉体労働と早寝早起きの規則正しい生活。肉やコーヒー、アルコールといった贅沢品や嗜好品をほとんど摂らない粗食生活を続けた結果、肉体の方だけはむやみやたらに健全になった。(今は違う)

 バイトから家に帰っても特にする事もなく、銭湯に行った後、スーパーに安売りの特売品を買いに行き、自炊して、晩飯を食べると眠くなるまでぼうっとして、そのまま就寝の寝床に就く…。そんな決まりきった最低限度な暮らし…

 中学・高校時代、あんなに夢中になったTVゲームもいつの間にか“する習慣”が無くなり、もう一つの趣味だった読書も、バイト中にほとんど済ましていたので、家に帰ってまでは“読む事”はしなかった。
 (好きだったお笑い番組も映画も何となく遠ざけて、音楽もあまり新しいものを聞かなくなった)

 急に無趣味になって暇な時間を持て余した。(フェードアウト。もうじき消える…)

 たまにその空いた時間に小説やシナリオでも書こうかなと、ワープロを広げる事もあったが、白紙のページには“書く事”は何も無かった…
 新しいもの好きな友人たちはそろそろ広がりを見せはじめた、ネットの世界にはまっていたようだったがはっきり言って興味は無かった。(今も無い)


 “僕はいつの間にか夢を見る事がなくなった”


 夢を見なくなった僕は、現実の壁にぶち当たる苦しみも無くなった分、喜びの気持ちも無くしてしまったようで、近所に住む友達の部屋に上がり込んでは、冴えない自分たちの人生に落胆の溜め息ばかりをつくようになった。(それは今でも変わらない)

 気がつくと僕は部屋の窓からぼうっと、外ばかりを眺めるようになった。


 (誰かこんなボクをドコかに連れ出してオクレ…)


 (それは地獄でも良かったのかい?ファムファタール…運命を変える女…)



2006/07/04

第二百十三回「凪」
 
 M君との自主映画の共同製作の話が幻と終わって以来、僕の周辺は急速に静かになって行った。

 それまであった遊び(クラブイベントやライブ)の誘いもトント無くなり、僕自身も本屋のアルバイト生活以外、何もしたがらなくなった。
 (なるべく波風を立てぬよう、息を潜め、たまにある誘いも断り続けた。多分このままフェードアウトするつもりだった…)

 そんな消極的な貧乏フリ一夕一生活を続ける僕の楽しみは、たまにする晩酌のビールとこつこつと貯める貯金だった。
 (極貧学生時代から薄給だったAD時代…)
 すっかり貧乏生活が板に張りついていた僕はフリーターになっても、そのままその貧乏生活を続けた。
 (かつかつだったAD時代の給料に比べると、多少収入がアップしたので、その分は使わずにそのまま貯蓄し続けた)

 特に目的(※使い道)がある訳でも無かったが、一人暮らしを始めてから三年。
 その間中ずっと貧乏生活を続けていたので、いつの間にか、無駄な小遣いを使う習慣が無くなっていた。

 (この三年間、貯金なんて夢のまた夢だったのでゼロだった通帳に少しづつでも“数字が増えてゆく事”が嬉しかった…)

 使う事なく貯めた金額はそのまま心の余裕(ゆとり)となり、ちょっとだけ自分も“真っ当な人間”になれた気がした…


 (そんなものはただの気のせいさ…。お前は生まれついての生粋の“野良犬”だ。死ぬまでまだ何者でもない…。僕の映画道の本番はこれから始まる…。もう引き帰せない地獄への道…。Go to hell!映画地獄へようこそ!)


2006/07/01

第二百十二回「卒業」
 
 学生じゃなくなり三年も過ぎる頃、かつて一緒になって映画や音楽、ゲームや漫画の世界に騒いでいた仲間たちが一人消え、また一人居なくなっていった…

 卒業の季節だった。

 まずは純情可憐な男の子を置き去りに、女の子から変わっていった。
 昨日まで一緒になってクラブファッションに身を包んでいたはずのクラブ少女たちは、明日になるとブランド品を派手に着飾る女性(オンナ)になって、まだ子供の僕たちをうろたえさせた。
 そしてそんな少女たちに取り残された哀れな男たちもやがて就職して仕事に忙殺される内に、彼女が出来て子供が出来たり結婚して、少し遅れてモラトリアム(猶予期間)の世界を卒業していった。
 オタクやサブカルチャーといった周辺世界を心の寄りどころに、ただ浮遊してただ漂うだけの無為な生活を送っていた僕たちも“二十代後半という現実”を目の前にして、ようやくこのぬるま湯から抜け出す事を決心した。

 同郷のコントごっこの仲間で、クラブDJの世界にはまっていたまた別のM君はあの震災の後、木造だったアパートを放り出されて、その後しばらくして田舎へと引き上げてしまい。モテない男たちの歌を唄う、テクノユニット三人組はユニットを解散した後、それぞれのソロ活動を続けていたが、ちょうどその頃リーダー格のF君は、学生時代から付き合っていた彼女との本格的同棲生活に突入し、あのT君は僕との映像遊びで悟ったのか?それからはお金にならないようなアングラ活動はなるべく控えるようになり、一人だけ音楽の世界に居残り、別バンドを立ち上げて、今なお音楽活動を続ける…。師匠との出会いのきっかけをくれたT君も、つい先日十年遅れの結婚をした。

 そんな周囲の流れの中でやっぱり僕は一人取り残されて居た…

 それまで自分を主役に生きる事が無かった僕は、またそこから“卒業するための物語”を持ち合わせていなかったようだ。

 僕はここでもまた卒業しそこねた。


2006/06/30

第二百十一回「失踪」
 
 そのM君が僕に見せたシナリオの内容は確か、「ある自主映画サークルの映画の撮影中。突如、その映画の監督が撮影現場から消失・失踪する…」という、一種の蒸発ミステリーで、いわゆるメタフィクションと呼ばれる形式の実験映画だった。

 学生時代にも同様の失踪ミステリー系の作品を撮っていたM君だったので、らしいといえばらしい内容だったが、一読した僕はまずその「らしさ」に引っ掛かってしまった。
 面白いとか面白くないとか、長いとか短いとか、とりあえずそういった事は抜きにして、学生時代の作品から何も変わっていなかった…
 三十代になった今ならばいざ知らず、まだ二十代前半の若者だった当時の僕は、「若者はいつか社会の中で大人になってゆく」という“絶対の常識”が残っていた頃だったので、ついついその成長性の無さを口さがなく指摘してしまった。

 「気持ちは良く分かるけど、内輪受けというか、自慰的というか…。これを撮ってその後どうするの?」

 身のふたもない、僕のあまりにもストレートな感想にM君はふいに黙ってしまった。
 (今だったら、「自慰的行為の何が悪い?」「世の中の正しさなんてたいして正しくない!」とはっきりと居直れるのだが、当時はまだまだ若くて世の中の価値観に対して従順だった)


 “自主映画なんか作ってもどうせ誰も観てくれないじゃないか、一体こんな事して何になる?”


 (僕は当時、自分の中にあったモヤモヤをフィルターもかけずに、同じ自主映画仲間のM君にぶつけただけだ。こんな事を続けて俺たち、一体何になる…)

 僕は感想を述べた後、みるみると沈んでゆくM君の顔を見て、「しまった!」と思ったが、酷く落ち込んだ様子のM君は「後日書き直して来るよ…」と言った切り、「それじゃ…」とその場をあとにした。
 それから数週間経ってもM君からの連絡はなく、やがて数か月の時が経ち、そして遂には数年の歳月が流れ、十年以上の時が経った…
 (あの日を最後に僕はそれから二度とM君とは会っていない…)

 その後何度かこちらから電話をしたが、不幸な偶然なのか、その電話がM君に繋がる事は無く。留守番電話に「また連絡します…」とだけ吹き込む作業を繰り返し、その内に僕の方からも電話をしなくなった。

 あれから十年。

 その後、共通の友人たちから何度か風の噂(その後のM君の動向)を聞く事もあったが、今はもうその噂すら聞く事も無い。

 M君は最後に見せてくれた「あのシナリオ」のように、ほんとうに僕らの前から失踪してみせたのだ…


2006/06/29

第二百十回「M君」

 映像専門学校入学一年めの一年生の時。


 “やる気のテンションが合わない”


 クラスメイトとのグループ制作にすっかり気疲れしてしまった僕は、それ以来作品を個人制作する、一人孤独なわがままな学生となり、二年生に進級する時も迷わずに、作品を一人で作る“個人制作のゼミ”に進級した。
 M君はそんな暗い学生だった僕の、数少ない学校の友人の一人で、学生時代にはスタッフが足りない撮影を手伝ったり、また出演するキャストも足りない、お互いの作品に出演しあったりもする仲間だった。(学生映画によくある光景)

 お互いシャイな性格だったので直接、お互いの作品を批評しあったりする事はほとんど無かったが、共通の友人たちを介して、「アイツのはこうだ」とか「俺のはどうだ」とか、内心意識している“学内という小さなセカイ”のライバル関係でもあった。
 そんなM君とも学校卒業後はあまり会う機会がなく、友人たちから風の噂で、お互いの近況を聞くだけになってしまっていたが、偶然にも二年続けて、学校の編集室で再会する、何とも奇妙な間柄になった。(どうやら僕もM君も何かから卒業しきれなかったらしい…)
 そんなM君からの学校卒業後、三年めの誘いだった。
 (ちょうどT君との映像遊びが終わったばっかりで、再び退屈な毎日に戻っていた僕は、このM君からの誘いを渡りに船と、軽い気持ちでそれを了解した)

 企画・脚本は学生時代から「それは俺の方が上」と自負するM君が書く事になり、僕は学生時代と同じくカメラマン(撮影技術担当)となった。(それは僕の方が上)

 何の文句も無かった。

 (この頃の僕は師匠に続いてT君、そしてM君からも同じように、その企画力・文章力。“才能の無さ”を指摘され続けて、すっかりとシナリオを書く自信も気力も失っていた…)
 誰か(M君)が、脚本を書いてくれるなら、それに越した事はない。

 数週間後、そんなお気楽な僕の前にM君が、シナリオの第一稿(初稿)を持ってあらわれた。


2006/06/28

第二百九回「共同製作」
 
 あの田舎での撮影から数か月後、僕とT君の初めての共同監督作品、「ヤマアラシのジレンマ」がようやく完成した。

 (当初、T君との話し合いでは、編集で約五分位にまとめる予定だったが、完成した作品はその三倍にもなる十五分の作品に仕上がった)

 作品の時間が延びた主な原因は、僕が“音楽合わせの編集”にこだわったせいで、僕個人の“遊びの編集”のせいだったが、構成台本も絵コンテもない、アドリブ撮影の繰り返しの素材映像を“音楽なし”にはまとめようも無かったのもまた悲しい事実だった。

 企画から完成まで約半年間。作品が出来上がった頃には飽き症のT君は(※T君唯一の欠点)、とっくのとうに僕との映像遊びに飽きていたようで、作品の出来にも無関心だった。(たった一言、「長いね」と言った)

 結局、出来上がった作品は、いつものように完成後、即お蔵入りとなって、僕とT君の約半年間に及んだ映像遊びは今回もやっぱり不発に終わった。(創作後のモヤモヤが残った)

 僕はまた元通りの一人に戻って、本屋でただ働くだけのフリーター生活を続けた。

 そんなある日、僕の専門学校時代の同級生で、卒業後も同時期に、学校の編集機材を借りて、自主映画の編集をしていたM君から急な連絡があった。

 とりあえずその日は、「今度酒でも飲みに行こうよ」という話になって、数日後飲みに行った居酒屋の席で、僕はM君からある自主映画企画の“共同製作の話”を持ちかけられた…


2006/06/28

第二百八回「8Mile(6)」
 

 自主映画の世界がそれまでの8ミリフィルムからビデオに変わる瞬間、たまさか“ぼくら”はそこに居た…


 新しく来る時代は“夢と希望に溢れた新時代”といえば聞こえはいいが、新時代は同時に荒野の開拓地(フロンティア)でもあった。
 8ミリフィルムがその存在を過去の遺物とし消え始めた頃、自主映画の世界は徐々に衰退を始めた…(その競技人口を減らした)

 自主映画を作るための新しい技術(ビデオ)には、まだまだ不備が多い時代だった。
 (ビデオカメラ自体の性能は日増しに高機能・高画質となり、バカ高かった価格設定もどんどんと下がってはいたが、高度な編集機能を要する映画編集は、例え自主映画レベルといえども、低価格でその“編集システム”を準備する事は容易ではなかった…)

 一方、十年前にすでに円熟期を迎えていた8ミリフィルムの編集システムは、当時のビデオや16ミリフィルムの編集機材に比べると、比べ物にならない位低価格で、個人でそのすべてを揃える事が可能だった。
 (当時、トータル価格で何百万円、何千万円もする、ビデオ編集システムを個人レベルで所有する事はほぼ不可能に近く、新時代を迎えたはずの自主制作映画の世界は、経済的には昔の16ミリフィルムで、個人映画を作る事しか出来なかった頃のような、一部高額所得者。金持ちにしか行えない“特権的な世界”に一時的に“逆戻り”を始めた…)

 ぼくらのような貧乏人が個人単位で、映画撮影・編集のすべてをするには、パソコンの大容量化。
 “デスクトップ編集の時代”を待たなければならない…

 “たった一人で自主映画を志す者には冬の時代だった”

 ぼくらのような貧乏人はすでに、編集機材が揃った環境(映像学校やプロの制作会社やスタジオ)に寄る辺を求めなければ、ワンカットだってまともに繋げる事が出来なくなった…
 (撮る事は出来るが繋ぐ事が出来ない、あまんじゃくの新時代の始まりだった)

 そんな古くなったフィルムとまだ未成熟だった新しいビデオの“狭間の時代”に、ぼくらは居た…


 “ぼくら”は確かに“そこ”に居たんだ…


 (二十年後の世界にタイムワープ…)



2006/06/26

第二百七回「8Mile(5)」

 家庭用録画機の“主役フォーマット争い”では、ボロ負けに負けた世界のソニーだったが、まずマニアが集まる家庭用ハンディビデオカメラの世界では、AV機器マニアの熱い支持を受けて、一般マーケットでも常にその優勢を誇る“小さな復讐”に成功した。

 そのかつての8ミリの名前を冠する、「ビデオ8(※8ミリビデオ)」が、今度新しく「Hi-8」にとバージョンアップする頃。
 僕は田舎のゲーセン仲間たちと出会い、彼らと一緒にコントごっこを始めて、初めてビデオカメラという作る機械(作る道具)を手にした。
 (僕たちは『見る』だけじゃない、『作る!』ことだって出来るのかも知れないと、田舎のオタク高校生たちはそう考えたのかも知れない…)

 最初は友人の家に置いてあった、もう当時すでに古くなっていたVHS(※フルカセットタイプ)のカメラを使ってコントごっこを撮り始めたが、しばらくするとその古いカメラがぶっ壊れてしまったので、まだコントごっこを続けたかった僕は虎の子の貯金をはたいて、当時の最新機種であったHi-8のビデオカメラを買った。
 (今となってはその新しかったHi-8すら市場には存在しない…)

 その翌年、大阪に進学した友人たちの後を追いかけて、一人映像専門学校に入学した僕は、そこでもう世の中から消えてしまっていたはずの、あの8ミリフィルムカメラの生き残りと出会った。
 (僕は最初、その実習授業で使用しなければならない、8ミリフィルムのカメラを酷く毛嫌いした)

 自分が所有する最新式のビデオカメラに比べると、その機能は随分と不便に思えた。
 まずフィルムはビデオテープに比べてバ力高いし、撮影してもすぐに見れない。(写真と同じく現像に出さなければならない)

 加えてフィルムは編集時に傷がつき易く、貧乏で手先が不器用な僕には、高くて扱い難い、何だか厄介な代物だった。
 (ただ画質だけは断然ビデオより魅力的だった)

 進級する時の授業のコース選択も、迷わずフイルムコースではなくVTRコースに進んだ。
 (8ミリ…。いや、フィルムの時代はもうすでに終わっていた…)

 入学して一年目の春。僕らは実習授業でスーパー8(※コダック社製の8ミリフイルムの規格)のカメラを渡されたが、その一年目が終わり、あくる翌年。突如コダック社がスーパー8のフィルムの“国内での現像処理”を打ち切る事件が起こった。
 (それ以降スーパー8の現像は、ハワイまで送り、フイルムが現像されて自分の手元に戻って来るまで、約一か月近くもかかってしまうようになった…)

 あと日本国内では、富士フィルム社製の「シングル8」という規格の8ミリフィルムが、唯一生き残っていたが、僕が通っていた専門学校では実習授業用のカメラを、すべて画質の良いスーパー8の方のカメラで揃えていた為。
 とっくの昔に生産が中止されていた“8ミリフィルムのカメラ”を今更新しく買い揃える事も出来ずに、僕が苦手だった8ミリフィルムの実習授業は、あっさりと『8ミリビデオの実習授業』に変わった。
 (転換期…。時に時代の流れとは容赦のないもので、古くなったその存在は時代の遺物として遠い過去に追い払われる…)

 その作る道具(ツール)としての役目を終えて、いずれ邪魔者のゴミとして捨てられるだろう、機材室に大量に置いてある。

 スーパー8の8ミリフィルムのカメラを、学生だった“ぼくら”は、ただ勿体ないなと見葬るだけだった…


2006/06/25

第二百六回「8Mile(4)」
 

 『テレビ番組が録画出来る』


 今となっては何を当たり前の事をといった話ではあるが、その当たり前な機能こそ、先行してあった8ミリフィルムメディアとビデオメディアの大きな違い。
 そしてその命運を分けた運命の機能だった。
 (※元々、家電製品のジャンルには入らない8ミリフィルムは、本来写真フィルムの領分に属する映像記録メディアで、実際『動くアルバム』としての、「撮影・映写出来る」という機能のみを追及しており。
 テレビ番組を録画する事が第一目的であるビデオデッキとは、最初からその消費目的がまるで違う“作る道具”であり、類似商品としてその生き残りを賭けて争うようなライバルではなかったはずだ…)

 いずれ市販される、より高価格で、最初はあまり一般的には普及しないであろうビデオカメラで撮った映像も“同じようにデッキでも再生出来る”という点でのみ重なり、その道具としての役割も購買層もまるで違っている。
 (※8ミリフィルムのように撮影機のカメラと、再生機のプロジェクターに分かれていない“ビデオカメラ”という新しい電化製品は、ビデオデッキと対になる事を特に必要としていない、独立して再生も出来る孤立した機械)

 逆にビデオデッキは家庭にある小さなモニターのテレビに繋いで、映像を“見るだけ”の機械。似ているようで実は、その用途は三者三様まったく違う。

 しかし新しいビデオデッキとは、まったく違う道具だったはずの8ミリカメラは、その“わずかに重なった類似性”が仇となり、家庭用VTRが発売されてほどなくして、その生産の永久停止が決まった。(神よ、8Mileのために泣け!)

 テレビ番組(映像ソフト)を録画・再生出来る…
 単なる家電製品であるビデオデッキに比べて、8ミリは個人が(個人で)、そのソフトである映像を“記録制作する”ためだけに作られた、より純粋度の高い機械の道具であり、決してその作る手間隙を惜しまぬ者たちの選ばれし映像ハードだったはずだ。

 しかし皮肉な事にもその選ばれたはずの個人単位の映像制作ハードは、それを選ぶ者たち。
 アマチュア監督や新人監督が大勢集う、8ミリブームのほぼ同時期に出現した。
 謎の家庭用VTRなる“単なる録画機”に、その存在をとって代わられる残酷な運命となり、僕らの自主映画ブームはほんの一瞬に終わった…
 (自らの手で『作り生み出す!』という高まいな思想は、『ただ単に見る』だけの大衆の娯楽に、一時的にではあるが完全に駆逐された…。そんな頃にぼくらは生まれた…)

 その後、高価で低機能だった家庭用のビデオカメラも、画質の向上と小型軽量化。度重なるプライスダウンによって、徐々に一般家庭にその普及を始めたが、新しい松下製の家庭用ハンディビデオカメラのブランド名が、VHSの名を冠する『VHS(C)』であった事に対して。
 ソニー製の新しい家庭用ハンディビデオカメラのブランド名は、あの激しいビデオ戦争の時。β(ベータ)と同じくVHSの登場によって抹消された、8ミリフィルムの名前を冠する『ビデオ8(※8ミリビデオ)』と名付けられたのは、両者の根深い対立と『復讐と遺恨の連鎖』が見え隠れしてマニア的には興味が尽きない…


 (閑話休題の寄り道はもう少し続く…)



2006/06/24

第二百五回「8Mile(3)」
 
 そんな風吹く嵐の8ミリブーム(※自主映画ブーム)の中、家電業界に“新しいヒット商品”があらわれた。

 家庭用VTRデッキ(ビデオ)の登場である。

 当初、家庭用のVTRにはソニー製のβ(ベータ)と、松下製のVHSの“二種類の違うフォーマット”が存在していたが、結局その“ビデオ戦争”を制して、長く広く残ったのは、後発の不利を乗り越えた、松下製のビデオフォーマット。VHSだった。
 (詳しくは映画「日はまた昇る」をご参照あれ)

 しかしながら画質の点では若干VHSを上回っていた、ソニー製のβ(ベータ)は、その後シリーズに改良に改良を重ねて、高画質のマニア専用機として地道に家庭用VTRの世界に残り、遂にはその名を業務用VTRの主役だったβカム(ベーカム)に残す、意地と誇り、恐るべし執念を見せた。
 (業務用VTRの世界では常にソニーは松下の追随を許さず、その後何年とぶっちぎりで圧勝し続けた)

 そんな激しいビデオ戦争の裏側で、それまで家庭用映像記録メディアの主役だった8ミリフイルムは一気に衰退した…
 同じ家庭用映像メディアであった8ミリフィルムとビデオには、その製品の方向性に大きな違いがあった。

 娯楽の王様。テレビとの関係性である…

 (家庭用ビデオデッキの登場後、当然のように対となる商品。家庭用ビデオカメラも登場した…。しかしその登場から数年、ようやく一般市民にも手が届く手頃な値段設定となり、当時爆発的に普及し始めていたビデオデッキに比べて、対となる商品のはずのビデオカメラはまだまだ、売れない需要の少ない商品だった…)

 勿論まだまだ高いビデオデッキに比べても、更に高い商品であった事も売れなかった原因の一つだったが、マニア的にはそれまでの家庭用動画記録・再生メディアだった8ミリフィルムに比べて画質にも劣り、撮影後の編集も上映も更に高価で困難な、使えない“中途半端なメディア”だった。
 (大きなスクリーンでの上映には、更にとんでもなく高価だったビデオプロジェクターが必要)

 しかし何故かそれでも、あっさりと8ミリフィルムのカメラはすべて生産中止となった。(何故だ!)

 ビデオ(VHSやβ)には8ミリフィルムには無い“ある重要な機能”があった…

 テレビ番組を記録出来る機能(※録画機能)である。


 (そして“オタク”が誕生する…。すべては歴史の流れの必然の中。8Mileとはその大河の歴史の流れにあった、ほんの僅かな一瞬の道か…。いつの間にか名前の貰えなかった“ぼくら”は生まれた…。時代遅れの自主映画人だったぼくらは過ぎ去ったカクメイの夢を見るか?)



2006/06/23

第二百四回「8Mile(2)」
 

 (それは伝説…。後続に続く僕たちは先人たちがおこなった革命的行為…。カクメイを夢見る…。風車小屋の風に立ち向かう、愚か者のドンキホーテだ)


 ある日。
 三百年間、鎖国政策を続けたこの国が、たった数隻の蒸気船(黒船)の来航によって、その長年続けた鎖国政策を解いて、国際社会(世界)の一員となったのは、学生時代に歴史の教科書で習う事だが、同じく長年に渡って鎖国を続けて来た日本映画のセカイもついに、その政策(撮影所システム)を解いて、外部にも門戸を開く“解放の日”がやって来た。

 新しい映画監督たちの時代。作家至上主義(作家監督時代)の到来である。

 (監督は偉い。それを作らせる映画会社より偉い。映画業界や映画ファンの見る夢…。吹く風の名前はカクメイ…)

 それまでの映画監督になる為には、映画会社に入社して、監督になる前は誰かの助監督である事が当たり前の“旧態依然とした徒弟制度”から、助監督の下積み経験が無いまま、いきなり監督に抜擢される『映画作家』と呼ばれる人たちがぽつぽつとあらわれ始めた。

 (最初その多くは、コマーシャルフィルムやテレビ映画の世界。演劇の演出家といった、映画とは似て非なる世界からの“異業種監督”というような様相だったが、それら異業種監督とはまた違う順路で、映画監督に選ばれる者たちがあらわれ始めた…。若者のちびっこ勇者…)

 アマチュア監督の“学生映画出身の新人監督”の誕生である。

 彼ら、新人映画監督のキャリアの出発点の多くは、当時一般的に普及していた、家庭用のお手軽ホームムービーである『8ミリフィルム』による、自主製作映画(アマチュア映画)から始まる…
 実際、ネガやポジの無いリバーサルフィルム(※基本的には複製の無い。また出来ない。この世にたった一本しかないフィルム)である8ミリは、映画編集の特性上、シビアな映画制作にはまったくむいていない、単なる家庭用の記録メディアだったが、一般人でも比較的手に入れやすい小型軽量の映像システムで、それを利用して映画を撮る文化。“ぼくらのアマチュア映画”が生まれた…
 (当初それは漫画家や小説家といった文化人、医者や会社の役員といった高額所得者。もしくはそれを父に持つ一部趣味人。マニアによる、かなり高級な趣味というおもむきの印象だったが、そのシステムが広く普及し、プライスダウンした1970年代後半から1980年代頭にかけて、高校生や大学生。学生同士によるアマチュア映画。学生映画の隆盛を極めた)


 それは学生運動の時代(夢)に破れた当時の若者たちを巻き込む、歴史の流れの必然の戦さだった…


 (もう一度立ち向かえと風の声が聴こえる…)



2006/06/19

第二百三回「8Mile(1)」
 
 僕が映像専門学校に入学して、自主映画に目覚めるうんと前、僕らがまだ小学生だった1980年代初頭、世間ではほんのわずかな間だけ自主制作映画ブーム(8ミリブーム)なるモノがあった…

 森田芳光、大森一樹、石井聰互、長崎俊一、今関あきよし、手塚眞人…

 今も一線で活躍する映画人を数々と生んだ。
 当時の日本映画界は長年築いた、「撮影所システム」の崩壊の時で、それまでの東映、東宝、松竹といった、大きな映画会社の組合員(つまり映画会社の社員)しか、監督のメガホンを取る事が出来なかった。(独占企業の抱え込み)

 1970年代、一般家庭へのTV普及率がほぼ100%になり、日本の映画産業が急速に斜陽産業になって、その大手映画会社があまり社員を雇わなくなると(あまり映画を作らなくなると)、行き場を無くした若い才能たちは、次々と独立プロを立ち上げ、大手映画会社以外からの作品(※インディぺント映画)が盛んになった。
 そのインディペント映画と呼ばれる作品群は、その低予算性から、従来の高価な劇場映画用のフィルムの規格(35ミリフィルム)ではなく。
 安価なテレビ映画やニュース用のフィルムの規格(16ミリフィルム)を使用したものが多かった。
 (それ故かそれらの作品の幾つかは、しばしば“個人映画”とも呼ばれた)

 それらの“個人映画”と呼ばれた作品の中には、従来の劇映画のスタイルから大きく逸脱した“実験映画”と呼ばれるスタイルの作品や、革新的な物語やテーマ、撮影手法を取り入れた“アートフィルム”なる新しい映画も生まれた。(それは自主映画黎明期の出来事)

 そしてそのインディペント映画(個人映画)の制作の中で育った、新しい才能の監督(※寺山修司や大林宜彦監督)たちが、従来の“撮影所システム”をぶち壊し、外部からの“雇われ監督”として初めて、大手映画会社の作品を監督し始めたのがちょうど1970年代末の頃だった。


 (革命…。そう、それは日本映画史に残る、革命的出来事の始まりだった)



2006/06/18

第二百二回「トリップ(旅…)」
 
 あてどのない作品のあてどのない編集だったが、それでも一年ぶりの編集遊びは大層楽しかった。

 (ビデオやフィルム、映像の編集を一度でも行った事がある者なら分かるだろうが“自分が撮影した映像”を“自分で編集する”という行為は一種 麻薬的行為である)

 出来上がった映像の世間的なその後の評価や用途、その存在意義のいかんを問わず、作業中は余人を交えず、誰にも干渉されない、本当に純粋なただ一人の世界である…
 (ジョグコントローラーを片手に、モニターとむき合うその瞬間だけが、普段の自分が生活苦にあえぐフリーターである事や、名もなき野良犬の放浪者である事を忘れて、一瞬だけ“世界の王様”となれた)

 その時間の作業中だけは、明日のバイトや今晩の一人きりの粗末な食事の事も忘れて、世界に名だたる映画監督の巨匠たちと、横並びの自分(ジブン)、同じ気分になれた気がした。
 (勿論、作業が終わって狭い風呂なしアパートのいつもの部屋に帰れば、いつも通りの“冴えない自分”が鏡にうつる)

 結局、出来上がった作品は、当時大ヒットする寸前だった、あの「エヴァンゲリオン」の編集をちょっとだけ真似た、作品とも呼べない自己満足の“変てこプライベートムービー”となったが、それでも久しぶりに“楽しい編集遊び”が出来たので、これはこれで良かったと一人納得する事にした…
 編集作業の最終日、T先生にお礼を述べて学校の玄関をあとにすると、何だかちょっぴり寂しい気分になった。

 明日からまたただ働くだけのフリーター生活が待っていた。


2006/06/17

第二百一回「学校」

 とりあえず編集機材に困った僕は約一年ぶりに再び、母校である映像専門学校の校門をくぐった。

 (未だ個人でのビデオ編集機の所有は難しい時代だったので、卒業ゼミの担当教諭だった恩師のT先生にお願いして、放課後空いている空き機材を借りて編集する事を許して貰った)

 当時の(いや、きっと今も)わが母校の校風は、学生の実習作業が盛んでない時期に限り、志(こころざし)あるOB&OGの、自主製作作品の“制作作業を卒業後も支援する”というありがたい方針があった。
 (※ただしお金儲けの商業目的の作業はこれを却下する)
 勿論、今回の編集は商業目的のお金儲けではない。
 僕とT君のただの映像遊び(趣味)である。
 だから学校の先生の許可さえ取りつければ、それは別段違法な行為ではなかった。(なかったが…)
 それでも本屋のバイトが終わって、放課後の学校の門をくぐる度に、何だか申し訳ないような卑屈な気分になった。

 その肝心な志(こころざし)が無かった…

 別に今回のこの作品を完成させたからといって、この先に“何か”がある訳じゃない。
 いってしまえば僕とT君の、とりわけ僕の“自己満足の創作”でしかない。
 完成後、どこかで上映する予定も、その作品をひっさげて、より大きな次回作へと繋げる、プロモーションのパイロット版でもない。
 本当にタダの趣味だった。
 (何かT先生や学校の人たちを騙して、大事な機材をお借りしているようで、ほんの少しだけ後ろめたい気持ちになった)

 隣りの編集ブースでは去年と同じく、同級生だったM君が、ちゃんとした自主映画(ドラマ作品)の編集をしていた。


2006/06/16

第二百回「走る!」

 映画誕生から百余年、『走る!』という行為と映画には密接な関係がある。

 特に劇映画では『映像で物語りを物語る』というその性質から、物語が進み、その物語が疾走する瞬間を、『走る!』という行為そのもので表す事が多い。
 (映画の後半、急に登場人物たちが「走り出す場面」を浮かべて欲しい。映画でもドラマでも沢山あるはずだ)
 アクション映画でも青春映画でも、恋愛映画だって、その物語がクライマックス(最高潮)に走り出す瞬間、主人公や登場人物たちが文字通り走り出す映画は珍しくない。
 台詞の無いサイレント映画の全盛期。
 チャップリンもロイドもキートンも(本邦の喜劇王 エノケンだって)、映画スターはみんなみんな全力でフィルム(映画)の中を疾走していた。
 今だってアクション映画の終盤にはカーチェイスはつき物だし、サイレント時代の映画(特にチャップリン)に強い影響を受ける、ジャッキー・チェンの大傑作「プロジェクトA」には、自転車で逃走する(疾走する)、アクション映画屈指の名場面がある。
 (その初登場時に、一部の邦画マニアの間で、天才と騒がれたSUBU監督の一連の映画。「弾丸ランナー」「ポストマンブルース」等も、その映画の基本形に戻ったような作品群で、映画において、『走る!』という行為がいかに相性が良いのか?映画的であるかを再証明するような秀作の佳作だった)

 そもそもその映画史において、あの有名なリュミエール兄弟(※世界で一番最初に映画興行をおこなった人物)だって、その早初期には“スクリーンにただ蒸気機関車がむかって走って来るだけの映像”を、映画(シネマトグラフ=動く絵画)だと言って、見せ物興行していた。
 (つまり、「走る」という行為と映画はその出自から言っても、切っても切れない深い間柄にある)

 そんな物語性の無い、「走る!」だけの僕とT君の撮影した映像を、僕が責任を持って一人で編集する事になった。
 物語もセリフも、絵コンテ(※カットの割りふり)も無い、とりとめもなく気まぐれに撮られた映像の断片を、どう一本の流れの『作品』にまとめたものか?

 安請け合いした僕は酷く困ってしまった…


2006/06/15

第百九十九回「走るメロス(3)」
 
 田舎町での撮影中、僕の父親には週刊誌でも読んで貰って、車の中で待っていて貰った。

 両腕に手かせをはめてヨタヨタと走る、我が息子の姿を見せるのが恥ずかしかった。
 河原での撮影が進んだ昼時、母親が弁当にとむすんだおにぎりの包みを持って、父が車の中から降りて来た。
 車の中から撮影の様子を眺めていた父は案の定、「何をしているんだか?」というような顔つきだったが、ぶっきらぼうに弁当を置いていくと、もそもそと車の中に戻って行った。
 撮影の水をさされた僕たちは、ちょうどお腹もすいた頃だったので、芦田川の川べりに座ってそのおにぎりをパクついた。
 僕は偏食家のT君が、他人の母親が握ったおにぎりに嫌な顔をしているんじゃないか?と、隣りのT君の顔色をうかがうと、T君はおもむろに、「昨日寝る時には明日の撮影が始まらなければいいなぁと思ったけど、始まれば始まったでやっぱり楽しいもんだなぁ」とポツリつぶやいた。
 僕は内心、僕だけの妙なこだわりで、わざわざ僕の実家の広島まで、あまり乗り気じゃなさそうな、T君を呼び付けてしまって悪かったかなぁ…という罪悪感があったので、このT君の一言を聞いて、何だかほっとした。
 そして実は僕も撮影前夜には、そういう風に一瞬ネガティブに考えるタイプだったので、いつも飄々として、どんな場所や状況でも臆さないように見えるT君が、実は自分と同じような事を思っていたのがとても意外だった。(彼も人なり我も人なり)
 ちょっと遅めの昼食を済ました僕たちは、その後撮影のロケ地を転々と変えて、その日の撮影はすべて無事に終了した。

 翌日、僕はT君を駅まで見送ると、もう何日かだけ実家に滞在して、数日後一人、大阪の部屋へと戻って行った。


2006/06/14

第百九十八回「走るメロス(2)」
 

 距離感が足り無かった。


 艱難辛苦を乗り越えて、約束の地で再会する…。二人の物語を台詞無しで表現するには、走る男A(メロス)が、どれだけの野や山を越えて、男Bの元までやって来たのか?
 映像そのもので表現する必要があった。
 (撮影中、このまま山の中をただ走っているだけでは、その距離感が出ない事に僕らは気がついた)
 しかし、だからといって、このまま山を降りて京都の町中を走る!という訳にもいかず、(京都の町の風景は、古いには古いが純和風の古さ)
 周辺に土地勘のない僕らは酷く困ってしまった…
 それならばと、僕はT君に、僕の地元(広島)まで「撮影に来ないか?」と誘った。
 広島の地元になら、それらしき風景に幾つか心当たりがあった。
 それから数週間後、僕は先乗りで田舎に戻ってロケハンをした。(その田舎の映りの悪いテレビ瀬戸内で、例のエヴァンゲリオンの最終回を観た…。何だこれ?)
 子供の頃 遊んだ野や原を思い出す限り、自転車(ママチャリ)で一日中、市内の端から端まで走り回っては写真に撮って使える風景かどうかを確認した。(ロケハンした)
 それから数日後、T君が我が家を訪れた…
 ただでさえ友達が少ない我が息子を、わざわざ遠方から訪ねて来た僕の友人に、せめてご馳走でもと僕の田舎の両親が、地元の新鮮な魚介類をふる舞ったが、偏食家のT君は「いやぁ俺、ナマモノ苦手なんすっよ」と、明るく人当たりのよい態度でやんわりと断って、相変わらずその如才のなさを僕に見せつけてくれた。

 撮影の当日は僕の父親が車を出してくれて、広い市内に転々とあるロケ地を、ワンカットワンカット撮影しながらのんびりと移動した。
 その移動の車中、都会育ちの都会派のT君は、僕が生まれ育った田舎の町を見て、「俺、こんな所でずっと生活出来そうにないなぁ」とポツリつぶやいた(…)
 そして何故かその後、何となく話の流れが僕の将来の話になってしまって、T君は僕に、「自分はシナリオや物語を書いたりするよりも、編集や撮影の方がむいているよ」と、隣りの父親の手前、言い方こそはソフトだったが、「自分には映画や小説の才能はないね」と手厳しく断言された。
 (そういえば以前 同じシチュエーションで、師匠にも同じような事を言われたっけ…)
 もうそんな事はとっくのとうに分かっていた僕は、そのT君の友人としてのアドバイスに、「でも、カメラも編集も大した事ないから…」と小さな声で応じた。
 (結局 結果的に、僕はこの時の言葉だけ、年下年上友達のT君や師匠の的確なアドバイスに、逆らう道を進んでしまった)

 隣りでは僕の寡黙な父が黙って、次のロケ地まで車の運転を続けた。


2006/06/13

第百九十七回「走るメロス(1)」
 
 へんな映像。「ヤマアラシのジレンマ」の撮影はまず、T君が居住する京都の山奥でおこなった。

 (台本も脚本も何も無かった)

 お互いが着る衣装と撮影地のロケーションだけを決めて、後は適当にカメラを回すだけの、いい加減な素人撮影だった。
 内容も、「走れメロス」よろしく、僕が扮する“登場人物A”がただ野山を走り回り、T君が扮する“登場人物B”の元までたどり着き、友情のクロスカウンター(?)
 お互いの顔面を力一杯ぶん殴るというだけのへんてこなシロモノで、原典となる、「走れメロス」の中にあった、主人公のアンビバレントな“二律背反の心の葛藤劇”や、その繊細な心理の流れといった、文学的なテーゼは何も含まず。
 ただただ上辺の形だけを真似た形状的なダメ演出で、いちおうメロス役の僕は中肉中背の貧相なオタク体型で、山中異界を意味も分からず一生懸命走り回った…(ようは中身がなく、器だけの空っぽだった)

 その撮影方法も僕が被写体の時はT君がカメラを回し、T君が出演する時は僕がカメラを回して、いい年をした大人二人が、お互いを撮り合う、本当のお遊び撮影で、事前に書かれた絵コンテすらなく、二人が思いつくままに撮りたいカットを撮影した。
 ただ、何故かその時のT君は、ビデオカメラをほとんど使った事がなかったので、(映像マスコミ系の専門学校出身なのに)
 ワンカットワンカット、その機材の取り扱い方や、アングルやカメラワークを教えながら、何度も何度もリハーサルを繰り返し、少しずつ撮影を進めた。
 (そういえばT君はその音楽活動でも、一人だけ作曲をしない。サブボーカル兼ダンサー&工作担当といった“特異な役割”のバンドメンバーだった)

 T君はなんか不思議なヘンテ子だった。

 その結果。「走り疲れた登場人物Aの僕が、走るのを辞めて、その場にガクリとひざまつく」というカットの撮影では、カメラとのタイミングが合わず、何度もミステイクを繰り返して、僕はその後五年間に渡って“膝に爆弾を抱える”後遺症の古傷を負ってしまった。(アホだ)

 そんないい加減な二人の映像遊びだったが、その設定上、ロケーションだけは手を抜く事が出来なかった。
 「走れメロス」という「小説の寓話」を下敷きにしている以上、西洋風とはいかないまでも、都会や現代の風景(アスファルトや自動車、日本家屋等々)
 雑居物が写り込む背景での撮影は避けなければならないという難題があった。
 もしそこまで手を抜いてしまったら、お遊びというよりも更に“ただの悪ふざけ”になってしまう…
 (何しろ物語性の無い、行き当たりばったりの素人撮影で、出演は中肉中背の謎のアジア人二人だけときている)
 だからそこだけは少しこだわった。

 こだわってわざわざ僕の実家(広島)まで出かけて、エキストラカットの追加撮影をした。


2006/06/12

第百九十六回「T君」
 
 T君とは以前、僕が勤めていた師匠の会社で知り合った。
 (一つ年下で、違う映像系の専門学校に通っていたT君は、一歳違いの同級生で、僕が入社する以前からその番組制作会社に“美術小道具のバイト君”として出入りしていた…)

 会社では数少ない同年代の同性という事もあって、師匠や上司に怒鳴られ、師匠の奥さんや事務の女性から軽蔑される毎日を送る当時の僕にT君は、一服の清涼剤(心のオアシス的存在)だった。
 T君は年齢こそ僕より一つ年下だったが、田舎育ちの劣等感で、自意識過剰の僕たちよりずっとオトナで、同じ穴のオタクといってもその立ちふる舞いは洗練された都会派のオタク。いわば風流人(※ハイクラスのオタク)だった。

 会社でも空回りを続け、みそっかすの僕なんかとは違い、師匠やその奥さんにも覚えがよく、遠すぎずまた近づきすぎないように、微妙な立ち位置のバイト身分を確保していた。
 (無料奉仕のボランティア軍団とはまた違った、バイト君だった)
 そんな年下年上のT君に当時の僕はよくお説教をされた…
 徹夜が続く不規則なAD生活や、小さな会社の人間関係の不馴れに疲れた僕が、甘えた自暴自棄な態度をとる度に、「それは大人じゃない」と正しい人の道を教えてくれた。
 それは決してただ上から物を言うような小言の正論ではなく、同じ目線からのダメ出しだったので、ひねくれて屈折した僕のような人間にも、比較的分かり易く、不思議とスンナリ聞き入れる事が出来た。
 (そしてそれは本当にその通りだった…。他人に言われなければ、一生気がつかない事だって“ジブン”にはあるんだ。人に厳しい言葉を言われれば確かに傷つく…。しかし傷ついて“気づく”事もあるのだ。厳しい言葉を投げかけてくれる友は人生の宝だと知って欲しい…。三十を越えた今になって強く思う。何故あの頃、僕たちはそれに気がつかなかったのだろう…)

 大袈裟じゃなく当時の僕にとってT君は、精神的支柱の人物(友達)だった。


2006/06/11

第百九十五回「ヤマアラシのジレンマ」

 本屋でのアルバイト生活を始めて一年後、僕はAD時代に知り合った友人のT君と一本の短編映像を作った。

 タイトルは「ヤマアラシのジレンマ」

 出演は僕とT君の二人だけの“自作自演の自画撮り作品”だった。
 (T君は例のモテない男たちの歌を唄う、テクノユニット三人組の一人で、あのバブリーで怪しいネットワーク構想に一枚噛んでいた謎の京大生の連れで、例の撮影と編集のバイトを斡旋してくれた張本人でもあった)

 神戸に実家があるT君はこの頃、フーテン暮らしの真っ最中で、地震で家を失った訳でもないのに、定職を持たず、決まった住居も定めず。
 友人の僕らでさえ、何をどうやって糊口をしのいでいるのか分からない風来坊の、若げのいったりきたりを繰り返していた。
 (確かこの頃は、謎の京大生の坊さんと京都の山奥で共同生活を送っていた)
 所属していたテクノユニット(バンド)が解散したばかりで、暇を持て余していたのかT君は、同じくフリーター生活で暇を持て余していた僕に“映像遊び”の話を持ち掛けてきた。
 この頃の僕は本屋のバイト以外は何もしたくない、精神的ひきこもりを続けていたが、数少ない友人との遊びの話に、にべもなく飛びつきそれを、軽い気持ちで了解した。(たいした内容の作品でもなかった)
 何故かこの頃、「走れメロス」を気に入っていたT君は、その「走れメロス」みたいな映像(?)が撮りたいと言った。

 (今更、説明するまでもないが、「走れメロス」は日本の現代文学を代表する作家の一人、太宰治の有名な短編小説だが。T君がいう所の「走れメロス」とは、それを原作とする劇場用アニメーション映画の事で、いわゆる“文学”ではなかった)

 世間ではちょうど、あのエヴァンゲリオンが一大ブームを巻き起こす直前の寸前だったが、何故かそんな頃にT君は、数年前にひっそりと公開された“マイナーな劇場アニメ”をリスペクトしたがった。
 (T君は僕の田舎のコントごっこ仲間たちとはまた毛色が違ったタイプのオタクで、ちょっと浮き世離れした感じのヘンな人物だった)
 流行に左右されない…。
 何故今、「走れメロスなのか?」は、イマイチ理解出来なかったが。(それは今だに分からないが)
 僕はトモダチのT君と一緒に“大好きな映像遊び”が出来れば、それだけで満足だったので、その内容は別に何でも良かった。
 (どんなに大ブームを起こした作品を“見る”よりも、どんなに小さな自主映画でもやはり“作る!”事は楽しい)
 この頃僕は盛んに、打ち合わせと称しては、T君が居住する京都の山奥までわざわざ通った。

 寒い真冬の頃だった。


2006/06/10

第百九十四回「成人式」
 
 延長戦につぐ延長戦で“劇場版二作目”で、その物語は一応決着した。

 ただ、もうそれはそのブームの騒乱自体を色濃く反映した内容で、結局誰もが観たかった“純粋な最終回”とはとてもいえなかった。
 簡単にいうならファンにとってはただの蛇足。観なけりゃ良かった最終回(ほんとう)だった。
 (知らぬが仏、いわぬが花。幽霊の正体見たり枯れ尾花という昔の言葉もある)
 アニメファンが期待した大ストーリーの大エンディングもなければ、サブカルと呼ばれる人々が期待した霊的な精神世界の顕現(高尚な思想)も無く。
 観客全員がそのアニメ監督本人の内面世界や近況をのぞいていた、『ぼくらがストーカーだった!』という、野暮天クソくらえな内容で、結局背広にネクタイをつけた人が一人勝ちをして、十五年ぶりに起こった“アニメ特需”の経済効果(夢)は終わった…

 (業界の見る夢。ファンの見る夢。そんな世間に揺らぐアニメ監督の見る夢。夢、夢、夢。まさに夢のアニメだった、ぼくらの新世紀エヴァンゲリオン…。夢ならばいつかは醒める。あさきゆめみし…。あれは夜明け前の暁の頃…)

 狂熱だったエヴァブームが去り、それが“風が運んで来た夢”だった事に気がつくと、それまで口角に泡を飛ばして口々に“俺たちの最終回”を主張していたファンたちは、自分たちが作ったブームに“自分たちが踊らされていた事”に気がついて、それ以降急速に誰もその作品の事を語らなくなった…(そして誰もいなくなった)

 あれから十年以上が過ぎた…

 今思えばあのブームの騒乱とその終焉こそ、僕らのような現在三十代の“アニメ世代”と呼ばれたオタクたちがそろって、大人に変わる瞬間(成人式)だったような気がする。
 ちょうど最初のアニメブーム(ヤマト・ガンダムブーム)の頃に物心がつき、それからその世界を卒業しないまま、二十歳を過ぎても僕らは、その周辺世界に浮遊し続けてきた。
 劇場版の最終回はそんな僕らに、「とっとと出ていけ!」というような、オタクの先輩たちからのキツいお叱りだった。
 (ついでにアニメオタク第一世代であった監督本人も、一時的にアニメーションの世界から旅立ち。一時的に実写映画へとその活躍の場を移した。約束…。あの不完全に終わった“最終回の続き”を、いつか違う作品で答えてくれるのではないかと、追いかけたファンたちもいたが、監督がその答えを明確に答える事は無かった…。映画監督は神ではなく、映画監督もやはり、迷える人の子だった…)

 結局、あのブームの時に対立し、一緒になってバカ騒ぎをしたサブカルチャーと呼ばれる人たちも、いい歳こいて、他人が作った作品やムーブメントを、ああだこうだと自らのアイデンティティにしている、僕らオタクと同じ穴のムジナで、元をただせば同じ所から生まれた兄弟(ブラザー)だった…
 多少センスが違う、オシャレかオシャレじゃないかというだけで、自らは何も生み出さない、神だのみの他力本願な存在だという事に何も変わりはない。(坊やだからさ…)
  小学生の頃、「機動戦士ガンダム」で入学して以来約十五年、すっかりオタク学校の大学生になって、更に留年を繰り返していた当時の僕たちは、いい加減その幼稚な世界(他力本願な世界)から卒業する時期が来ていた。

 アニメが幼稚なんじゃない…。ぼくらが幼稚だった…

 (答えとはいつだって簡単明瞭なものだ。あの時は簡単すぎて誰もそうは答えれなかった…)


 追記…この原稿を執筆した数年後、再び「新世紀エヴァンゲリオン」は完全リニューアルの再映画化を始めた。監督は作品(エヴァ)に乗ってエヴァに帰って来た…
 (ただし、新しい作品は以前のような大ブームにはならなかった。狂熱の風はあの日過ぎ去って行った。僕らの心にあった“何か”を連れて…。その何かとは何か?『blowin' in the wind』。風だけが知っている…)



2006/06/09

第百九十三回「最終回」
 
 (アニメ・漫画・ゲーム・特撮・ホビー・映画・SF・幻想・文学・音楽・オカルト・ミリタリー・エロ・言論系ete…)

 文系から理系、芸術から思想哲学。
 普段、アニメなんかと言って、日本のアニメを小バカにして見ないような、ありとあらゆるジャンルのマニアたちが、エヴァンゲリオンという一本の傘の下に全員集合した。
 そして各々に、「これは自分たちの為に作られた作品だ!」と、その“語る権利”の“所有権”を主張しはじめた。

 (第一次エヴァンゲリオン分割戦争勃発!)

 勿論それまで世間の冷たい視線を背に、長年業界を支え続けたアニメファンたちは“普段自分たちアニメファンを小馬鹿にする”
 遅れて来た失礼な乱入者たちに、黙ってその島(エヴァンゲリオン島)を開け渡したりする訳もなく、雑誌誌面やネットを舞台にオタク史史上最大の舌戦。
 ののしりあいの大戦争(グレートウォー)が勃発した!
 (それは一種異様な代理戦争だった。たった一本のアニメ作品に良識があるはずの大人が狂っていた)
 そんな不毛な代理戦争の原因はすべて、その番組の“不完全に終わった最終回”にあった。

 作り手が作った番組自体は例えどんな裏事情があろうとも、オンエアの最終回をもって一応の終わりとなる。
 だからそれから後は、本来 視聴者(ファン)一人一人の、心の中に残る番組の記憶の問題であって、普通なら決して違うファン同士が対立するような大問題にはならない。
 (コレクターならそのソフトを買ってマイコレクションの一本にくわえ。ただのファンなら昔観た思い出のTV番組の一本として、記憶の中で延々と咀嚼反復し続けるのが従来の番組の楽しみ方といえるだろう)
 ただその最終回がいただけなかった。
 大人の裏事情で“不完全に終わったTV版の最終回”に、ファンたちの不満が爆発し、一斉に俺の私の“MY最終回”を語りだした。(騙りだした)

 映画やドラマなんてものは所詮、観た人間一人一人の解釈であって、実際のフィルムや記録媒体に定着した映像以外に、正解なんてものは初めから存在しない共同幻想の夢だ。
 そんな当たり前の初歩的な事も忘れて、僕らはみんな“実在の映像として存在しない”
 夢幻(ゆめまぼろし)の“真実の最終回”を探して、勝手な答え合わせをファン一人一人が各自始めた…
 勿論、個人の心の中にしか存在しない、真実の最終回に“たった一つだけの正解”なんてものがあるはずもなく。
 百人語れば百通りの、千人騙れば千通りの解釈。
 真実(ほんとう)の最終回があるだけだった…
 結果、いっこうに意見がすり寄らない僕たちファンはイラだって、その答えを事もあろうに直接、原作者でもあるアニメ監督本人(神)に求めてしまった。
 それこそが最も不毛な事であると知らずに。(僕たちは皆馬鹿だった)

 当初、その監督は何も語らず、何も答えなかった。
 (当たり前である。映像の監督ならその答えは、映像によってしか答える事は出来ない…)
 オフィシャル(公式)な正解が得られない事によって、ブームはますます加熱して行った。
 みんなどうしてもその答え(真実の最終回)を知りたがった…
 (そして罵詈雑言。ファン同士がお互いを誹謗中傷する電子メールが日本中を飛びかった)

 見ざる、言わざる、聞かざるが賢き事だと、子供の内は分からない…

 知りたがる、観たがる人間が大勢いるという事はつまり、映像商品としてビックビジネスになりうるという産業の鉄則から、一度は終わったはずのTV番組は劇場版にと姿を変えて、そこで“真の最終回”を迎える大人の段取り(※映画興行)が組まれる事になったが、この劇場版がまたいただけなかった。(油に“火”を注いだ)

 ふと気がつくと、そのたった一本のアニメ作品と監督の背中には、ありとあらゆるジャンルのマニアたちの身勝手な欲望と妄想のまなざし(期待の視線)がむけられていた。


2006/06/08

第百九十二回「エヴァ」
 
 放送開始当初、そのTV番組を熱く注目して観ていたのは既存のアニメファン(アニメ漫画オタク)だけだった。

 爆発的なブームになったのはオンエア終了の直後からで、それまではアニメファンと特撮ファン。アニメも観る映画ファンといった、一部の好事家(※マニア)だけに支持される、ただのローカル番組に過ぎなかった。(TV東京系列という時点で全国区にはなりえない)

 「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガンダム」に続く、アニメ史史上、第三番目の大ヒット番組の内容を今更説明はしないが、アニメ業界的にはガンダム以来となる、約十五年ぶりの大ヒット作品となって、年々先細りする業界や周辺業界を久々に活気づけ、経済的にも大いに貢献したそうだ。
 (当時としては異例の、一般ビジネス誌にもその盛況ぶりはフューチャーされた)
 僕もまぁ、それなりに一生懸命に観ていた。
 有名な最終二話の破綻はともかく、途中まではマニア心をくすぐる“普通に良く出来たSFアクションアニメ”だったと思う。(偉そう)
 勿論、周辺業界である出版業界にもそのブームの波はいち早く到来した訳で、特にキャラクターデザイナー本人が描く“コミックの第一巻”はとんでもないハイペースで増刷され、完売し続けた。
 (まだDVDではなくマニア専用機の“LDの時代”で、実際には全国放送されていなかった事も“コミックの売り上げ”に拍車がかかった。大フィーバー来た!)
 ただ、それだけなら勿論『事件』とは言えない訳で、「みんな儲かって良かった良かった」で終わるのだが“僕ら”の問題はこれからだった。
 当初、在来のアニメファンと一部好事家だけのものだったはずの作品に(※作品の論評に)ありとあらゆるジャンルのマニア(サブカルチャー軍団)が乗り込んで来て、大乱闘スマッシュブラザース。

 空前絶後の兄弟喧嘩(お家騒動)が始まった。


2006/06/07

第百九十一回「流行」
 
 震災にオウム、世の中を揺るがす大事件を背に、遅れて来たバブル世代の僕らは“人生最後の春”を謳歌していた。

 バンドにDJ。いつの間にか音楽に青春を捧げるようになったかつてのコントごっこの仲間たちは、イベントや恋愛に忙しく、自分たちを主人公にうたかたの時を過ごし、僕だけがぽつねんと取り残されていた。
 その小世界の流行の流れに乗ろうと思わなかった訳じゃない。
 ただ行く度にフロアに流れる流行りの音が変わり、その変化のスピードに時代遅れの僕はとてもついて行けなかった。
 特に当時のテクノ系のDJの世界は節操がなく、メディアでカリスマDJやミュージシャンが新しいワードを口にする度に、翌日にはその音(更に詳細なジャンルの曲調)が主流になり、昨日まで新しかったはずの音楽が、今日にはダサイ音へと成り下がって、翌日には誰もその曲で踊らなくなった。
 結局全員、その世界の頂点にいるカリスマDJに踊らされていた。(自分が無かった)
 それでもみんな必死になって“メディアの人”が牽引する、その流行のサウンドを追っかけては、クラブファッションに身をつつみ、輸入レコード店でアナログ盤を買いあさっては(ロクに視聴もせぬまま)、誰かの言葉通りCDやレコードを自分の部屋の棚に買い足し続けた。(ちょっと格好悪いぞ、俺たち)

 “それでも僕らはみんな何かになろうと必死だった”

 世間ではオウムの事件をきっかけに、また再び“オタク狩り”が始まっていた。
 (※メディアによる魔女狩り裁判を引き起こした、あの幼女誘拐殺人事件の再来。オタク=犯罪を引き起こす。実体なんかない世間の論調)

 元々、ゲームや漫画・特撮やアニメ好きで繋がっていた“ゲーセン仲間”の僕たちは、その社会に恥ずかしい出自を隠そうと、過剰に違う自分を演出していた…
 そんな今となっては懐かしい1995年。
 “一本のTVアニメ”がテレビ東京系列で始まった。


 「新世紀エヴァンゲリオン」


 それは“事件”だった。



2006/06/07

第百九十回「廃墟」
 
 会社を辞めてフリーターになった僕は相変わらず食うために本屋でのアルバイト生活を続け、たまに友人たちのクラブイベントやライブ出演に付き合う、酷くうつろな“主体性のない毎日”を送っていた。

 業界で働く友人たちや元いた会社の関係者から、撮影助手のバイトやイベントの手伝いを頼まれる事もあったが、どれも一・二度引き受けると、あとは面倒臭くなって全部断った。
 誰かに、何かに、心乱される事を怖がった僕は、生活という殻に籠って、一人外界に出る事を嫌がった。
 (引きこもりやニートなんて言葉はまだ無かった)
 起伏のない機械的な労働や単調な生活のリズム、その繰り返しが心地良かった。
 (くたびれるにはもう少し早く、ただ若者である事にはちょいとばかり疲れていた…)
 ブラウン管を横目に眺めると、ニュースやワイドショーが(いわゆる世間が)、例の教団と戦っていた。

 (カルト教団が存在する事自体の犯罪性の有無や、言論や報道の自由を声高に叫ぶ専門家。世間の代弁者たちのコメンテーターたちは、ひたすら正義に真っ直ぐで。犯罪の隠蔽工作や教団の維持に奔走する。教団幹部たちもこれまたしぶとく、シロを叫び続けていた…)

 シロでもクロでも、ポチでもタマでも、もう何か別にどうでも良くなった…

 「どっちにしたって結局は人間のやる事じゃねぇか」

 当時、無頼を気取っていた僕は、社会正義について考えるのが面倒になって、うるさいTVのスイッチを消した。
 本屋でのアルバイト生活が落ち着いたら、一度田舎の実家に帰ろうと思った。

 あの阪神大震災から数か月が経ち、多くの区間が運休になっていたJR神戸線も、復線中のわずかな区間を残して、在来線(鈍行列車)の平常運転が再開していた。
 僕は在来線で帰郷する途中、路線の復旧作業がまだ終わっていない区間を、乗り継ぎバスで次の駅までむかう事になった。
 駅からバス乗り場まで歩く道の途中や、移動するバスの窓から見える風景のあちこちには生々しい震災の痕が残っていた…
 焼け崩れたままの瓦礫の山が、人の住む家やマンションの間にポツンポツンとそのままあった。
 (モニターの中の論争とは違う…これはリアル…)
 百貨店や雑居ビルの真ん中の階がひしゃげて無くなり、今にも倒壊しそうな危なげな状態でかろうじて残っていた。

 そんな空襲のあとのような風景の中を、神戸の人たちは当たり前の顔をしてすいすいと渡っていくので、バスの中から僕たちは不思議そうにその廃墟の街を眺めた。


2006/06/07

第百八十九回「空虚」
 
 あの地震(阪神大震災)から数か月も経たず、再び世の中を揺るがす大事件が起きた。

 地下鉄サリン事件。

 新興宗教による無差別テロという前代未聞の犯罪に人々は驚愕した。
 カルト教団の人々が起こそうとした大殺戮の動機を、当時の人々は誰も理解出来なかった。
 高学歴、高収入。現世では高い社会的身分にいた彼の人たちが、何故あのような成功するはずも無い、マンガチックでずさんな荒唐無稽なクーデター(革命)を企てたのか?
 何故、あんな見るからにペテン師然とした尊師なる人物に、いとも簡単に洗脳・扇動されたのか?
 事件から十余年が過ぎた現在(いま)でも、それを明確に説明出来る者はいない。
 (リアル二十世紀少年。アサハラはトモダチ)

 約束された将来、安定した暮らしを捨てて、彼の人たちはその教義に何を求めたのか?
 無差別大量殺人というテロリストの汚名を末代まで負って、殉教者にならんとしたのは何故なのか?
 当然、フリ一夕ー兼自主映画青年転じて、今やすっかりとふやけた“野良犬自主映画中年”になってしまった“僕”なんぞに分かる訳もない。
 (野良犬は路地裏の裏通りをフラつくだけさ。そして人間様が住む、高い塔の高層ビルを見上げる…。自分とはまるで関係のない人間たちのセカイ)


 「一体、何が不満だったんだろう?」


 (所詮、捨てられた犬の野良犬なんかにゃ分かりやしないさ…)

 僕たちがそれまでの歴史の教科書に習った“市民による革命”の多くは、飢えとか貪困とか、階級差別を原因とし。農民や労働者(迫害された者たち)が、現体制や支配者に、その積もりに積もった積年の恨みつらみを晴らすべく、またその暮らしぶりや生活そのものを改善するために一致団結。武力をもって蜂起する“階級闘争の歴史”だと習ってきた。
 (それなら野良犬にも分かる。いつも飢えた腹だもの。今夜の寝床だって欲しい)

 しかし富裕層で構成されたカルト教団。
 だとしたら彼ら信者たちは“何”に迫害され“何”に飢えていたというのだろうか?
 (野良犬は革命の夢を見るか?)

 自分たちだけの国(秘密基地)を築き、山奥で自給自足の修行生活を送り。
 アニメや漫画をつぎはぎにしたような思想的革命を夢見る幼児性と、それに相反する経済力と実行力。
 この国の経済の高度成長期に生まれ、子供の頃から何不自由せず、学歴社会、管理教育、その受験戦争を勝ち抜いて、バブルの真っ最中に大人になった、人生の勝利者であるはずの彼の人たちに、一体この国の風景はどのように見えたのか?

 (次世代に残すべき風景は何処にあったか…)

 乱立する高層ビル群をもう一度 瓦礫の野原と帰し、すっかり広くなった東京の空を誰かが夢想している…


 野良犬の僕はそれを見上げる…



2006/06/07

第百八十八回「訃報」
 
 それは小学生の時に読んでいた、月刊少年ジャンプに載ったある訃報記事だった…

 その頃、ちばあきお先生は、月刊の方のジャンプに「ふしぎトーボー君」というタイトルの、動物とお話が出来る少年の不思議な日常を描いた、(更に)地味な漫画を連載していた。
 永井豪やみやすのんきのエッチな漫画を目当てに買っていた、当時小学生高学年の僕には、その宮澤賢治の童話のような、牧歌的な小世界を描いた詩的なファンタジー漫画は難しくて、まだその面白さはよく分からなかった。
 だからその時も「ああ、この人死んだんだ」とその死因や理由をあまり気には止めなかった。
 正直、悲しくはなかった…
 知らない人が知らない所で知らない内に死んだ、ただそれだけだった…
 (数年後、その死因が創作上の苦しみからの自殺だった事を知ったが、その時も「へぇ」と感心しただけで特別悲しくはなかった。薄情な人間でごめんなさい…)
 作品の熱心な読者でもなければまた、まだ幼かった僕は漫画家の、人の死というものがよく分かっていなかった。
 (その後長じてから、手塚先生や藤子・F・不二雄先生がお亡くなりになった時には、ものすごく悲しかったのに、訃報記事を読んだ小学生だった僕はちっとも悲しくなんかなかった…)

 それから十年以上の歳月が流れて、古本屋で買った「プレイボール」の最終巻を読み終えた時、僕は初めて先生の死が悲しくなった。
 “漫画の続き”が読めないから、悲しいといってしまえばそれまでだが、心にぽっかりと穴が空いたように何か無性に悲しかった…

 (今まで悲しくなかった事が悲しかった…)

 “作者の死”は当然、架空のキャラクターである谷口君の死にも繋がる。
 一度は終わったと思っていた谷口君の物語を僕は何年も経って、たまさかの偶然、その続きを読む事になった。
 そしてその物語はまた未完のままに終わり、僕は十数年前に一度見た、あの訃報記事にようやくたどり着いた…
 あの最終回の後、野球の好きな頑張り屋の谷口君はその後どんな人生を送ったのだろうか?
 あの弱小だった野球部は果たして、甲子園に行けたのだろうか?

 僕らはもう“その後の谷口君の物語”を知る事はない…


 (答えよりもっと大事な事は、勇気出して自分を試す事だ。君は“何か”が出来る…。誰も“何か”が出来る…。それが青春なんだ…。そう教えてくれたあの先生たちに、僕らはアリガトウとそっと言うのさ…)



2006/06/07

第百八十七回「谷口くん(3)」

 再開(再会)した谷口君の物語は輸をかけて地味な物語だった…

 何しろ前作「キャプテン」において、少年の成長物語としての“谷口君の物語”は一度すでに完結している。
 舞台こそ中学野球から甲子園という、読者にとって分かり易い“派手な目標”がある、高校野球漫画に変わってはいたが、等身大で誠実な物語展開をモットーにする、作者のちばあきお先生の漫画には、「巨人の星」に出てくる大リーグボールのような魔球や「ドカベン」に出てくる岩鬼のような、個性的で超人的なライバルたちが登場する事もなく。
 また「タッチ」における南ちゃん(美少女)との恋愛話も何も無かった。
 長期に渡る連載を、ひたすら地区大会だけを戦った。
 (高校野球が舞台の漫画なのに、作中で甲子園という文字を見た覚えがない)

 それでも「プレイボール」は“本当に面白い野球漫画”だった。(恐るべし、ちばあきお先生の漫画力)

 再び野球に復帰した谷口君は、その持ち前の“努力する力”で、初めはいちプレーヤーとして弱小チームを引っ張り。やがて再び下級生キャプテンとして、利き腕に負傷が残る、ハンディキャップを乗り越えて、チームを地区の有力・強豪校にまで再生する…(上司にしたいぜ!谷口君)

 と書くと、何か友情・努力・勝利的な“少年ジャンプドラマ”を想像してしまうかも知れないが、キャプテンになっても谷口君は、激しい精神論や根性論で部員たちを動かしたりはしない。
 (ただ、谷口君はどんな不利な状況になっても、勝利を目指す姿勢を崩しはしない)
 それはいち部員であっても同じで、常に冷静に現状を分析し、どんなに点差がついた試合でも、その状況に対しての“具体的な戦術”や“対処方法”を、先輩後輩に、自分の身をもって証明し。
 強大な相手に粘って粘って食らいつき。
 諦めムードのチームメイトを牽引して、必ず善戦まで持ってゆく。(負ける時もただ負けたりはしない。不屈の闘志…)

 そんな谷口君の自身の努力の末。結果他人までも引っ張る力は、野球の世界だけではなく。
 どんな世界にも通じる“理想的なリーダーの資質”だろう。
 僕はアニメ版の「キャプテン」から十何年振りに知る、谷口くんのその後の物語を夢中に読んだ。(結局、文庫版の刊行期間が待ち切れず古本屋で全巻買ってしまった)

 その何十巻にも及ぶ、再始動(プレイボール)の物語の“最終回”は確かこうだったと記憶する…

 下級生キャプテンだった谷口君が三年生になった新学期。
 今やすっかり地区の強豪校になった野球部に、かつて名門野球部を破った“中学時代のベストナイン”が勢揃いする。
 最強ナインの誕生に、今年こそは甲子園すらも目指せるかもと、読者に予感(期待)させて、物語は一時その幕を閉じる…

 そんな最終回を読み終わった後、僕はとても悲しくなった。

 何故なら僕は、作者のちばあきお先生がすでに“もうこの世におられない事”を知っていたからだ…


2006/06/06

第百八十六回「谷口くん(2)」
 
 あの日、試合中に負った怪我が元で、利き腕の指が曲がったままになってしまった谷口君は、もう野球が出来ない身体になってしまっていた。

 (打撃や補球は今まで通りに出来るが、捕ったボールを塁に送球する事が出来ない)

 それでも野球が好きな谷口君は放課後 毎日のように、お世辞にも上手とはいえない、進学した高校の野球部の練習の様子を、グランドの外から、ただただ眺めるだけの毎日を送っていた。
 ある日、そんな谷口君の姿を哀れに思ったサッカー部のキャプテンが半ば強引に、利き腕が使えない谷口君を、腕を使わないサッカー部に入部させる。
 努力家ですっかり、スポーツマンとしての才能を開花させていた谷口君は、見知らぬサッカーの世界でもすぐに、その才能と資質の片鱗を発揮し、有望選手のレギュラー候補となるが、どうしても隣りの野球部の様子が気になるようで、サッカーの練習に身が入らない。それを一喝するサッカー部のキャプテン。
 一喝されて反省した谷口君は、その日を境にサッカーに打ち込む…。と周囲が思ったのも束の間。

 近々ある強豪サッカー部との練習試合のレギュラーに、サッカーを始めたばかりの谷口君を、思い切ってレギュラー起用する事を決めたサッカー部のキャプテンが、川土手で部員と、その起用についての相談をしている時。
 少し離れた向こうのグランドで、隠れて小学生たちの野球の試合の審判をしている、ほんとうに楽しそうな谷口君の姿を見つける。
 (谷口君の元につかつかと歩み寄る、サッカー部のキャプテン…)
 こっそり少年野球の審判をしている所を見つかって、再び怒られると思って萎縮する谷口君だったが、サッカー部のキャプテンは谷口君の魂が、すっかり野球に盗られている事に気がついて、谷口君を野球部に転部出来るようにすると告げて他の部員と去っていく。

 (この時、アンパイヤのマスクの下に隠れてむせび泣く谷口君の姿は、スラムダンクの「もう一度バスケがやりたいです…」の元祖。いや、越える!少年漫画史に残る屈指の名場面である)

 こうして前作で一度は終わったはずの谷口君のドラマは“名誉の負傷による引退というエピソード”で一端リセットされて。
 再び、挫折から再起する物語として、プレイボール(試合開始)する事になる…


 (若い日は皆、何かを目指せ。秘めた力、自分じゃ分からないさ。夢は大きく持とう。そうさ、とびきりでかく。君は“何か”が出来る…)



2006/06/06

第百八十五回「谷口くん(1)」
 
 当時、今は亡き月刊少年ジャンプで連載されていた「キャプテン」と並行して、週刊少年ジャンプでその兄弟作品「プレイボール」は連載していた…

 (続編「プレイボール」の説明をする前に、前作に当たる「キャプテン」での“谷口君の物語”のあらすじを書く…)

 ある日、東京都内にある何でもない普通の中学校の野球部に、全国でも有名な野球の名門校から転校生がやって来る。
 名前は谷口タカオ。
 丸坊主の中学二年生である。
 入部した練習の初日、まだ転校したてで、新しい学校の野球部のユニフォームを持っていない谷口君は、転校する前の学校の“名門校のユニフォーム”に着替えて練習をしようとする。
 すると、新しく入部した墨谷二中の野球部員たちは、谷口君が着たその名門校のユニフォームを見て、色めきたってしまう。
 (谷口君の練習を見る前に相当な実力者だと決めつけてしまう)
 しかし実は谷口君は元名門校の野球部員は野球部員でも、二軍のそのまた補欠で、野球はあまり上手ではなかった。
 (ここから本当の実力を誤解されたままの、過大評価された少年の“努力する物語”が始まる…)

 部員たちが勘違いする練習のプレッシャーの中、偶然に偶然が続き、不幸にも谷口君は次期キャプテンに選ばれてしまう。
 (その実力がない事は選ばれた自分が一番よく分かっている。自分自身に嘘はつけない…)
 キャプテンに選ばれたその日、谷口君は誤解されていた“すべての嘘”を告白しようと、自分を新しいキャプテンに選んだ、前キャプテンの元を訪ねると。
 事前にその真実(嘘)を、すべて見抜いていた前キャプテンに、それを承知でお前をキャプテンに選んだと言われる…
 (実は谷口君は部員たちに勘違いされたその日から、その勘違いを本当にするべく、一人特訓に特訓を重ねて、少しづつだが、でも確実に。野球の腕を上げて行った。それでもまだまだ名門校のレベルには程遠いが…)
 その秘密の猛特訓(!)の“影の努力”を知っていたからこそ、「お前をキャプテンに選んだんだ」と前キャプテンに言われた谷口君は、『キャプテンに相応しい男になるべく』、再び厳しい野球道の精進を重ねて行く…

 というのが物語の冒頭、第一話のあらすじである。
 (文章に直して改めて気付いたが、少年漫画の第一話として完璧なプロットだと思う)

 その後、谷口君はその“努力する力”を自分一人だけでなく、弱小野球部全体に広げて、ついにはかつて自分が所属していた名門校と、地区大会の決勝戦を争う強豪野球部にまで成長させる。(勿論、自分自身も成長する)
 その試合は惜しくも名門校との地力の差(部員の数)で負けてしまうのだが、(この時、万年二軍の補欠で監督や一軍の選手たちにその名前さえ覚えて貰っていなかった谷口君だったが、試合終了後。名門校の監督がその名も知らぬ元補欠部員の敢闘を称ようと歩み寄り、一瞬ちゅうちょして止めるという場面がとても印象深い。敗者のプライドを勝者である名門校の監督が守ったのだと思う…)

 地区大会に勝ったその名門野球部が全国大会で優勝後、中学野球連盟に地区大会決勝戦での、選手の不正使用が発覚して。
 (※一度の試合に交替していい人数を越えて選手を出場させていた)
 真の日本一を賭けて再び、その名門野球部と対決する機会(チャンス)を谷口君たちは得る事になる。

 (その敗者復活戦で谷口君は、その後の野球選手生命を絶たれてしまうような、大きな怪我を負ってしまうが、その試合の勝利にすべてを捧げた谷口君は、利き腕の負傷に構う事なく、試合を続行。死闘を制して日本一の栄冠に輝く…)

 前作「キャプテン」での、初代キャプテンとしての谷口君のエピソードはここまでである…
 (以後、物語は同野球部を舞台に二代目、三代目キャプテンの活躍がサーガ方式で描かれて行く)

 その続編漫画である「プレイボール」では、その負傷の怪我が治らぬまま、高校に進学した谷口君の後日談から始まる…


 (そう、だからタイトルは再び試合開始のプレイボール…。谷口君の物語はまだ終わってなんかいなかった…)



2006/06/06

第百八十四回「キャプテン」

 本屋でのバイトの楽しみの一つに、休憩中に返品される漫画を読むという日課があった。

 僕は漫画と名前がつく物なら少女漫画でも児童漫画でも、面白そうなら一応何でも読む主義だが、当時好んで読んだ物は、その頃流行(はやり)だった、昔の漫画の文庫版で、特に七十年代前半から後半にかけての名作といわれる少年少女漫画を好んで読み返した。

 少女漫画なら萩尾望都先生、竹宮惠子先生、大島弓子先生の二十八年組の作品や「ガラスの仮面」。青年漫画に活動を移した後期手塚治虫(「火の鳥」や「ブッダ」「BJ」等)
 少年漫画では何故か講談社からではなく、集英社から全集が出版されていた、ちばてつや先生の「あしたのジョー」や「あした天気になあれ」
 後は「ドカベン」や「大甲子園」等、水島新司先生の野球漫画等々が“返品用に売り場から帰って来るのが楽しみ”だった。(嫌な奴)
 見た目が派手で綺麗なばかりの昨今のゲーム系コミックは苦手だった。
 そんなイマドキの漫画と比べて、ひときわ地味な絵柄の少年漫画があった。
 それは「キャプテン」という、中学校を舞台にした野球漫画だった…
 (作者のちばあきお先生はあの“ちばてつや先生”の実の弟で、内容は弱小野球部を全国優勝校にまで導く、歴代キャプテン四人の物語という、少年漫画の王道ストーリーで、その絵柄は当時の漫画界でも、かなり地味な部類の方に入っていたと記憶する)

 八十年代にはTVアニメ化もされて、僕はアニメの方で内容は知っていたが、わざわざより地味な絵柄の原作漫画を手に取る事はしなかったようで、アニメの最終回から更にストーリーの続きがあるとは知らずに、返本の文庫版を読んで大変驚いてしまった。
 一つはアニメ版にはまったく無かった“四人目のキャプテンの話”がある事。
 (アニメは一番盛り上がる三人目のキャプテン。イガラシ キャプテンの途中で終わる。ちゃんとあの後、墨谷二中は全国優勝していた!)

 そしてもう一つは初代キャプテンである谷口君というキャラクターの後日談で、「プレイボール」という別シリーズの漫画がある事だった…


 (一つの物語の終わりはまた新しい物語の始まり…)



2006/06/06

第百八十三回「数字」
 
 本屋の裏方(バックヤード)の仕事は重たい雑誌や書籍を運ぶだけの力仕事で、入荷も返品も単調な流れ作業の仕事だったが、そこには色々な“生きた知識”が転がっていた。

 流れ作業の中でも、嫌でも本のタイトルは耳に入って来るし、その表紙や見出しが目に飛び込んで来る。
 専門書や専門雑誌、今まで自分が知らなかった世界の知らない言葉を見たり聞いたりしているだけでも、少し賢くなれたような気がしたし、返本の山の中に興味がある本があった場合は、箱に詰めるのは後回しにして、休憩中に少し読んだりもした。
 実際、返品作業は慣れてくると、作業中に雑誌の記事程度の文章なら、盗み見しながらでも作業可能だったので、僕は気になる見出しを見つけると、その記事を読みながら作業を続けた。
 映画や漫画、ゲームといった自分の趣味の分野以外にも、普段なら絶対に手に取らないようなビジネス雑誌や女性ファッション誌。囲碁や将棋、料理や手芸、鉄道や模型といった趣味の雑誌から医学や科学、政治や思想といった専門雑誌。揚げ句は短歌や俳句、ポエムの同人誌なども、興味が湧けば一応めくってみた。
 少し読んでつまらなければそのまま閉じて、面白ければ来月号の返品も楽しみにした。
 (日本で一番意地の悪い読者である)
 そんな生活を二年間も続けると、次第にどの雑誌がどれだけ入って来て、どれ位返本されたのか、自然と詳しくなってくる。
 当然、コンピューターで管理するデータベースを調べれば、実売数はすぐに分かるのだが、その手間を面倒臭がった業者の人や、仕入れ担当の上司に「あれはどれぐらい売れてるの?」と聞かれる事もしばしばで、その度に「もう少し減らした方がいいですよ」と適当に適当な冊数を答えていた。
 変な話。沢山刷られ、沢山店頭に並んでいる本が、沢山売れている(読まれている)本とは限らない。
 (沢山返品されて、沢山のゴミとなっている場合も多々ある)
 それは特に漫画コミックの世界に顕著で、売れているはずの店頭の山積みになった単行本は、ある日山のまま返品されて、そのまま在庫の山となる。
 (何年経っても版数が変わらない本は売れ残っている本。逆に短い期間にどんどんと版数が上がっていく本が、本当に売れている本である)
 僕はその単純作業を繰り返す二年間で、メディア側が発表する“派手な数字”と“実際の現場の数字”とでは随分と違う事を知った。
 (数字には“生きた数字”と、そうでないものの二種類ある)

 しかし人間は分かりやすい、実はあまり意味のない“数字の魔術”に踊らされてばかりいる。
 (これから随分と先、僕は実体験で“その事”を知る)


 僕も彼女も人間は愚かだ…



2006/06/06

第百八十二回「返品」
 
 本屋での僕の仕事は、毎朝大量に入荷する雑誌や書籍の仕入れ係で、バックヤード(裏方)だった。

 その本屋は当時、大阪でも一・二を争う大きな書店で、扱う書籍の種類や蔵書の数もかなり豊富で、マニア御用達のいわゆる大店(おおだな)だった。
 僕はその大きな本屋で、来る日も来る日も(日曜・祭日以外)、毎日入荷して来る、雑誌や書籍の仕入れと返品を担当した。

 仕事は単調な流れ作業だったが、子供の頃から本や漫画が好きだった僕にはかなり楽しい仕事で、何より不規則で不健康なAD生活を終えたばかりの身には、朝から夕方までと、時間がきっちりと決まったバイト生活は、平穏で夢のような暮らしだった。
 (結局僕は二年間も、このぬるま湯のように居心地のよい、バイト生活に浸かってしまう人生の寄り道)

 八階建てのビルの一番上で、入荷して来る商品を検品して、ジャンル別に分けて各階に送るのが午前中の仕事で、午後からは店の棚に入り切らない、売れ残った本を返品するのが、僕らの仕事で、僕は主に雑誌とコミックの返品を担当した。
 一般的な書籍販売とは基本、一部買い取り品を除いて、完全なる“委託業務”である。
 (※委託業務とは昔でいう所の富山の薬売り方式で、薬売りが家に置いていった薬を全て買い上げる訳ではなく、次にその薬売りがその家を訪れた時、使った減った分だけ、預かった人は薬を買った事になり。その料金のみを払うという、利用者が不良在庫を抱えないように考えられた販売システムの事をいう)

 つまりはこの場合、本屋の本は版元から預かった商品の委託品であり、売れ残った書籍はすみやかにその版元にお返して。お客さんが買っていった商品のみを小売店(本屋)が買い取るという、コンビニなどを含む販売店が“不良在庫”を抱えないように、業界全体で“販売店を保護するシステム”の事である。

 簡単な話、小売店(本屋)は返品さえマメにすれば、儲かっても損をするという事はあまりない不思議な商売である。(人件費や施設等の維持費。間接費はまた別問題)
 勿論、自社で商品を作っていない分、儲けこそ少ないが、比較的リスクが少ない“安全な商売”とは言えるのだろう…
 逆に出版社は幾ら多く部数を発行して、全国津々浦々の小売店に並べても、消費者(個人単位)に売れなければ、それはそのまま自社の元に返って来るという、かなり厳しい世界である。
 (この場合大切なのは発行部数ではなく、実売数の方…)

 売れ残った商品(本)は倉庫の山となる。

 特に“期間限定商品”である雑誌(月刊誌や週刊誌)には厳しく、売れ残りはその商品の死を意味する。
 (コミックの単行本や一般書籍とは違って、バックナンバー分以外、版元が在庫として抱える事は無い。売り切らなければ即再生紙工場行きの“全てはゴミ”なのだという厳しい現実)
 僕らのする返品作業とは、いわば出版業界における、死刑執行人(首斬り人)の役目だった。

 毎日毎日、ダンボール何十箱分の雑誌やコミック、売れ残った書籍の夢のあとを、僕は来る日も来る日も返品し続けた…


2006/06/01

第百八十一回「ZERO」

 本屋のバイト生活に慣れた頃、僕は久々にビデオカメラを手に取った。

 何か戯れにカメラを回したくなった。(つまりは少し回復してきた)
 それでもいきなり人間を撮る勇気は無かったので、無人の風景を撮ったり、人形をコマ撮りして、ちまちまと一人撮影しては再生し、閉じこもって遊んでいた。
 何だか田舎で初めてコントごっこを撮っていた頃の気持ちを思い出した。
 すると今度はその撮った映像を“編集”したくなった。
 そんな時、かつての田舎の“コントごっこ仲間のM君”が、久々に一緒に“映像遊び”をしないかと持ち掛けてきた。
 僕は今こんな映像を撮っていると言うとM君は、最近自分が作った“打ち込みの曲”があるから、その映像と合わせて“ミュージッククリップ”を作ろうという事になった…
 当時はまだデスクトップ(ノンリニア)のビデオ編集という、概念も機材も無かった時代だったので、音合わせの“精度の高い編集”をしたい僕は、一年ぶりに卒業したわが母校を訪ねて、恩師に頼み込み。
 放課後、空いた編集機を借りて作品を完成させた。
 (数フレーム単位の編集が“個人レベル”では到底不可能だった時代の話だ。今とは違う時代の自主映画だ)

 作品のタイトルは「ZERO」

 M君が作った曲名をそのままタイトルにした、風景の早打ちや曲に合わせて人形が踊るだけの無人の映像で、かかったお金も本当にゼロの簡単な短編映像だった。
 それでも久しぶりに学校の編集機を触る内に、今度は学生時代に戻ったような錯覚を起こした。
 (隣りの編集ブースでは僕の同級生のまた別のM君が、同じようにインディーズバンドのミュージッククリップを編集していた)

 “作っている間はただただひたすら楽しかった”

 ただ困ったのは作った後の事で、別に学校の授業の“課題”でもなければ、当然“仕事”でもない訳で、M君やその他の友人たち以外に“見せる人”も“場所”も無かったので、さてさてどうしたものか?と頭を抱えてしまった。
 (昔のコントごっこの頃のように、撮って作って、「ハイ、それで終わり」では満足出来無かった。少しづつでも人は進化するのだ)

 出来上がったその映像に“存在する理由”が欲しかった…

 僕はその悩みをM君に相談すると、M君は「今度のクラブイベントで売ろう」と僕に返答した。
 瞬間、自信の無かった僕は「売れるかな?」と思ったが、とりあえず他に良い考えも無かったので、一本五百円で十本ほどVHSのテープにダビングして、イベント会場入り口で手売りした。
 結局、M君の知り合いに二・三本だけ売れて、後は予想通り全部売れ残ったので、僕は当時ちょっとだけ憧れていた“DJの女の子”に渡す事にした。
 その不定期に行われるDJイベントで会うだけの、ほとんど会話もした事がない女の子だったけど、何故か彼女に観て貰いたいと思った僕は、半ば強引にそのVHSのテープを渡した…
 (彼女がそのテープを受け取ってくれた瞬間。完成後、何だか満たされずにいた僕は、不思議とそれだけで満足出来た気がした…)

 次にそのDJイベントで再会した彼女が「見ましたよ」と声を掛けてくれたので、急に恥ずかしくなった僕は「アリガトウ」とだけ返事をした。


2006/05/31

第百八十回「みそっかす」

 閑古鳥が鳴いた上映会が終わってまたしばらくすると、再びイベントの手伝いをして欲しいという元上司からの電話があった。

 今度は北大阪にある公園の一部を借り切って、一般客も相手にする、ファンクラブ主宰のフリーマケットというかなり大掛かりなイベントだった。
 今回は野外の大勢で、かなりキツそうだったので、一瞬断ろうかと思ったが、前回顔を出した時の違和感(社内の様子)が何となく気になったので、迷ったが再び、もう一度だけ手伝ってみる事にした。
 イベントのメインの出し物は公園に設置した特設ステージで、師匠自らが自分の私物を叩き売るオークションで、後は本当のフリマだった。
 僕は相変わらず、その映像制作とは何の関係もない、会社の業務に内心苦笑いをしていたが、社員以下、ボランティアスタッフ全員が汗だくになって、一生懸命作業をしていたので、僕も一生懸命黙々と、ステージの設営等の会場準備を手伝った。
 (炎天下の作業で、肉体的には結構きつい仕事だったが“ただのバイト”だったので、社員だった時よりは全然気楽だった)

 ステージの設営と会場の下準備が終わり、元の同僚の事務の女(ひと)に、スタッフTシャツを渡されたので、鞄(カバン)も何も持って来ず、手ブラだった僕は反射的に、今着ている服の上にそのTシャツを重ね着すると、彼女は“それ”を違う意味に受け取ったらしく、「だから、あなたは駄目なのよ」と“嫌み”を言われた。
 どうやらその“重ね着”をいちスタッフとして“恭順しない”
 反抗的でイヤミな態度だと、彼女は受け取ったようで、僕は彼女のその思い違いにゲンナリとした。
 (嫌なら今更、手伝いに来ないだけで“済む”というのに、今更何のいさかいだろう。彼女も僕も人間とはさもしい…。そんな同期入社だった彼女もこのイベントの数ヵ月後、会社を辞めた…)

 フリーマーケットが始まると僕の仕事は売り場の留守番ぐらいで、手空きになる時間がしばしばあった。

 僕が(フリーマーケットだから)、買い物に来た買い物客と楽しそうに談笑していると、その様子を遠くから見ていた師匠が不味そうな顔をして、例の元上司の人に、「アイツ、暇そうにしているけど、何かやらす事ないんか?」と会話する声が漏れて聞こえてきた…(フリーマーケットとはこういうものじゃないのか?)

 どうやら彼女も師匠も、僕がもう会社を辞めてしまった人間(部外者)だという事を忘れて、元の正社員の頃の感覚で接しているようだった。
 でも、師匠たちもすぐにその事に気がついたらしく、結局その会話の後も会場をばらす撤収の時間まで、僕に余計な仕事が回ってくる事はなく、それはそれで少し寂しかった。(人間の心とは複雑なものだ)

 本日のメインイベントだった師匠司会のオークションも終わり、イベント全体が終了して、撤収作業にかかる頃、疲れきったボランティアスタッフの何人かが“空回り”を始めていた。
 それはほんの少し前の僕の姿だった。
 なるほど。端から見ると自分(ぼく)もあんな感じだったのかと妙に感心した。
 責任感から来る緊張とプレッシャーに押し潰されて、自分のペースを掴めずに自滅していたんだと、今更になって気が付いた。

 (そしてもう一つ…。小さな会社組織は確実に“カルト化”しつつあった…)

 さげすむような周囲のまなざしの中、空回りを続ける“二代め空回り君”が少しだけ哀れになった僕が、救いに手伝いの手を差し延べると、その顔は社員時代、みんなと一緒になって僕に軽蔑の視線を送っていた、ファンクラブの会員の一人だった。


2006/05/31

第百七十九回「ボランティア」

 本屋で働き始めてしばらく経った頃、僕は以前勤めていた番組制作会社から、あるイベントの手伝いを頼まれた。

 それは番組制作会社の社内を上映会場にした“ファンクラブ会員向けのお座敷上映会のビデオ送出係”という簡単な仕事内容だったので引き受ける事にした。
 (少額だがバイト代も出るという話だった)
 久しぶりに訪れた社内は随分と様子が変わっていた。
 (出入りする人間の数が増えて、やけに賑やかだった)
 どうやら“単価の高い正社員”を雇うのは、悪しき前例の僕で懲りたようで、ファンクラブや縁者から“ボランティアスタッフ”を募って、会社を運営する方式に切り換えたみたいだった。(一人の使えない正社員を雇うより、沢山のアルバイトのマンパワーで補った方が効率が良いと見限ったようだ)
 そんな大勢いるボランティアスタッフたちの中に、見知らぬ顔に混じって、見た事がある顔が何人かいた。
 それは僕が働いていた頃のファンクラブの人だった。
 (ただのファンからスタッフの一人に出世したようだ)
 急に働いていた頃が随分昔の事のように感じた。

 そして引き受けたバイトは随分と楽な仕事だった。
 指定された時間に会場に行って、テープを入れ替えればそれで良かった。
 今思えばこんな誰にでも出来る簡単な送出作業を、何故辞めたばかりの僕にわざわざギャラを払ってまで頼んできたのか不思議だったが、その時は深くは考えなかった。
 一応映像機器を扱う作業だったので“何か”があった時にと、映像専門学校出の僕が呼ばれたのだろうか…

 “二日間あった上映会の客の入りはガラガラだった”

 初日は一人も客が来ず、仕方がないので僕はその自分も参加した、今となっては懐かしいその番組を寝転がって一人スクリーンを眺めた。
 その日の上映時間が終わる終演の間際、かつての上司が会場に現れた。
 (※一応いつお客さんが来るのか分からないので、ちゃんと予定通りに上映した)
 テープを片付ける僕にその元の上司の人が「客来た?」と聞いてきたので、僕は「誰も来ませんでした」とだけ答えた。

 次の日は“一人だけ”お客さんが来た。
 (余計気まずいというか、シュールな光景というか。僕はそのお客さんと二人きり、スクリーンに映る師匠の姿を眺めた)
 上映が終わると僕はお客さんを見送って、スクリーンとプロジェクターを片付けると、 その日の売り上げを上の階にいる元上司の人に届けた。
 「客来た?」
 昨日と全く同じ事を聞かれたので、僕は「はい、一人だけ」と答えて、その一人分の入場料(千円)を手渡した。
 どうやら初めから今回の上映会の失敗を、ある程度予想していた元上司の人は(自主映画出身の上司は)、苦笑いしながら、僕にその上映会の売り上げの“何倍ものバイト料”を手渡してくれた。
 申し訳ないと思った僕は思わず「いいんですか?」と聞くと、いつも疲れたようなその人は「いいよいいよ、お疲れさん」とくたびれた笑顔で僕を見送り。

 再び自分の仕事が待つ机(デスク)へと戻って行った。


2006/05/30

第百七十八回「ライブハウス」

 僕はその頃、友人たちの付き添いでちょくちょくライブハウスにも潜り込んでいた。

 だいたいがチケットは買わずに入場し、メンバーでもないのにバックステージにお邪魔をしては、友人たちの演奏の番が来ると、会場の一番後ろから応援の拍手をするのが僕の係(?)だった。
 友人たちの行うライブはライブといってもメンバーの誰も楽器を生演奏せず、前もってコンピューター上で作っておいた楽曲をデータ再生して、それに合わせて歌を唄ったり踊ったりするいわゆるテクノユニットという形式のバンドで、簡単にいえばオリジナルのカラオケをステージ上で唄うというだけの事なのだが、一応ただのカラオケとは差別化する意味で、背中に天使の羽をつけて踊ったり、ステージ上で工作や紙芝居をしたり、色々な試行錯誤(面白パフォーマンス)をして会場を盛り上げようとしていた。
 僕らが高校生の頃、世間はイカ天ブーム(バンドブーム)の真っ際中で、BOOYやブルーハーツが健全な男子たちのヒーローだった。
 当然、女の子にモテたのもバンドマンか普通にスポーツマンのどちらかで、僕らのような文化系軟弱男(オタク)は常に学校内クラス内で蔑視、軽視され続けて来た。(劣等感)
 僕がその後ろをついて回っていたテクノユニットのメンバーも、どうやらそんなモテなかった中・高生時代を送って来たようで、思春期のコンプレックスから来る、悪ふざけの延長線上のコミックバンド活動だった。
 (小室哲哉がオリコンの一位を独占していた頃の話だ)
 愛とか恋とか、夢とか希望とか、そんな聞こえのいい歌詞は一切歌わずに、ひたすら巨乳フェチやストーカー行為、アニメや漫画(幼稚なオタク的趣味)といった童貞の妄想の数々を、自分自身を笑い飛ばすように不真面目に、(でもちょとだけ真面目に)、自虐の唄を歌っていた。
 友人たちのその面白ユニットは当然のように世間の誰からも省みられる事もなく、僅か一・二年でその活動に終止符をうってしまったが、僕は彼らの唄う「モテない男たちの歌」が大好きだった。

 それは世間の誰も知らない。でも僕にとってはとても懐かしい歌である。


2006/05/30

第百七十七回「クラブ」
 
 トランスといえば今はギャルやホストがパラパラを踊る時に使用される、すっかり軟派な音楽に成り下がってしまったが、1990年代前半の出たての頃は最先端の聞いた事もない尖がった音楽だった。

 その登場は丁度“あの”ジュリアナブームが去って、ユーロビートが衰退し始めた頃で、とても格好いい音楽だった。
 友人たちの付き添いで通ったクラブのフロアには、よくそのトランスという新しい音楽が流れていた。(当時のトランスは現在のケレンがかった派手な曲調とは違って、もっと渋い淡々とした無気質な電子音だったような記憶がある…。もしかしたら今のトランスと僕の聴いたトランスは全然違うジャンルの音楽なのかも知れない…)
 クラブといっても僕が友達に連れられて行ったイベントは実に健全なイベントで、本当に部活(クラブ)といった感じのさわやかな集まりだった。(デトロイト・メタル・シティのクラウザーさんに襲われそうなはにかんだ感じ)
 ゆっても友達は全員、元はオタクである。
 音楽マニアたちが集まって自分の好きなレコードをかけては、マニア同士男女の交流をはかる、ようはサークル活動みたいなイベントで、ドラッグ&タトゥのバイオレンスな悪所のイメージからは程遠かった。(文化系はどこまでいっても文化系なのだ)
 それでも当時、熱中するものが何も無くなってしまった僕は、クラブミュージック(テクノ)に熱く盛り上がる彼ら彼女らがとても羨ましかった…
 若い夢とは結局、いつだってから騒ぎのバカ騒ぎなのだから、同じバカなら踊らなきゃ損というものだ。
 だから僕は文字通りバ力みたいに踊った。
 特別、音楽(テクノ)が好きな訳でもなかった。
 ただ、チルアウトした“たまり”で楽しそうに音楽交流する、友人たちのマニアックな音楽の話についてゆけそうにないので、居場所を無くした僕はフロアのすみっこの方で一人、ずっとリズムに合わせて身体を揺らしていた。(居場所が無かった)
 全身を通り抜ける大音量の無気質な電子音だけが妙に心地好かった。

 踊っても踊っても、そこは他人の夢の中だった。


2006/05/30

第百七十六回「オタク」

 この頃、僕は友人たちに付き合ってクラブやライブハウスに頻繁に出入りするようになった。
 別に音楽(主にテクノ)は嫌いじゃなかったが、特別詳しい訳でも思い入れがある訳でもなかった。
 ようは付き添いで、断る理由が何もなかっただけの部外者(よそ者)で、その他大勢だった。
 高校を卒業するまで僕らは全員ゲームや漫画が好きな、いわゆる一つのオタク少年でクラスのはみ出し者だった。(当時は“電車男”なんて便利な言葉は無かった)
 市内の色々な高校のはみ出し者同士が放課後、ゲームセンターに集まっては自分たちだけの世界を共有して現実から逃避している、田舎のアウトサイダー集団(よそ者)だった。
 様々な理由で故郷の町を捨て、都会の大阪に上京したばかりの十九・二十歳の頃の僕らは、それまでの自己(ジブン)を否定するかのように仲間同士“オタク狩り”を始めた。
 アニメや漫画、二次元的な文化をことごとく否定して、誰かが裏で隠れてギャルアニメ (セーラムーン等)でも見ていようものなら、吊し上げられて仲間たち全員の前で総括された。(バラされた)
 冬の時代だった…
 その癖僕らは相変わらず現実社会からは目を背け、少しだけ聞こえのいいゲーム(3Dのリアルなゲーム)や音楽、非現実な実写映画の世界に逃避していた。
 全員、遅れてきた思春期で二律背反(アンビバレンツ)な、一億総ノイローゼの季節だった…

 かくいう僕もアニメや漫画・特撮好きから“リアルな実写映画”に転向した“隠れオタク”で、仲間に隠れてはこっそり裏モノ(当時はご禁制の品だったセラムンや格闘ゲームのギャルキャラ。春麗やナコルル等)に手を染めた。
 その恥ずかしい二次元的嗜好がバレれば即仲間たちからA級戦犯として、裁判にかけられるのは分かってはいたが、それがかえって弾圧や抑圧からの解放の裏返しとなり禁断の蜜の味となった。
 三つ子の魂百までも。どんなに都会に出て気取った所で、所詮僕らは田舎のオタク集団だったはずである。
 そんな友人たちがいつの間にか、DJやミュージシャンを名乗って、クラブやライブハウスに出入りしている事が僕にはとても意外だった。
 僕が不在だった一年の間に、オタクだった友人たちの身の回りに一体何が起きたのだろうか?

 俗世から切り離された修行僧のような生活(走るボロ雑巾=ADの生活)を送っていた僕は何も知らずにいた。


2006/05/29

第百七十五回「本屋」

 旭(あきら)ではなく旭(あさひ)と読む。

 僕がADを辞めた後、しばらく働いた本屋も同じ名前だった。
 若い夢が破れて身も心も干上がった僕は、生活する日銭を稼ぐためフリーターになって、元いたモラトリアム(猶予期間)の世界に逆戻りしてしまった。
 ADだった一年間。僕は友人たちのいるモラトリアムの世界から離れていて、気がつくと周りの友人たちは人生最後の春の季節を迎えているようだった。
 かつての同郷のコントごっこの仲間たちは何故か皆、音楽の世界に転がり、夜な夜なクラブ通いをしてはDJイベントを開いたり、バンド(音楽ユニット)を組んでライブをしたり、彼女を作ったりと、自分たちが主役の青春を謳歌していた。
 その流れに完全に乗り遅れた僕はまるで浦島太郎のような気持ちで、みんなが人生の春を楽しそうに過ごしているのを横目に眺めた。
 屈託のないみんなの笑顔が凄く羨ましかった。
 僕には何も無い…
 「空回り君」と会社であだ名された僕は転じて「空っぽ君」になったようで、特に何をする気も起こらなかった…(また何かを夢見たり期待して、それに裏切られる事が怖かったのだろう…)

 元々臆病者だった僕は更に臆病になった。


2006/05/29

第百七十四回「主役」

 俳優の栗塚旭さんと再会したのは京都の外れにあるホテルのロビーだった。

 前回はアポ無しの突撃訪問だったので、ラフな格好で自宅の庭の手入れをされていた栗塚さんだったが、今回は往年のスターらしく、小粋なジャケット姿でのご登場だった。
 ただ自宅すぐ近くのホテルでの待ち合わせだったため、スターのはずの栗塚さんはチャリンコに乗って、「チャオ」と可愛らしくあらわれて、緊張する僕たちを少しだけ安心させてくれた…(栗塚さんは自転車に乗ってである)
 この再会のおり、僕と山崎さんはベテラン俳優である栗塚さんから色々なお話を聞いた。
 先日、手渡したシナリオの感想や台詞まわしの言葉の注意点。
 (登場人物が何度か、「すいません」というシーンがあったのだが、戦後間もなくの当時。それははすっぱに構えた不良な言葉づかいで。その登場人物の性格設定なら「すみません」と、発音・表記するのが、当時の正しい言葉づかいだと、とても丁寧に教えていただいた)

 そして栗塚さんの当時の芸能活動の話や今の生活の話も、かなり長い時間、聞かせていただいた。
 (ほぼ初対面のチンピラ自主映画人の僕らなんぞにベテラン俳優の栗塚さんは、とても優しく気さくに話かけてくれて、また僕らの話も熱心に聞いてくれた…)
 役者になりたての頃の話やその俳優活動の絶頂期の話、そして最近に至る話まで、そのどれもが僕らのような未だに何者でもない若造たちには貴重な体験談だった。
 その中でも特に印象に残ったのは、その俳優活動の人気の絶頂の時に。突然、芸能の世界から距離をおいて、一時的に隠遁生活を送っていた頃のお話だった。

 三十年以上も昔。当時、栗塚さんが司馬遼太郎原作の「新選組血風録」というTV時代劇で演じた“主役の土方歳三役”…(司馬遼太郎以前の“新選組の物語”では、主役は副隊長の土方ではなく、局長の近藤勇が主役で当たり前だったが、この小説やドラマ以降。副長である土方歳三が主役の、新選組の物語が多くなった…)
 その新選組の鬼の副長、土方歳三役が大評判の当たり役となって、栗塚さんは一気に新しい“時代劇スター”になって、スターダムにのしあがったそうだ。
 それまで現代劇の舞台で活躍していた栗塚さんは少し(かなり)困惑したそうだ。
 自分は別に時代劇俳優を目指して演劇の世界に入った訳ではなかったので、あまりにもその土方役(侍役)のイメージが強くなり過ぎ。
 時代劇の依頼(オファー)ばかりが来る事に、当時の栗塚さんはある種の窮屈さを感じたそうだ…(嫌気がさした)
 それでも世間で評判のヒジカタ役者に時代劇の仕事はどんどんやって来る。
 そんな人気絶頂のある日。
 栗塚さんはすべての仕事を整理して海外へ一人旅立って行った…
 (当時、自分は東西随一の土方役者…。時代劇スターというイメージ先行の人気に、「今、自分が何をしているのか?分からなくなってしまった…」と、当時の心境を僕らに栗塚さんは語ってくれた…)
 単身海外に渡った栗塚さんは、自分の演技の原点であるシェークスピアの舞台や色々な芝居や演劇を見て回ったそうだ。
 人生一度も売れた事のない。このまま無名のまま終わりそうな僕らには、まるで雲を掴むような話である。
 特に何事においてもその実人生で、一度も主役になった時がない…
 僕みたいな人間には、「一度手に入れた主役の座を手放してまで探したい何か」という崇高な気持ちは一生理解出来ないだろう…(卑しさや俗が身に染みついてしまっている僕なら、みっともなくその成功にしがみついて決して手放そうとはしないだろう)
 そしてその後、日本に帰国した栗塚さんは義理の姉と二人。
 ここ京都に居を構えて、堅実実直な俳優活動を続けるかたわら、観光地で喫茶店を営む隠遁生活を送っていたそうだ…(最近、その二人暮らしをしていた義理のお姉さんを亡くし、それでしばらくずっと店を閉めていたそうだ…)
 そんな時に僕らは突然、約束もなく押しかけてしまった…
 「すみませんでした」ともう一度、僕らがその時の非礼をわびると、栗塚さんはただ微笑んで笑って許してくれた。

 優しくて何処か寂しそうな…年輪を刻んだ素敵なお顔だった。


2006/05/29

第百七十三回「デジタルバブル」

 コペルネットという聞き慣れない、デジタルネットワーク構想の新事業に参入するためのプロモーションビデオの撮影と編集の手伝いに、寒さ厳しい冬の京都に訪れた僕は、その計画(プロジェクト)の中心人物であった京大生の人から、その構成台本を貰い“事業内容とネットワーク”の説明を受けた。
 当時、世の中は来るべきインターネット時代の前年で、それに付随して大小様々な独自のローカルネットワーク構想があったようで、国からも結構な額の援助金が出ているような四方山話だった。
 その例に漏れず今回のこの話の出所も、さかのぼってゆくとどこかの省庁に繋がってゆく話みたいだったが、当時の僕は別にその事業自体には興味が無かったのではっきりとはよく覚えていない。
 ただ有象無象、その辺の名もなき学生や学生あがりにもお金が回ってくるような話だったから、「随分と羽ぶりのいい業界だなぁ」と羨ましく思った事は今でも思っている。
 (それは新たなデジタルバブルだった…)

 あれから十年…。僕はそのコペルネットという聞かない名前のネットワーク構想が、その後どうなったのか知らない…
 (多くのデジタル事業が開発途中で、利益を回収しないまま流れてしまったように、やはり泡となって消えたのだろうか…。それとも名前と形を変えて、今も現実社会の一部に存在しているのだろうか…。すべては夢のあとか…)

 その貰った構成台本の内容は今の現実でいう、ようは携帯電話(iモード等)のような技術の誕生を予見する物で、そのコペルネットというネットの端末から、買い物が出来たり、出会い系サイトのような事が出来る…というようなごくありふれた内容だった…
 (今なら別に当たり前の内容だが、当時にしては比較的新しい発想だった)
 結局、それはその当時すでに存在していた、携帯電話というすでにあった生活のツールに、すべての機能がくっつけられて、その専用端末の出番なしという時代になってしまったが、本当に未来予想とは難しい…
 (その頃、高級品だった携帯電話がこれだけの範囲で普及し、高性能で安価、小さなパソコンになるとは誰も思っていなかった…)
 当時の僕はその台本の内容をあまり理解(共感)が出来なかったが、特に理解(感情移入)する必要も無かったので、頼まれるままカメラを回し編集をした…
 ただ、学生時代読んでいた海外作家のサイバーパンク小説から想像していた…。ドラッキーでクールな「来るべき近未来」と比べて、“通信販売”や出会い系(人妻との不倫)だの。
 随分安っぽいというか、何だか俗っぽい未来だなぁと、その落差に感心した事は覚えている…(実際本当にそんなツマラナイミライが来た…)
 僕はそのビデオの撮影と編集の合間、タコ部屋で暇を持て余していたので、観光がてら京都の町を、近所をブラブラと散歩した…(遊ぶ金が無かった)
 天気の良いある日、僕は京大の近所にあったそのタコ部屋から、有名なお寺の銀閣寺を目指して歩いた。
 その時そのすぐそばに、通りよさそうな風情のある路地を見つけたので、僕は迷わずその小路を歩き抜けた…(銀閣寺に入場する僅か五百円の拝観料を惜しんだのだ…)
 その道こそ十年後の夏の日。
 山崎さんと二人、老優の栗塚さんのご自宅を訪ねて歩いた、例の有名な京都の観光スポットの道だったが、その時の僕はその小路が有名な観光地である事も、栗塚さんという俳優の名前も、山崎さんという人の存在も…
 来たるべき未来の何もかもを知らずに、とぼとぼと寒さと貧しさに背を丸めて一人道を歩いていた。


 (未来は今…)



2006/05/28

第百七十二回「京都」

 そのバイトはコペルネットという、当時はまだ新しかった、デジタルネットワーク構想に、新規参入を模索している、どこぞのIT系企業に(と言っても当時はまだITなんて言葉はこの世に無かった。インターネットもまだ無かった、バブル崩壊直後の90年代前半だ。南無南無南無)

 そこに学生ベンチャーチームとして参加するため、自分たちチームの売り込みプロモーションビデオを作りたいので、その撮影と編集を手伝って欲しいという、何だか良く分からないうさん臭い単語がずらっと並ぶ、とても怪しいバイトの話だった。

 そのベンチャーチームの中心人物は、現役京大生で、ついでに京都のあるお寺の跡取り息子(僧侶の資格もアリ)で、当時京都の片隅にあったドマイナーな映画館(上映施設?)
 スペース・ベンゲットという単館映画館、(ミニシアターと言っていいのか、はばかる大きさの)
 その映画館の運営を手伝うかたわら、僕の勤めていた師匠の番組制作会社にも出入りするという。
 いかにもバブル崩壊直後のマルチな若者といった、怪しげな人物からの手伝い(バイト)の依頼だった…(十年以上過ぎて改めて書くと、どんなに実像のない虚像の人物なのかと思うが、当時は結構これがスタンダードな若者、大学生の姿だった…。ホリエモンもまたしかり。南無南無南無。チーン)

 その実像がよく分からない、ベンチャーな京大生とつるんでいたのが、僕のAD時代のただ一人の友達だったT君という人物で。このT君という人物も、謎の京大生に負けず劣らず実体が掴めない飄々とした当時の若者だった…
 (もっともそんな風に偉そうに言ってる僕が、後年一番訳の分からない人間になってしまったが、今はさておく)

 どうやらその実体がよく分からない、ビジネスチャンス(?)の話には、僕が一方的に親友だと頼っていた、そのT君も一枚噛んでいた様子で、依頼の内容は全然よく分からなかったが、数少ない友達からの頼み事という事もあって、無職生活を送る僕は、「いいよ」と簡単にその怪しいバイトを引き受けた。
 そしてその後僕は、そのPRビデオの撮影と編集作業で、一二週間ほど京都にある彼らの事務所(?)に寝泊まりをするハメになった…
 (その自称事務所とは、京阪出町柳駅のすぐ側のオンボロアパートの一室にあった)
 家賃は月一万。縦に二畳ほどという快適な狭さで(寝そべった状態で、何でも手が届く)
 事務所とは名ばかりのようは物置部屋で、僕はそのタコ部屋に数日間泊った。
 季節は2月の真冬。あの大きな地震のすぐ後の出来事(バイト)だった。
 当時、僕が住んでいた淀川区はかなり揺れた方の地域で、僕が利用していた市営地下鉄の御堂筋線も、線路の修復工事のため新大阪駅止まりの一部不通となっていた…

 怪しいバイトの出稼ぎに大阪から京都まで出かけようとする僕が、当時住んでいたアパートから一駅隣りの新大阪の駅につくと、被災地の同僚を見舞おうとするサラリーマンたちが、両手一杯にカップ麺やパン、スナック菓子が入ったスーパーの買い物袋をぶら下げて何人も歩いていた。
 僕はそれらの人たちの横を通り過ぎて京都方面に乗り換えが出来る淀屋橋の駅に着くと、御堂筋線から京阪線に乗り換えて神戸の反対の京都へと向かった。
 あの地震で大阪が受けた被害は神戸の街に比べると比較的軽微だったが、それでも神戸方面に繋がる駅周辺には不穏当な空気が流れ、本当か嘘か、治安が乱れたような悪い噂もいくつか聞いた。
 乗り換えた京阪線の急行電車が終点の出町柳の駅に着き、駅を出ると京都の町はいたって普通だった。
 戦時中と同様、再び大きな厄災をまぬがれた日本の古都には今回もやはり、大地震の傷跡は何も無かったようだ…

 京の都に、世に何事も無し、そんな風体の京都の町だった。


2006/05/28

第百七十一回「紹介」

 結果としてあの地震の後、ふぬけになっていた僕の心は、少しだけ人間らしい生きる反応を取り戻した。
 (そのすべてを破壊する巨大な揺れが、キツいショック療法になったらしい)
 あの地震があった日以来、自暴自棄になっていた当時の僕も、今後の自分の生活について考えるようになっていった。
 幸いにも僕はあの地震で家や友人たちを失う事はなかったが、会社を辞める時に、会社の上司に紹介して貰う予定だった、Vシネマの制作助手(助監督)の仕事を失ってしまった。
 (地震によってその映画のスポンサーの会社が大きな損害を受けて、その映画の企画が流れてしまった…)
 SM小説家の第一人者、団鬼六先生が原作の、(縄の)縛りものという、映画の色っぽい内容だったので、それは少しだけ残念だったが。それと同時に少しだけ、僕はホッとした…
 つい一ヶ月前、見るも無残な退職をしたばっかりの僕は、制作(助監督やAD)の仕事に完全に自信を失っていた…
 (その貰った話も一度は「やっぱり、いいです」と断ったが、その時の上司の「そうか…」という、業界を去る若者をまた一人見送る、といった淋しげな表情を見て。
 しばらく考えた僕は、「やっぱり紹介して下さい」と拾い直した話で、内心自分自身。どうしたいのか良く分からない、人生の迷いの森の中をさ迷っている時期だった…
 そんな風に優柔不断に、今後の人生の針路を決めかねていた僕は、結局地震でその仕事の話が流れたので、それじゃしょうがないなと無理なく、自分を納得させた。
 結局、僕はこの時大事な何かを選ばずに保留したまま現在にまで至る。それはとても駄目な事だと、この時点ではまったく気がついていない、若さゆえのあやまちの愚かさよ。

 (とにかく…)

 しかし世の中、何をするのにしても目先の金がいる。
 部屋の中でゴロゴロしているだけでも腹は減るし、月々の家賃はやはり払わなければならない。
 ニートなんて言葉が出来るのはまだ先も先だ。そーゆ情けない事だけ、僕らは最先端の、典型的なイマドキのニュータイプ(若者)だった。
 (役に立たないニュータイプもあったもんだ。新人類集まる)
 貧乏学生からやがて薄給のADを辞めた僕に、当時貯金の蓄えなど一切無かった。
 そんな生きるための小金に困った僕に、友人がとあるアルバイトのお手伝いを紹介してくれた。
 それは僕が勤めていた師匠の会社に出入りしていた友人の、知人の。

 撮影とビデオ編集の手伝いをするアルバイトで、ボランティアではなくちゃんとギャラも出るという話だった…


2006/05/28

第百七十回「地震」

 それは高校時代からの友人のK君からの安否確認の電話だった…

 酷く興奮した様子のK君にうながされて、TVのスイッチをつけると街が燃える様子の神戸の映像が映っていた。
 高速道路が倒れ、見慣れた看板の百貨店や阪急の駅。ありとあらゆる街の建築物が粉々のぐっちゃぐっちゃに倒壊し炎の中に燃えていた。
 大袈裟な比喩ではなく、本当に空襲された街のようだった。
 まだ寝ぼけ眼(まなこ)だった僕は、ここで先程の地震の震源地と事件の大きさに気が付いて慌てた…
 当時、神戸には幾人かの知人や友人も住んでいたし、学生時代には何度も足を運んだ事もある馴染み深い街の一つだった。
 しかしこの時。僕とK君はTVモニターに次々と映る「真実の破壊映像」の衝撃に当てられて、被災地の人や被災者の安否を心配する前に、まず「すげぇ」と驚嘆の声を上げた。
 見慣れた街の風景が一瞬にして目茶苦茶に破壊されて、日常風景から非日常的光景に劇的に変わる…
 その衝撃の事実に、瞬間。僕とK君は狂気にとり憑かれた。
 被災者の、人の命の心配をするという、人間として当たり前の気持ちを持つ前に、自分たちの中にあって。
 普段は理性で抑制している、ドス黒い破壊衝動のようなものが、僕とK君の胸の中を侵食した。
 強大な自然の力の前で、人間たちの作り出す社会とは、何と脆弱で小さくもろい物なんだろう…
 つい先日、その小さな人間社会の中の小さな会社の。更に小さな人間関係から放逐されたばかりの、小さなニンゲンの僕は、人間らしい優しい心(良心)を持つ前に、普段はその事実を覆い隠している。
 真実を告げる、そのドキュメントの映像にくらくらと酩酊した…
 若かった夢が破れて無職の生活。人としての生活の基盤を失ったばかりの当時の僕は、この地震でもう一つ。
 自分の中にあった何か、規範(ルールとモラル)のようなものを失って行ったのかも知れない…
 K君との電話を切った後も延々とTV中継される。
 焼け野原になってゆく神戸の映像…
 友人たちの安否を確認しようと電話をかけるが、回線はパンクして電話は繋がらない。

 遠くの方でまた一つ、何かが崩れる音が聴こえた。


2006/05/27

第百六十九回「フラッシュバック(青春編スタート)」
 
 記憶のタイムマシーンは中年のび太の僕を連れて更に時代をさかのぼる…

 (バブル経済崩壊直後のニッポンへGO!)


 『第二部 小夜鳴鳥リプレイ 青春編』


 1995年2月某日。記憶の寄り道…

 あの日も僕はこうして一人。この道を歩いていた。
 違うのはその時の季節は真冬であり、隣りに相方の山崎さんが居ない事だった。
 僕はその時この道が、京都でも有名な観光地である事を知らなかった。
 ただ、暇潰しの散歩道として、急きょ数週間住む事になった、出町柳の近所をただ散策して歩いているだけだった…
 その頃の僕は師匠の元を離れて、会社(AD)を辞めたばっかりの完全な無職で、人生で二度めの浪人時代に突入していた。
 (今現在へと続く、これが放浪の野良犬人生の始まりだった)

 夢だった映像業界の入り口…
 会社(AD)を辞めた僕の心は、すっかりと空っぽになってしまったようで。
 会社を辞めてから二・三か月は何の定職にもつかず、腑抜けの抜け殻のようになって、ダラダラと青春の日の貴重な時間を無駄に過ごしていた。
 (今後の人生に何の展望も持てなかった)
 やりたい事もなければ、またやりたくない事も特別に無い…
 どうでも良かった…
 それでも三度三度腹は減るし、住んでる大阪のアパートの月々の家賃も払わなければならない。
 面倒臭いのでいっそう、田舎の広島にでも帰ろうかと一瞬思ったが、引っ越しするのも面倒臭かった、末期的やる気のなさ…
 (お前の人生はお前がどうにかしてやらないとならないんだよ…)
 そんな時、文字通り世の中がひっくり返るような大事件が起こった。
 兵庫・淡路沖地震。
 世にいう阪神大震災である…

 それはまだADの仕事を辞めて一か月も経たない日の出来事だった。
 地域や人によってその感想はまちまちだが、僕は戦争が始まったと直感でそう思った。
 それまで西日本の人間は大きな地震の「揺れ」というものを知らず、その巨大な震動があの地震だとはとても思えなかった。
 「近くにミサイルが落ちた!?」
 何かがバキッと引き裂かれたような音と、続く巨大な地鳴りと揺れの中で、眠りから目を覚まされた僕は、何故だか最初にそう思った…
 (ヒロシマ生まれの広島育ちの僕には、天地を揺るがす程の絶対的な力といえば、まず思いつくのは核兵器だ)
 大きな揺れが収まると、僕は布団から抜け出して立ち上がり、窓を開けて火の海とキノコ雲を遠くに探した。
 電灯が消えた町はどこもかしこも真っ暗で、どこからか人の悲鳴が幾つも聞こえた。
 そこではっきりと意識が覚醒した僕はようやく今の揺れが、巨大な地震である事に思い至った。
 アパートの向こう下にあったローソンが停電で真っ暗になっていた非常事態。
 勿論、町一帯が停電になったので、僕の部屋のTVも電池が切れたラジオも電源がつかず、災害の被害状況は何も分からなかった…
 (スタンド アローン。孤立した世界…)
 仕方がないと諦めた僕は(諦めていた僕は)、そのまま二度寝した。
 別にどうでも良かった…
 このままこの部屋の中で二次災害で焼け死のうが生きようが、さほど生きている状況に変わりはないと、この時の僕は一人前の無頼を気取って、やさぐれていたのだ…

 次に目覚めたのは停電も収まり、地震から数時間も経った、友達からの電話のベルの音だった。


2006/05/27

第百六十八回「快諾(真昼の夢)」
 
 その翌日の夜。渡した電話番号の山崎さんの家の電話が鳴って、栗塚さんは僕らの自主映画に出演を快諾してくれた。
 僕は不思議だった…
 プロフィールを比べて見る限り釣り合うものなど何もない。
 格が違う。出自が違う。無名のいちアマチュアの僕らとは何もかもが違う。
 (多分同じなのは同じ日本人である事。同じ関西在住である事。そして映画が好きな事…)

 そして何よりも違っていたのは沢山のHPでお見かけしたのは若い頃の栗塚さんの姿(写真)であり、それが一気に三十年以上もの時が流れた姿で。
 昨日、いきなり僕らの目の前に現れた事だった…
 (連続するはずの時間にあいだが無いという不思議…)
 その日の前日までの僕らにとって栗塚さんは、ギラついた瞳で新選組の鬼の副隊長を演じる、まだ二十代半ばの青年の姿だった…
 しかし昨日僕らの目の前に現れたのは三十年間という人生の時間を重ねて、老境の兆しに入った優しい紳士の栗塚さんだった…
 どちらも本物の以前と変わらない男前の姿の栗塚旭さんだったが、それが僕にはとても不思議でまた魅力的な出会いでもあった…
 (僕は僕の妄想の想像の中で、たった一日で三十年分の時間が流れたような錯覚、真昼の夢を見ていた…)

 数日後また再び、僕らは栗塚さんを訪ねて同じ京都に居た…

 そしていつの間にか忘れていた、僕は“あの頃”の記憶を思い出した…


 今からずっと前あの時も、僕は何故だか京都に居たのだ…



2006/05/27

第百六十七回「老優」

 その日、アポなしで突然訪れた僕たちを、喫茶店に来た観光客だと思った栗塚さんは、「今日は営業していないんだよ」と優しく笑いながら告げた。
 それでもまだ帰ろうとしない僕たちに、少し困った様子の栗塚さんだったが、山崎さんがしどろもどろ、本日の来訪の意図を告げようと。最初はあんまり伝わっていない会話のやりとりがしばらく続いたが、T先生と件の映画の名前を挙げると何とか。
 僕らがただの観光客ではない事には気がついてくれたようで、その瞬間すかさず、山崎さんが素早く自分の名刺と映画シナリオをスターの栗塚さんに手渡した。
 僕は情けない表情を浮かべて、その山崎さんと栗塚さんの柵越しのやりとりを、ただ右から左にぼんやりと聞いていただけだったが。名乗りもしないでただ、山崎さんの後ろに突っ立っているだけの僕に何故か、栗塚さんは興味を持ってくれたらしく、「それで君は?」と声をかけてくれた…
 急な声がかりに慌てた僕はポケットの中にちゃんと用意していた名刺の一枚も渡せずに、「自分の名前」と「脚本を書いた者です」とだけ、何とか言えた…
 (緊張が頂点に達した僕は、なんともむず痒い気分になって、早くこの場を立ち去りたく、用件をまとめてとアイコンタクトをして、隣りの監督の山崎さんをうながした)
 栗塚さんは僕らのアポなしでの訪問の意図が分かると。その失礼な行為をたしなめるでもなく、「それでは台本読まさせて貰います」と丁寧に、三下ちんぴらの僕らを見送ってくれた。
 僕らはなるべく深く頭を下げると足早にその場を離れた。
 元来た階段を駆け上がると、僕らはようやく緊張状態から解放されて、往年のスターとの邂逅に興奮をした。
 気がつくと七分丈のズボンを履いていたその日の僕は、素足の足首が何か所も蚊に噛まれていて、プクッと赤く腫れあがり、それが原因で痒くて痒くて堪らなかった…

 そして日差しの強い、暑い夏の午後。
 酷く喉が乾いた僕らは近くの自販機でジュースを買うと、二人とも一気にそれを飲み干した。


2006/05/26

第百六十六回「残像(流れ星)」

 栗塚さんの当時の活躍を知らなかった僕らだったが、栗塚さんの当時の活躍の様子(プロフィール)はすぐ分かった。
 (インターネットでそのお名前を検索すると、沢山のHPやサイト件数が表示された…)
 新選組のファン。往年の時代劇ファン。色々なサイトのあちこちのページに、栗塚旭さんの名前はあった。
 (そこには栗塚さんが三十年以上も前に演じた、当たり役の土方歳三役を、今でも忘れられない、大勢のファンの人たちがいた…)
 栗塚さんが今も尚、熱烈なファンを持つ、正真正銘、本物のスターである事が。当時の活躍を知らない僕たちにも、簡単に理解出来た。
 そして多くのHPの、インターネットの情報から。時代劇マニアの間で栗塚さんが、「幻のスター」と呼ばれている事も分かった…
 (栗塚さんは1960年代当時。黄金期だったTV時代劇の何作かに主演作品を残したのち。まだ人気絶頂の中、主演作のタイトル、「風」のように。突如、芸能界の表舞台から去って行ったらしい…)
 その詳細まではよくは分からなかったが、その後は芸能活動は控めに、たまに時代劇にゲスト出演されたりと。あまり目立った俳優活動はなされなかったそうだ…
 (今現在は京都の観光地で喫茶店を営むかたわら、俳優稼業を続けると、多くのHPにはそう記載されていた…)
 僕らは八月の暑い夏の日に、その喫茶店の住所を、アポなしで訪ねた。
 喫茶店兼ご自宅は、京都市内の有名な観光地の、その通りのすぐそばにあった…
 僕は今から訪ねるその通りの道に、何故か不思議と薄ぼんやりとした、見覚えがあったのだが、その時はそれが、いつの頃の記憶だったのか…。すぐには思い出せず。頭の中の記憶の迷路をたどっては、これから訪問する往年の大スターの邸宅に緊張していた…
 その有名な小路の通りを、二十分から三十分かけて歩くと、住所のメモの喫茶店の看板を見つけた。
 (その店は通りの下の階下に、ひっそりとしたたたずまいであった…)
 ガチガチに緊張した僕らが恐る恐る、その階段を降りると、閉じられ門には「本日休業中」の看板がぶら下がっていた…
 (雑草で荒れた庭の様子から、それは定休日ではなく、ここしばらく数年は営業をしていないようだった…)
 一瞬、緊張の糸がほどけて、僕らは再び呼び鈴のチャイムを探したが、門の周りにチャイムの類いは無く…。閉め切られた鉄の門を前に、仕方がないので郵便ポストに名刺とシナリオと。本日訪れた訪問の用件を書いた、簡単な手紙を入れて、後日また連絡を取る事に決めた。
 その時…
 門の柵の向こう側の庭の中に、生えっぱなしになった背の高い雑草の向こうに動く白い、人影が見えた。
 それは雑草の生えた庭の手入れをする、禿頭(とくとう)の老優の栗塚さんの姿だった…
 どこかこの世の人じゃない、幽鬼のようにも見える彼岸の人(往年の大スター)に、一瞬声をかけるのをためらってしまった、こちら側の僕たちだったが。
 この時を逃してはいけないと、山崎さんが勇気を振り絞って、「あのう」と大声で庭の手入れをする栗塚さんに話しかけた…
 山崎さんが二度三度、大きな声で呼び止めると。栗塚さんはようやく、こちら側に居る僕らに気がついてくれて、ニコニコと柔和な笑顔を浮かべながら、ゆっくりとこちらまで、蜘蛛の巣を払いながら歩いて来てくれた。
 それは大袈裟じゃなく。まるで映画の中のワンシーンから抜け出て来るような、その現実離れした光景(登場シーン)に、僕は完全に呑まれた。

 その後、栗塚さんと山崎さんが交わすその会話を、僕はただ黙って、右から左へ聞いていた…


2006/05/26

第百六十五回「疾風の人」

 それはいよいよもう、僕らの自主映画作りの本番。『撮影』が間近に迫った2003年の8月の出来事だった…

 この頃はまだ主演俳優の松尾敏伸さんが、当時出演していた某国営放送の「連続ドラマのスケジュール」の空き日が見えず。
 その関係で僕らの「自主映画の撮影スケジュール」がなかなか決まらずに、制作者である作者二人の僕らは、そのまるで見えない二つのスケジュールの間に挟まれて、そのストレスとイライラで煩悶して苦悩する日々が続いていた。
 暑い夏の日の出会いだった…
 (嵐の前の静けさか…、突如訪れた無風状態の凪。風の吹かない日が続く…)

 それでも僕らはやがて訪れるだろう映画の撮影日に向けて、まだ残っているロケハンや未決定のキャスト集め。
 大道具・小道具、衣装の準備・決定にと、忙しく追われる日々が続いていた…
 そんな八月。
 僕らは山崎さんの専門学校時代の師匠である、T先生から、「映画の中の重要登場人物の一人である主治医役」に。
 以前、T先生が撮影監督として参加した映画に出演された、京都に在住する、ある年輩の役者さんを推薦して貰った。
 栗塚旭(くりづかあさひ)さん…
 1960年代を代表するTVスターのお一人で、当時巷で大ヒットしたTV時代劇「新選組血風録」において、新選組の鬼の副長、土方歳三役を演じ。その新しいTVの時代を一世風靡した、正真正銘ほんものの、往年の大スターだ…
 (残念ながら1970年代生まれの僕は、当時の栗塚さんの華々しい活躍を知らなかったが。僕らの父や母世代の人には「永遠の土方歳三」として記憶に残る、懐かしい時代劇スターだ)
 2004年。有名脚本家の三谷幸喜さんが脚本を勤めた大河ドラマ「新選組!」にも、土方歳三の盲目の兄役、土方為次郎役として、オマージュ・リスペクトされてゲスト出演された…(登場回数は少ないが、『新選組という、歴史の敗北者側から語られる、時代の物語』の、最後を語る…。とても感動的な役…。僕は今でもそのドラマの、「兄・為次郎役の最後の台詞」を忘れる事がない…)
 ほんとうに僕らのように名も無き、野良犬チンピラの自主映画人とはまるで格が違う…
 昭和のTV界に一つの時代を築いた、往年の大スター。時代を駆け抜けた…

 疾風(はやて)の人…

 それでもこの頃、まだ無知な若者中年だった、恐れ知らずの当時の僕たちは、(何故か、ご自宅の電話に電話連絡が一際つかない)
 栗塚さん本人を直接訪ねて、ご自宅があるという京都まで、T先生から貰った住所のメモを頼りに。
 アポなしで、自分たちが書いた、自主映画のシナリオを片手に、ダメもとで京都のご自宅まで、失礼を承知で押しかけた。


2006/05/26

第百六十四回「引退」

 押し寄せる若手お笑いブームの中。
 新旧世代交代の波を受けて、気がつくとブラウン管の中に、師匠の姿を見る事がなくなっていた…
 (僕がその姿を最後に見かけたのは、たぶん関西ローカルの、公共CMのCMキャラクターで。皮肉にも「数年後、今ある地上波が新しくデジタル放送に変わる…」という内容の、公共CMだった…)
 その公共CMからしばらく、僕はぼくらの映画の撮影や編集。その上映に追われる忙しい日々を送り、いつの間にかすっかりと師匠の事は忘れてしまっていた。
 (ただ、相変わらず見よう見真似。師匠流の手さばきで、僕は僕自身の映画の作業に無意識にあたる…。破門された不肖の末弟…)
 そしてその合間合間、毎日のようにブラウン管を流れるお笑い番組を癒しのように観ては、ケタケタと笑っていた。
 そんな若手お笑いブームの真っ只中、2005年の春…
 師匠がタレント活動を休止した事を、旧友からメールで教えられた…
 (その旧友こそ、かつて僕と師匠を引き合わせてくれた、昔のコントごっこ仲間…)
 二十年ぶりに訪れた再ブームの中。自身のHP上で活動休止を発表しただけの、ひっそりとした師匠の引退(活動休止宣言)だった…

 僕はたったの一年ばかり、師匠が興した番組制作会社の、最初の新入社員だったというだけの、弟子ともいえぬ不肖の弟子だった訳で、特別に親しい師弟愛に包まれたような深い間柄ではまったくない。
 (今でも勝手に弟子を名乗っているだけで、師匠は僕の名前は愚か顔さえ覚えてはいないだろう…)
 在社中は不祥事ばかりを起こして、使えない、みそっかすの僕だったが、一度だけ師匠にかばって貰った事がある…
 それは師匠のファンクラブの運営中の出来事で、ある時、会員の若い夫婦二人が、ファンの手によるファンの会報紙を作りたいんです、というごますり企画を師匠に持ちかけて来た時。
 他の仕事で手一杯だった師匠が、じゃあ、するとしてその責任者を誰にするかと、その若い夫婦に尋ねられた時。師匠が突然、僕の名前をあげた…
 するとその夫婦の嫁の方が、あからさまに馬鹿にする態度を見て、(僕はそのファンクラブ内の、ボランティアスタッフたちにも軽蔑されるような駄目な存在だった…)、さすがに言われっぱなしの僕を、憐れに思った師匠が、「いや、今は何でも出来る人間じゃないけど、こいつも自分の世界は持っているから…」と若夫婦相手に、みそっかす社員の僕を弁護してくれた…
 僕は師匠の番組制作会社に入社する以前。
 学生時代に作った自分の作品を、友人づてに師匠に見て貰った事があって、それが一つの縁となって雇えて貰えた…
 その時の師匠の感想はたった一言、「暗いな」という褒めるでもなく、クソ味噌にこき下ろす訳でもない。
 まるで興味がないといった感じだったので、僕はこの時の師匠の弁護がとても意外だった…
 それから十年…
 僕は、「お前には一生無理だ」という、師匠の予言通り、相変わらず何者でもない。ただ、映画が好きなだけのアマチュア映画人であり、不肖の弟子である。
 ただあの時、師匠がかばってくれた、「自分の世界」という言葉だけを支えに、売れない自主映画活動を今も続けている…
 「エド・ウッド」という映画の中で、主人公の史上最低の映画監督エド・ウッドが、憧れのオーソン・ウェルズという史上最高の天才映画監督に、酒場で偶然出会う場面がある。
 その時に自分の映画の撮影現場から逃げ出していた最低監督のエド・ウッドは、その天才映画監督であるオーソン・ウェルズが、自分と同じような映画作りの苦労をしている事を知る…(勿論、その桁やレベルは大きく違っているのだが…)
 その時、天才映画監督のオーソン・ウェルズは史上最低と呼ばれるサイテー映画監督のエド・ウッドにこう励ます。

 「他人の夢を撮ってどうする?自分の夢を撮るために戦え」

 それを聞いた撮影現場から逃げ出していたエド・ウッドは、自分の撮影現場に戻り、その後も死ぬまで「自分の世界=最低映画」を撮り続けるという、僕らのような最底辺で自主映画を作っている人間たちには、涙なくしては見れない名シーンだ。
 僕はこの名シーンを見る度に、師匠とあの日の出来事を思い出す。

 自分の世界。自分の夢。

 十数年経った今でも、師匠は僕にとって、憧れの人オーソン・ウェルズなのだ…


2006/05/25

第百六十三回「かげり」

 今からずっと昔の僕が二十歳の頃。

 ダウンタウンやその一派(ファミリー)による過激なお笑いに熱狂した学生時代の僕だったが、三十路も遠く越えて、頭に白いものがちらほらと目立ち始めるようになった今現在。
 三十代の若手(!)芸人たちが活躍する。
 初めから少しかげったような今回のブームは、かつての激しいブームを知る、僕らのような中年には大変心地良い。
 かつてのマンザイブームには終わりがなかった。
 いや、実際はある日突然終わりを迎えたのだが、時代の寵児に選ばれた、当時の出演者(漫才師)の人たちも、それをTVで観ていた観客の僕たちも、誰もその日が来る事を想像出来なかった。
 いつまでもこのブームは永遠に続くものだと、(大人も子供も)(マスコミも一般人も)、誰も彼もが自分勝手にそう思い込んでいた。
 あれから二十余年…
 今回の若手お笑いブームとは、TVを観ている僕らも、ブームの渦中にいる芸人さんたち本人も、いつかはこのブーム(狂熱)が必ず終わる事を知っている。
 かつてのマンザイブームの時、当時小学生だった僕と姉は、人生は終わるという事をまだ知らなかった。
 永遠に続いてゆく未来の中で、未来はただ明るい、そう思っていた。
 (子供だったのだ…)
 そしてあれから実際に流れた時間の中で、姉は二児の母となり、僕は相変わらずの野良犬のフリーターの人生を送っているけれども、それでもいつかは終わるという事を知ってしまった。
 当然、同じようにかつてのマンザイブームを観て育ち。そして憧れの芸人さんとなって、何度か訪れた小さなブームの中。小さな栄光や挫折を何度となく繰り返して、ようやくとブラウン管の向こう側に映る、ブームの主役の彼の人たちもまたそれを知っている。
 (そのせいか今回のブームでは、自虐ネタがスタイルの芸人さんが、やけに多い気がする)

 どうせ、いつかは終わるのさ…

 そう思いながら人生という長い舞台で、ほんの一瞬、自分が主役の物語を演じる。
 観ている観客の僕たちもその輝きを、一瞬で消える火花のように観る。
 その両者の諦めたような共生関係の中に、かつてのような黄金の夢は今はもうない。

 黄昏(たそがれ)の夢…

 それでも、それだからこそ、僕のようにただ漠然と三十代を迎えてしまった、大人になりきれなかった大人には、そこにぬるま湯のような居心地の良さを今回のこのブームに感じる。

 どうせ、いつかは終わるのなら、今日は一日でも長く、今はこのぬるま湯に浸かっていたい。


2006/05/25

第百六十二回「前夜」

 熱海駅を発車した新幹線が東京駅に到着すると、そこから今晩の宿泊地まで師匠と二人タクシーで移動をした。
 (着いた先のホテルが東京のどの街にあったのか、何ていう名前の撮影スタジオで撮影したのか、残念ながら僕はそのどちらも覚えていない…ただ師匠との思い出だけが残る…)
 移動するタクシーの中、連続する種類の違う仕事に疲れ果てた様子の、先程から黙って窓の外の東京の街を眺めていた師匠が、ついさっきすれ違ったばかりの有名芸能人たちとのすれ違いの感想を、引き続きビデオウォークマンとにらめっこを続ける僕に求めて来る。
 僕は明日あさって中に確実にパンクする、目の前のスケジュール(仕事)の事で空回り中だったので、そんな自分とは無縁の、TVで一方的に見かけるだけの、無関係な芸能人の人たちの事など、本当はどうでも良かったのだが、その時に師匠が僕に求めていた言葉はたぶん大層複雑な心境で、僕はなるべく慎重に言葉を選んだ…(つもりだった…)
 初めて見る強い師匠の弱い劣等感…
 その結果僕は空回り君なりに一生懸命考えて、「今のTVバラエティー界を支える人たちが一同に会していて、スゴイなと思いました」と、無難に答えた。
 それが果たして、その時の師匠が聞きたかった言葉(正解)だったのかどうかは、やはり僕には分からないが、師匠は「そうやな」と一言だけ発して、再び黙りこんで窓の外の東京を眺めた…(自分はやはり中央にはいないという強い師匠の悲しみが空回り君の僕にも伝わって来る…)
 その時の師匠の少し寂しそうな横顔を僕は今でも忘れる事が出来ない…
 夕方。タクシーが今晩、僕たちスタッフが泊まるビジネスホテルに到着すると、先乗りしていた他のスタッフたちと再合流して、明日の撮影のミーティングを兼ねて、ホテルの下にある焼き肉屋にスタッフ全員で食事に出かけた。
 僕を含めてスタッフたちの多くは、現場経験の少ないアマチュア同然の新人たちばかりだったので、明日のスタジオ撮影を控えて、皆かなり緊張した面持ちで、当然わいわいと楽しい食事にはならなかった。
 そんな話題も少ない静まりかえった席の中、突然師匠がみそっかすの僕の名前を呼んで、「今日凄い事があったよなぁ。ちょっとみんなに話してやれや」と、先程あった出来事を僕の口から話すように、珍しく師匠が僕に話を振って来た…(普段ならそんな事は絶対に無かった…)
 そして実を言えば当時の僕は、師匠との厳しい上下関係よりも、この家族会社のような出来たてほやほやの会社の、小さな社内の小さな人間関係にかなり悩まされていたので、そんな元々冷えきった席で、更にみそっかすの話下手の僕が、本当は別にたいして凄いとも思っていない事を発表させられるのが、嫌で嫌でたまらなかった。
 それでもここで話を振ってくれた師匠の、社長の顔を潰す訳にはいかないと、有名芸能人たちに出会って喜ぶミーハーを演じ、必死に冷えきった感情に話言葉に抑揚をつけて、一生懸命昼間あった出来事の様子を披露したが、元々リアクションが難しい微妙な話。
 やはり座はいっそう白けてしまった…
 (関西圏で地道に活躍を続ける、しかもその人たちよりも芸歴が長い、うちの師匠を前にこの空回り野郎は一体何を言い出すのか…無神経な奴…空気読めよと他のスタッフたちから白い目で睨まれる沈黙の中、空回りの屈折が更に加速を続ける…)
 そしてそれはその日の夜、ホテルの部屋でのミーティングの最中に起こった…
 ついに膨れに膨れた、重なり合ったスケジュールにひびが入った。
 やはり何をどう考えても時間が足りない…
 明日の撮影は大丈夫でも、あさってしあさっての仕事の締切りには、とても間に合いそうにはない。
 (初めからこんな状態になるまで、あんなに時間に余裕があったのに、まるで夏休みの日の子供の宿題だ。8月31日になるまで放っておいて、その無計画のしわ寄せに最後に泣く羽目になる、子供の愚かさ…)
 そんな最悪な打ち合わせの最中、僕はそれまで一度たりとも逆らった事がない師匠に対して、つい失礼な口の聞き方をしてしまった。

 「どうするんですか…」

 冷たく感情のない抑揚のない口調で、僕はスタッフたち全員が見ている前で師匠に対して造反した…

 「何や、その口の聞き方は失礼やぞ」

 僕や他のスタッフたちが立ち並ぶこちらを見ずに、あさっての方向に向いた師匠は、同じく感情のない、抑揚のない言葉で、造反する若造の僕をたしなめた。

 「スイマセン…」

 僕は一言、感情を無くした機械的な台詞で、師匠に詫びを入れた。
 先程焼き肉屋で、僕の事を白い目で見ていたスタッフたちが、ただ黙って僕と師匠のやりとりを見ている…(口を開く者は誰もいなかった…)
 ベッドの上に座っていた師匠が背中を丸め、疲れ果てた様子で二度三度、自分の顔を両手でさすった。

 師匠の背中がやけに小さく見えた…


2006/05/24

第百六十一回「傷」

 思えば元々お笑いが大好きだった僕が、TVのお笑い番組をあまり観なくなったのは、ちょうどこの頃からの事だった。
 それは尊敬して恐れる偉大な師匠からの逃避で、逃避した事から更に、当時の僕は逃避していた。
 職場や師匠の元で情けなかった、空回り君だった自分を思い出す、その手のお笑い番組や事象から、僕はことごとく目をそらし続けた。
 憧れていた映像の世界や尊敬していた人たちの元から、ほうのていてい逃げ出した情けない自分を、僕は自分自身を見たくなかった。
 (認めたくない若さゆえのあやまちではない。確かに空回り君が現実の僕だった。悲しい真実…)
 だから…。僕はお笑い全般を含めて、師匠が出演する、また登場しそうな番組を、(特に関西ローカルの深夜番組を)、一切観なくなった。
 (僕がゴエさんと山崎さんが会話をする、関西アンダーグランド芸人談義にまったくついてゆけなかったのはそのせいもある。芸人コンプレックスのお笑い恐怖症…)
 それほどその存在を畏れまた敬った師匠だったが、僕はたった一度だけ師匠に失礼な口を聞いた事がある。
 それは企業PRビデオ(VP)の撮影で、東京のとある撮影スタジオまで、社員総出で東京まで撮影に行った日の、撮影前夜の出来事だった。
 やはりその時も、何でも自分で行いたい師匠の完璧主義で、スケジュールはもうパンパンで、師匠のタレントとしての仕事や、他の仕事も重なりに重なって。
 東京への移動中も新幹線やハイエース、タクシーの車内で、師匠と僕はビデオウォークマンとにらめっこをして、爆発寸前の複数の作業に追われていた。
 (事前に師匠以外の僕らには、幾らでも時間があったのに、やはり信用されていない、情けないドシロウトの僕たちが居た…)
 そんな企業PRビデオの撮影の前日、師匠は東京の隣りの静岡県のラジオ番組のゲストに呼ばれて、東京入りする前に、静岡のとある漁港を訪ねなければならなかった。
 他の社員やバイトスタッフたちは車で先に撮影スタジオがある東京に向かったが、僕はタレントの師匠の付き人として、そのラジオ出演のお供をした。
 (師匠がラジオに出演中も、僕一人車内に残って、重なった次の次の仕事であるビデオウォークマンとにらめっこをしていた…)
 これは今やる仕事なのか?
 もっと早くに指示さえくれれば、僕一人でも事前に終わらす事が可能だった軽作業じゃないか…
 やはり空回り君の僕は師匠に信用されていない。不甲斐ない当時の自分…
 そしてそのラジオ番組の収録が終わり、再び新幹線に乗って、次の目的地の東京駅に向かおうと、最寄り駅の熱海駅まで到着した時、師匠と付き人役の僕は、ある芸能人の集団とすれ違った。
 それは当時人気絶頂だった、お笑いコンビのウッチャン・ナンチャン、K-2(勝俣州和・堀部圭亮)の二人、ダチョウ倶楽部といった、当時のバラエティー番組の第一線で活躍する、全国区の人気者たち、そうそうたるメンバーの集団に遭遇した。
 (あとでTVを観て分かったのだが、どうやら近隣のゴルフ場で、タモリさんの主宰するゴルフコンペがあった帰りらしく、その帰り道での当時のいいともレギュラーの揃い踏みだった…)
 有名芸能人の人気者たちの大集合に熱海の駅はちょっとしたパニック状態になっていた。
 師匠と付き人役の僕は、駅のロビーで大勢に囲まれる、その人気者集団の横をそっと通り抜けたが、ロビーに座った人気者たちの一人が、黙って通り過ぎようとする師匠の顔に気がついて、芸歴の長い先輩芸人の師匠に、「あっ、どうも」と会釈をして来たので、師匠の方もその集団たちに「どうも」と会釈をし返して、その場所をすっと通り過ぎた。
 人気者たちを囲む大勢のファンの、その中の数人が僕の師匠の顔にも気がついたようで、「あっ、あの人は誰だったけ?」と、指をさしてこちらを見ていた。
 そんな黄色悲鳴をあげる人々の輪を抜けて、新幹線の駅のホームに上がると、何故かそこにはダチョウ倶楽部の寺門ジモンさんだけが一人ぽつんと仲間たちから離れて、新幹線の到着を待ってホームの地べたに座り込んでいた。
 (のちにネイチャージモンという浮世離れした怪人物としてブレイクする寺門さんはやはりタレント同士、群れるのが苦手な様子に見えた…)

 師匠はそんな仲間たちから離れた、独りぼっちの寺門ジモンさんとも軽く会釈を交わすと、しばらく待ってから、東京行きの新幹線に乗り込んだ…


2006/05/24

第百六十回「失格」

 僕はたった一年間という短い間、師匠の起こしたその番組制作会社でADとして働かせて貰ったが、会社の方も出来たばっかりで必ずしも順調な一年めとは言えなかった。
 一本だけあった帯びのレギュラー番組が終わるとあっという間に会社の、番組制作の仕事は綺麗さっぱりと無くなってしまった。
 勿論、師匠のタレントとしての仕事は沢山あったが、会社(特に使えない新人の僕は…)
 存在する意義がまったく無く。
 会社自体。タレントの師匠の活躍の足を引っ張る。
 社員全員、師匠のお荷物状態になった。
 出来たばっかりの会社には仕事がない…
 まだ番組制作会社としての過去実績がないから営業もロクに出来ない…
 困った社長の師匠は仕方がないので、タレントの師匠のファンクラブイベントを、仕事がまだ取れない会社の通常業務として次々と行っていった…
 (春は一泊二日のファンクラブのツアー旅行。夏は山にキャンプ。秋は師匠のトークライブ。冬はホテルの一室を借りてのクリスマスディナーショー。映像関係の仕事はたまにあるTVの特番や企業向けPRビデオの制作と、ほとんど皆無の状態だった…)
 今思えば一見、この脈絡のない仕事ぶりも、いずれ訪れるであろうまだ存在せぬ、やがて来る番組制作の仕事に備えて。まだ出来たばかりの会社やド新人の僕たちへの、研修期間的な、トレーニングステージの意味合いが多分に含まれていた、まさにブートキャンプ、サバイバル旅行&クリスマスパーティだったのだろうが、当時の若かった僕には大人たちの、師匠たちの考えがまるで分からなかった。
 (若者はいつの時代も今日の出来事に迷い、目先の他人の行動に戸惑い、日々混乱する。半熟ヒーローのタマネギ剣士)
 そんなトレーニングの、軽いウォーミングアップのファンクラブイベントの仕事だったのに、それでも何故か締切り間際は常に厳しいタイトなスケジュール状況で、僕たちはみんなアパートに帰れない日々が続いた…
 (今ふりかえるとそれは当時の師匠の完璧主義で、すべての作業を自分の管理下で進めたい、師匠の作家的気質が仇となって、忙しい師匠のタレント活動の短い合間にしか、その作業が進まない、全体スケジュールの流れの悪さゆえの、あまり意味のない徹夜続きだった…。勿論それは使えない任せられないスタッフの、僕たちが全部悪い)
 学生あがりの足が動かない、頭でっかちで使えない、業界一年生のドシロウトたち…(素人っぽいのが喜ばれるのは風俗やAV、エロ業界だけだ。こっちの世界では何の役にも立ちはしない…)
 そんな情けない会社のお荷物だから、僕は年中、人前で師匠に怒られてばかりいた。
 人前での礼儀作法からロケ中の所作。
 TV局へのマスターテープの納品時間に遅刻して大騒ぎになった事件。
 撮影中、演者や大勢のスタッフたちの前でグーパンチで殴られた事もある。
 その度に僕は師匠に、「お前はアカンぞ!」と説教をされた。
 (特に一番印象に残っているのは、徹夜続きの作業だった編集スタジオからの帰り道。タクシーの中でお付きの僕と二人きりになった、疲れた師匠は失敗続きの情けない僕にむかって、「俺はここまで来るのに(番組を主演、企画・演出をするのに)、一本立ちするのに十年かかった…。お前には一生無理や…」と冷たく静かに言い放たれた…)
 今思えばそれは連日の徹夜続きの編集作業に疲れた。ちょうどこの頃、自身のタレント活動にも色々とゴタゴタがあった師匠が、腹立ちまぎれに普段から情けない僕を叱咤激励するつもりで言った一言だったのだろうが、その時の僕はその言葉を、そのままの意味に受け取って、力なく「はい…」とだけ答えた…
 それから数か月後。僕は毎日のように考えていた、仕事を辞める嘘の口実をでっち上げて、師匠の元から逃げ出すようにその番組制作会社を辞め、ついでにAD(映像業界の仕事)も完全に辞めた…

 (どうせオイラには一生かかっても無理なんだ…)

 僕は大切なものを他人に預けるひねこびた大人になった…

 そしてあれから十年以上の歳月が流れて、僕はあの時の師匠の年齢を大きく越えてしまったが、僕はあの時の師匠の予言通り、一生何者でもない…

 今もただのフリーターのままだ…


2006/05/24

第百五十九回「会社」

 師匠が立ち上げた番組制作会社の第一期生として、映像専門学校を卒業したばかりの僕は、その出来たての新しい会社に入社した。
 番組制作会社といっても本当にまだ出来上がったばかりで、サンテレビの深夜番組という超ローカル番組一本だけを抱える、番組制作会社とはまだ名ばかりの小さな会社で、社員全員。社長である師匠のタレントのギャラで食べさせて貰っていた。
 僕がその出来上がったばかりの新しい会社に入社させて貰ったきっかけは、当時僕と同郷の友人(昔一緒に田舎の広島で、コントごっこをしていた仲間)と、師匠がスマッシュヒットを当てたその関西ローカルの深夜番組の、僕らは大ファンで。その深夜番組のファンクラブに二人揃って入会したのが、初めのきっかけだった。
 (初めはその友人の方がアルバイトとしてその会社の仕事を手伝っていたのだが、なんやかんやと色々あったらしく。次にまだ映像専門学校に通っていた、卒業間際の現役学生だった僕がその友人から、ある日突然会社の社長である師匠に紹介され、僕もボランティアスタッフの一人として、ファンクラブ等のイベントの手伝いをしている内に、正社員にならないかと誘われた)
 僕はその誘いを受けた時専門学校を卒業したら、東京のとある撮影スタジオの撮影助手に就職が決まっていたが、まだどこか制作(演出)の仕事に未練があった時で、その決まっていた就職先を蹴って、大阪に残留する事を決めた。
 新しい小さな会社の給料は家賃を払って生活出来るギリギリの薄給だったが、その頃の若かった僕にはまだまだ夢を追うバイタリティーがあったので、師匠との面接時に、「例え一生お金はなくても、好きな事が出来る人生の方がいい」と、今なら恐ろしくてとても言えない事を簡単に言ってしまった…(まだ世間知らずの坊やだった)
 その後すぐに自分の未熟さにつまづき、毎日仕事を辞める口実ばかりを考えるようになってしまうのだが、それは今はさておく…
 冬のAD時代。僕はその会社でお荷物社員のみそっかすだった。
 会社や現場での自分の立場や立ち位置がまるで分からず、ただおろおろとしては、「空回り君」という屈辱的なあだ名をつけられて、その小さな小さな会社という共同体の中で、「いじられ役の道化者役」をふられた。
 (今思えばそれがその時のぺーぺーの僕に出来る精々の仕事で。愛想良く上手に愛されるようにその道化役の役割を。ズッコケ社員を上手に演じればよかったのだろうが。バカで未熟な僕はそんな事さえ分からずに、他人との付き合い方を完全に見失い、独りよがりの空回りな行動を続けては、周囲の笑い者になっていった…。それは今も変わらずに続く。そんなこんなの繰り返し…)

 僕は次第に自分も世界も完全に見失っていった。


2006/05/23

第百五十八回「ブレイクスルー」

 2005年の秋。この原稿を書いていた頃。お笑いブームはまだ終わらずに続いていた…

 ブームという以上、いつかは終わりを迎えるものであるが、もうすっかりとお笑い好きになってしまった、中年男の僕としては、このブームが今は一日でも長く、続く事を望むばかりである。
 それはそうと今回の若手お笑いブーム。若手という割にはオーバー30の、中堅芸人さんたちの活躍が目立つ。
 その芸人さんの大勢はかつて、マンザイブーム以降にもあった小ブーム(二丁目ブームやボキャブラブーム)を経験した、実は結構ベテラン芸人さんたちで、今回のこの突然の再ブームに、特に浮かれた様子もなく。堅実にそのキャリアを積み重ねて、ブームが過ぎ去った後の芸能界で。
 タレントとしての立ち位置を計算しながら、TVのバラエティ番組等に出演している様子が、僕らのような素人目にもうかがえる。
 (かつて80年代初頭にあったマンザイブームと今回の若手お笑いブームとは、その辺りが微妙に違っているようだ…)
 1980年代前半。日本という国は色々な意味でゴージャス(イケイケ)だった。
 前進や進化こそが人間や社会の善性であり、停滞や後退は悪しきとされたバブル経済の絶頂期に、突如起こったマンザイブームも、その夢はエンドレス。
 演ずる漫才師もそれを観る視聴者の観客も、まるで終わる事のない夢のようにその狂熱の日々を生き。
 ブームはある日突然その終焉の終わりを迎えた。
 おごれる平家は久しからず…
 そしてそのブームが過ぎ去った後、あんなに毎日TVで見かけた、芸人さんたちは一部その存在(たけしさん、さんまさん、紳助さんたち)を残して、一斉にブラウン管からその姿を忽然と消した。
 思えば僕の師匠はそのブームとブームの狭間に生きた、(ブレイクスルーの世代の)、コメディアンだった…
 正式な師匠筋を持たず、独学でお笑いタレントになり、どこの事務所にも所属しなかった僕の師匠は、一度進出した東京から大阪に拠点を移して、その独特の芸風や存在で、「出演しながら演出もこなす」という、当時のTV界ではたけしさんのような、大御所以外許されなかった。
 タレントとして独自の地位を、まだ未開発だった関西のTV界に築こうとしていた…(若いダウンタウンが頭角をあらわすまだ前の話だ…)

 そして十年間、苦労に苦労の末、関西の深夜TV番組でスマッシュヒットを一本当てた師匠はその流れに乗って、自分が社長の番組制作会社を立ち上げた。


2006/05/23

第百五十七回「ブーム」

 そのブームの到来が誰の目にも明らかに分かるようになったのは、多分第三回M(マンザイ)-1グランプリで、大会史上最大の激戦をフットボールアワーが制した頃だったと思う。
 この頃の僕はゴエさんと山崎さんの影響で、すっかりお笑いにかぶれていったので、あれはああだったとか、これはこうだったとか、したり顔で同番組の内容を山崎さんと語っていた。
 そしてその2003年の暮れ、ブームの先駆けとなったテツandトモ、はなわが揃って紅白に出場し、残念ながら紅白に落選したダンディ坂野さんたちが、ブームの最前線から消えはじめる頃。
 空前の若手お笑いブ−ムがやって来た。
 (もう何十年も前から斜陽が続く、日本の映画産業の下の下。またその下の位置に存在する、アンダーグラウンドな自主映画の世界。更にその末席に参列する、僕らみたいな目には見えない、砂の一粒のような人種たちからすると、まさに群雄割拠の天下取り、夢のような一大ムーブメントで。いつの日かまた再び、僕らが居座るアマチュア映画の世界にも、世間のスポットライト、陽の光が当たる日が訪れないかと淡い期待の甘い期待をするが、その期待が叶う事は永遠に絶対ない…。自主映画が高校生や大学生たちの間で流行した、1980年代初頭の一大自主映画ブーム。もうその黄金時代に時計の針が戻る事は二度とない…)

 今は伝説となったその黄金時代出身の作家監督たち…(映像学校の学生時代、僕たちはそこから出世して映画監督になった。今はレジェンドの彼らが作った伝説の数々、寝物語を聞いた。憧れの英雄たち…)

 これから数年間訪れる若手お笑いブームのまだ前夜。僕らの映画に出演が決定した頃は、活動の拠点の地元関西でも、まだほとんど無名状態だった浅越ゴエさんだったが、時間が経つに連れて徐々にブラウン管の向こうにその姿を見かけるようになった。
 初めは深夜帯、次は関西のローカル、そしてたまに全国区のネタみせ番組にも、ザ・プラン9やピンのゴエさんの姿を見かけるようになり、僕も山崎さんもスタッフ一同、少しづつだが確実に有名になってゆく、浅越ゴエさんの活躍を見ては、我が事のように喜び、またブラウン管にむかって応援した…(プラズマも液晶もまだ持ってねぇよ)

 そして遂にこの頃はまだ関西のいちロ一カル番組だった、ピン芸人版のM-1。第二回R-1ぐらんぷりで、ブレイク寸前だったヒロシや友近さん、陣内智則さんを押さえ、ゴエさんは見事一等賞の一番になった。
 勿論、僕らはその事前の下馬評をくつがえしてのゴエさんの優勝に、サッカーの代表チームがワールドカップに出場を決めた瞬間のスタンドサポーターたちのように、大いに喜んだのは言うまでもない。


2006/05/23

第百五十六回「うめだ花月」

 ザ・プラン9の単独ライブからしばらくして、僕らはこの頃、新しく復活したばかりの新生うめだ花月の舞台に、ピン芸人として出演する浅越ゴエさんを観に行った。
 (ゴエさんはプラン9の活動以外にも自分一人。浅越ゴエとしてもソロ活動を続けている)
 前回と同様、客席はほぼ満席状態だったが、今度はちゃんと予約チケットを買っての正規の入場だったので、指定の座席に座って、ゆっくりと観覧した。
 今回は前回のザ・プラン9ひと組の単独ライブとは違って、客層は老若男女バラバラ、出演する芸人さんの数もかなり多かった。
 その日の公演の内容は大きく分けてネタと芝居ものの二つに分かれ、ゴエさんはネタものの方での出演で、一人十分程度のネタを披露していた。
 芝居ものの方にはまだ全国区になる前のブレイク寸前の、フットボールアワーの二人や友近さんが出演していたが、当然お笑い音痴の僕は、誰が誰だかまったく分からなかったので、「アレは誰?面白いけど何てゆう人なん?」とか、横にいるお笑い通の山崎さんにうっとうしく、いちいち解説を求めながら舞台(ステージ)を観ていた。
 (後日、撮影の移動の合間にゴエさんから、「あの日の舞台では誰が面白かったですか?」と質問されたので、僕は芝居もので「ヒーローショーの司会役のお姉さん役」をやっていた、あの女の人が面白かったですと答えると、ゴエさんは「やるなぁ友近」と言った…)
 ピンになった時のゴエさんの演芸スタイルは、偽者のニュースキャスターになって、架空の面白ニュース(しっくりこないニュース)を読むという、そこはかとなくインテリジェンス。知的な笑いで。
 偽者のニュースリポーターになって面白リポートを報じる。面白リポート芸を得意としていた僕の師匠の芸風に少しだけ似ていた(…)

 (ゴエさんが得意のしっくりこないニュースキャスターのネタで、見事第二回Rー1ぐらんぷりの覇者になるのはもう少しだけ先の話だが、老若男女のお客さんで熱気に包まれるその劇場の様子は、この後すぐに訪れる若手お笑いブームの到来を僕らに予感させた)

 まだ2003年の夏の出来事だった…


2006/05/22

第百五十五回「十年前(のび太たちはタイムマシーンに乗って)」

 最近のお笑い事情にはトントうとくなっていた僕だったが、かろうじて木村さんの顔だけは知っていた。
 (正確には木村明浩さんという個人名称ではなく、「バッファロー吾郎のどっちか」という、大変失礼で曖昧な認識の仕方ではあったのだけれど)
 客席では若い女性客に囲まれて所載なく。
 ステージ上には今日初めて拝見する芸人さんばっかりだったので、その日初めて知った顔の木村さんの登場に、僕の緊張は瞬間ほどけた。
 (あっ、この人は知ってる!)
 そして同時に、僕は久しぶりに見る木村さんのお顔に、「この人まだいたんやぁ」と思ってしまった…(すんません)
 僕が知っているバッファロー吾郎の木村さんは、十年以上も前。天然素材、二丁目ブームのはしっこ(?)で。
 ナイナイや雨上がり決死隊といった、今も人気者の彼らたちに囲まれて、一組だけファミコンのクソゲーの話、(ファミコン版のオバQの四面が難しすぎてクリア出来ないとか)
 当時も今も、女子たちには分からない、やはりマイナーなプロレスラー等の話をして、一般客や女性客をひかせる、コアでカルトなパンク芸人という、おぼろげなイメージだけが残っていた。
 (「爆発五郎」という大昔のカルトアニメのタイトルをもじったような、そのコンビ名からして大変濃い)
 何故かちょうどその頃から(ちょうど二丁目ブームの辺りから)、お笑いやお笑い番組をほとんど見なくなった僕は、十年以上ぶりに見る木村さんのその芸風に目を見はった。
 その芸風は十年以上も前、世の中がまだ終わったばかりのバブル経済の浮かれた雰囲気から抜けきれなかったあの頃のままから、まるで時が止まったかのように、当時から何一つ変わっていなかった。
 (ファミリーコンピューターがプレーステーション2に変化した位で、相変わらずマニアックなネタで、そのパネル大喜利の解答をゆるく答えていた)
 僕はそのバッファロー吾朗の木村さんの、(とてもよい意味で)、少年の日のまま、あの日のままに変わらぬ姿を見て、目頭が思わず熱くなったのだが、一つだけ大いに変わった事に気がついた…
 それは舞台上の木村さんではなく客席の方で、当時その手のマニアックな漫画ネタやゲームネタに、完全にひいていたはずの観客席に座る女性客が、木村さんのマニアックな珍解答にドッカンドッカンと笑っていた。
 それは僕にはとても意外な事だったが、後で自称お笑い通の山崎さんに聞くと、バッファロー吾郎の二人は現在。
 大阪の若手芸人(アンダーグラウンド芸人)をまとめる長(おさ)的存在で。
 永遠の若手。劇場番長とも呼ばれる。
 関西の芸人界では一目置かれる存在なのだそうだ。

 人は変わらずとも時代は変わる…
 (キープ オン ロッケンロール!!)

 続ける事とは常に偉大である。


2006/05/22

第百五十四回「兆し」

 大阪班のマネージャーさんからお笑い芸人の浅越ゴエさんを紹介された数週間後。
 僕らはゴエさんが所属するお笑いグループ、ザ・プラン9の単独ライブの会場にいた。
 ライブ会場は大阪は難波にある、baseよしもとという比較的新しい小さな劇場で、自他共に認めるお笑い好きの山崎さんに聞くと、そこは吉本の芸人さんの中でも、主に若手の芸人さんが出演する劇場だそうで、昔でいうなら二丁目劇場に相当するような場所だと教わったが、僕はその二丁目劇場の事もよくは知らなかった。
 (ダウンタウンやナインティナイン、雨上がり決死体を排出した、伝説的な劇場である事くらいは知っていたが)
 僕らがゴエさんへの差し入れを片手に劇場を訪れると、会場の中はすでに立ち見の満席状態だった。
 客層は二十代前半から後半にかけての若い女性が多く、僕をのぞけば、男性客はほとんど見当たらなかった。
 (お笑い通の山崎さんいわく、女子中高生がファンの中心層であるbase芸人の中では、それでもこの日のお客さんの年齢層は比較的高ったそうだ…)
 僕と山崎さんは会場の一番後ろの壁際に立って、背伸びをして舞台を拝見させて貰った。
 (もっとも僕の立っている場所からは席に座れなかった人波で、半分くらいしかステージの様子は見れなかったが)

 つま先立ちして、背伸びして。

 その日の単独ライブは二部構成に分かれて、前半の第一部はTVのクイズ番組形式のパロディ大喜利。
 後半の第二部はメンバー全員が高校生に扮して演ずる、ロックバンドを題材にした青春コント(演劇)という、趣向を凝らした内容だった。
 (何とメンバー全員による、バンドの生演奏もあった)
 僕はこの日ステージを観て、初めてプラン9のメンバーが全員で(当時)、五人である事を知った。
 (その名前からてっきり僕は、9人編成のグループだと勝手に思い込んでいた)
 後から山崎さんに聞くと、プラン9のメンバーは全員。元々、別々に別々のコンビを組んで芸人の活動をしていたそうだが、その後コンビ別れをしてピンになり。その残った一人もの同士がグループを組んで再デビューした、とても苦労人たちなのだそうだ…
 (ファンの年齢層が少し高めなのも、グループ結成前からの、コンビ時代からのファンが多いせいなのかも知れない)
 残念ながら僕はザ・プラン9の、誰も知らなかったが、(僕が知っているプラン9は、あの史上最低の映画監督として有名なエド・ウッドが作った、「プラン9 フロム アウタースペース」というサイテー映画の題名で。確かその映画の中でプラン9<第九番めの計画>とは、死者たちを甦らせる計画だったと記憶する…)
 知らなかったが、その手の苦労話に弱い僕は、いたく感動をした。
 三十代の遅れてきた新人たちの再起。

 今舞台は超満員だった。

 そしてその日。ライブ前半の大喜利には、何人かのゲストの芸人さんに混じって、同じく三十代に突入していたバッファロー吾郎の木村明浩さんがゲスト登場した。

 木村さんはこの日出演していた演者さんたちの中で、ただ一人僕も知っていた芸人さんだった。

2006/05/22

第百五十三回「独立」

 番組の打ち上げか飲み会か何かの酒席で、僕の師匠が初めてたけしさんと同席した時、殿と呼ばれるたけしさんは、いつものように大勢の軍団員に囲まれて、一人神棚の上にいた。
 酒宴が進み、その内に軍団員の誰か一人が、足を崩した僕の師匠に気がついて、その髪の毛をつかみ、「お前、殿の前で失礼だぞ」と、力づくで土下座をさせようとしてきたので、若い師匠はその腕をふり払い。
 「僕はたけしさんの弟子じゃありませんから」と、その土下座の強要をきっぱりと断った。
 勿論、その場がそれで済む訳もない…
 あわやその場にいた軍団員全員を相手に、つかみ合いの大喧嘩になりそうになったが、その場をたけしさん本人が納めてくれて、その日は何事もなく無事に終わった。
 それ以来、僕の師匠はたけしさんと密かに親交を持つようになったそうだ。
 僕はふと考える。
 もし僕がその場にいたら、間違いなく土下座をしていただろう。
 いや、その前に初めて出会う尊敬する人の前で、わざと足を崩すという大胆で不遜な真似が出来るだろうか…
 そもそも何故師匠は、尊敬する憧れの人のたけしさんのいる太田プロの誘いを断ったのだろうか…
 その答えはのちに、太田プロから独立しオフィス北野を立ち上げた、たけしさんの行動の中にあるように思う。
 僕の師匠はきっと尊敬する、たけしさんのようになりたかったのじゃないだろうか…
 尊敬するからこそ、そのそばにはいられなかったのじゃないだろうか…
 (たけし軍団の一人になってしまうという事は、たけしさんに近づくと同時に、決してたけしさんを越えられないという答えを、自分自身に出してしまう事になる)
 尊敬する人の前でわざと足を崩したのも、「自分はあなたとは対等でありたい」という、若い師匠の強い自己の表われだったのかも知れない…
 その後、東京から関西に活動の拠点を移して、我流の芸能活動を続けた僕の師匠だったが、きっと師匠は常にそのたけしさんの行動を意識して(たけしイズムを継承して)、自己の芸能活動を広げ進めようとしていたのじゃないかと、不肖の弟子としては想像する。
 独立独歩…
 TVタレントのタレント活動以外にも映像やTV番組を自分で演出しようと、師匠は番組制作会社を立ち上げ、たまたま最初に僕のような出来の悪い新入社員が入ってしまったが、師匠はその制作会社の立ち上げも含めて、アンダーグラウンドな関西の芸能界において常に独立した存在であろうとした…(そのすべてが上手くいったとは言えないのだろうが…)

 これはその後、僕がその会社を辞めてから数年後に聞いた話である。

 その頃、世間ではイギリスのTVドラマ「Mrビーン」が流行っていた…。その人気にあやかって元B&Bの島田洋七さんが、自分を主人公に日本版「Mrビーン」を企画した時。
 親友でもあり世界的映画監督でもあるたけしさんに洋七さんが相談すると、たけしさんは「そういうのはアイツが得意だから、アイツにやらせてみなよ」と、その映画の監督に師匠を推薦したそうだ…(師匠はその作品でたけしさんと同じ、念願だった映画監督デビューを果たした)

 尊敬する人からの推薦。

 それはどんなに誇らしく嬉しい気持ちだっただろうか…


2006/05/21

第百五十二回「E氏」

 映像専門学校を卒業して就職したAD時代、僕は会社でみそっかすの存在だった。
 理屈ばっかり多い頭でっかちで、その癖一人では何も出来ず(それは今もまったく一緒だが…)、ついでに礼儀知らずのウスノロで、ついたあだ名が「空回り君」という、まるでドラえもんに登場する、のび太がそのまま大きくなったような、使えない、何ともダメ社員だった。(ドラえもーん、何か道具出してくれよぉ)
 だから僕がマルチタレントだった社長のE氏の事を師匠と呼ぶには少し嘘偽りの語弊がある。
 師匠と呼ばれる社長にしてみれば、こんなダメな弟子を持った覚えはないし、また育てた覚えもない。
 勝手に弟子を名乗られては、自分の名折れになってしまう。
 (事実、たったの一年しかいなかった僕の名前や顔を社長だったE氏はもう覚えてはいないだろう…)
 それでも僕にとって師匠と呼べる人間はこの世にただ一人、師匠をおいて他にはいないから、迷惑を承知で今でも師匠と呼ばさせて貰っている。
 師匠は大手のタレント事務所(吉本や松竹)には所属しない、当時では珍しいフリーのタレントだった。
 師匠の得意な芸はリポーター芸で、あの紳助さんをもってして、「ENG(街頭ロケ)の天才、素人をいじらせたら日本一」といわしめた、関西の実力派タレントだった…
 (師匠はその腕一本で、後にエミー賞という海外の有名なTV番組の賞を受賞する事になる、「料理の鉄人」という当時の大人気番組を退けて、福井ローカルのただの地味なリポート番組を、その年国内最大のTV番組の最高賞に輝かせた事もある。小さなアリが巨象を倒した、瞬間…)
 僕はそんな師匠の後ろ姿に、低予算でも作品を作りあげる、ゲリラ戦のマインドを教わった。
 (みそっかすの僕が直接、師匠に声をかけて教えて貰う事は少なかったが、門前小僧習わぬ経を読む、見よう見まねでそのコツを教わった)
 そんな僕の師匠の心の師匠はたけしさんだった。
 その頃。東京を拠点にタレント活動を続けていた僕の師匠は、当時たけしさんが所属していた太田プロに来ないかと誘われたが、それを断ってフリーの道を選んだそうだ…
 (よらば大樹の陰。長い物には巻かれろ。弱い僕にはとても選べない。それはイバラの道だったろうと想像する)

 独立独歩の精神で、フリーランスの道を歩むようになった僕の師匠はよく若い僕らに、自分がたけしさんと出会った時の話をしてくれた…


2006/05/21

第百五十一回「師匠」

 芸人浅越ゴエさんと出会って僕は再び、お笑い番組やお笑いの世界に興味を持つようになり、そしてその内に世間には若手お笑いブームというものがやって来た。
 勿論、ブームという以上は流行事の狂騒で、いつかは終わりを迎えるものである。
 今から二十年以上も前、バブル経済が始まった頃、日本は空前のお笑いブームに包まれていた。
 B&Bやツービート、紳助竜助、さんまさんやザ・ぼんち。のりおよしお、サブローシロー、今いくよくるよ。
 そしてすでに師匠クラスだったやすきよ漫才。
 若手ベテランを含めて大勢の人気者をやはりTVは世に送り出した。
 当時の僕はまだ小学校の低学年で、三歳離れた姉とブラウン管の前で、人気者たちのマンザイやネタに腹を抱えて笑い転げていた。
 声優さんがすべて関西の芸人さんでキャスティングされた劇場版「じゃりン子チエ」も映画館まで姉と二人で観に行ったし、姉は「マンザイ太閤記」というアニメ映画のレコードのドラマ盤(!)まで買って聴いていた。
 (レンタルビデオ店の存在はおろか、家庭へのビデオデッキの普及がまだ一般的ではなく、映像ソフトが無かった昔の話である…)
 特に「俺たちひょうきん族」という番組は、同時間帯に裏番組で放送していた(当時すでに古典の域に達していた)、ドリフターズの作りこまれたコント(笑い)と比べて、即興性の高い、当時の流行り言葉で例えるなら、オシャレでネアカでナウい。ニューウェイブな笑いで、その出演者たちの彼らは一躍、時代の寵児(ヒーロー)となり、笑いの、いや、TVの歴史に巨大なムーブメントの足跡を残した…(楽屋オチを一般レベルまで定着させたのはひょうきん族だ。二次創作のパロディーを一般化させたのもひょうきん族だ。ひょうきん族が無ければその後のとんねるずもダウンタウンも、お笑いの進化形態は変わっていただろう。すなわち俺たちはみんな、俺たちひょうきん族なんだ。ビビンバ!)
 しかし、あれから二十と余年…
 たけしさん、さんまさん、紳助さんというバラエティー番組の巨星たちを残して、あっさりとバブル経済も弾けて、今や世の中はすっかりと変わってしまった。
 (やまだかつてない、山田の邦ちゃんは結婚してほとんど隠居状態。ぷっつん5。鶴ちゃんでーす、こと片岡鶴太郎氏は芸術家になった。フルハム三浦…)
 そんな時代のレジェンド(伝説)たち…

 僕のAD時代の番組制作会社の社長であり、同時に師匠でもあったタレントのE氏も、そんな時代の芸人さんたちに憧れてタレントになった人物である…


2006/05/21

第百五十回「アサゴエゴエ」

 浅越ゴエ(あさごえごえ)

 吉本興業に所属するお笑いグループ、ザ・プラン9のメンバーの一人。
 僕らの映画「小夜鳴鳥」の中で、謎の職業電球売り役を演じてくれた芸人さんである。
 電球売り…。文字通り電球を売るというだけの(?)、ワキ役だったが、登場人物が少ない今回の映画の中ではかなり重要な役柄で(!!)
 そんな映画の中の重要なひと役を、今回芸人さんである浅越ゴエさんに演じて貰えた事は、僕らの長い自主映画制作の道のりの中でも、特に幸運な出来事の一つであった。

 …僕らが当時若手芸人だったゴエさんと出会ったのは、同じ吉本興業の俳優部門に所属していた、まだ松尾敏伸さんの出演が正式に決定せず、交渉が難航中の出来事だった…

 大阪はミナミ。難波グランド花月の裏側にある、吉本興業の本社ビル近くの小さな喫茶店で、僕と山崎さんは大阪のマネージャーさんから、まだまだ無名の若手芸人だった、浅越ゴエさんを紹介して貰った。
 当時(2003年)は、翌年爆発する若手お笑いブーム到来のまだ前夜で、ゴエさんもピン芸人日本一を決める、R−1ぐらんぷりで優勝する少し前だった…
 (失礼な話だがこの頃の僕は、ザ・プラン9というグループ名もゴエさんの名前も、やがて到来する若手お笑いブームの兆しも、何も知らなかった…)
 ゴエさんと出会って初めて気がつかされたのだが、僕は十年ほど前から、ほとんどお笑いを見ていなかった。
 (二十歳の頃、ダウンタウンをヒーローに、コントごっこから映像の世界に興味を持ち始めた元々お笑い大好きの僕だったが、それ以降は何故か急速にTVのお笑い番組を見なくなっていた…)
 それに反して監督の山崎さんは昔から現在に至るまで、根っからのお笑い好きで、芸人さんであるゴエさんとの出会いに、素直に感動していたようだった。
 (隣の席にいた僕は山崎さんとゴエさんが会話する、大阪アンダーグランド芸人トークにまったくついて行けず、何となく聞いた事があるような無いような、コンビ名を聞いては、「誰だろう?」と思っていた)
 多分その喫茶店で一時間位話しただろうか、その日の出演交渉はすぐにまとまった。
 無論、こちらから断るような理由は何もない。喜んでである。
 その日の帰り道、生芸人さんとの出会いに一人感動する山崎さんを見て、酷く羨ましいと思った僕は、この日以来また、色々なお笑い番組を見るようになった。
 おかげで今では山崎さんにも負けない立派なお笑い好きである。


2006/05/20

第百四十九回「運命の人(4)」

 とりあえず偶然はここまで続いた…

 キャスティングに関していえばここから先、偶然の類いは一切ない。
 あとはその偶然をどう必然に変えるかが僕らの大問題となった。
 一度ほとんど組み立がっていた、映画撮影のスケジュールをバラすのは、自主制作だからこそ容易ではない。
 連ドラの出演中で、スケジュールの先が見えない、仮決定の役者さんを中心に、もう一度自主映画のスケジュールを組み直すのは、一か八か、危険な賭けとなる…
 (賭け、賭け、賭け…。自分自身を人柱の杭に安全な映画作りの土台を作ったつもりだったが、僕らの映画作りはいつの間にか、地雷だらけの危険地帯になってしまった…)
 しかもチャンスは連続ドラマの撮影で頻繁に大阪に出入りする、そのドラマの撮影期間の隙間合間の一度っきりにしかない。
 危険な大冒険だった…
 (僕個人は決してそんな冒険をするようなタイプではないが…)
 ではないが、ではないが…
 結局、最後にその決定を決めるマネージャーさんとの話し合いの席で、この話が流れかけた瞬間、僕が助け船を出して、無理矢理話をまとめてしまった…
 (僕はこの危険な話が流れてしまえばいいと自分勝手に、心のどこかで思っていたが、となりの席の山崎さんがとても悲しそうな顔をしていたから…)

 これもまた運命だった…

 元ジュノンボーイ準グランプリ。(当時は)吉本興業所属の、新進気鋭の売り出し中だった。

 それが忘れられぬ名前…。僕らの映画の主役の、俳優の松尾敏伸さんとの出会いになった…


2006/05/19

第百四十八回「運命の人(3)」

 偶然は続いた…

 まず山崎さんが知り合いの元上司のディレクターを通じて、大阪のマネージャーに会った。
 勿論、僕らはプロの役者さんに対して適価適正のギャランティーを支払う事は出来ない。
 その金額じゃ一日だって拘束するのは無理と言われた。
 そりゃそうだ…
 それでも手渡したシナリオは一応、東京の事務所まで届けられる事になった。
 はっきり言って当時の僕らのふところ事情で、東京からプロの役者さんを呼んで、交通費とかホテル代の宿泊費を支払って、作品に出演して貰うだなんて、土台無理な相談だった。
 こちらから頼んでおいて勝手だが、これが僕らの映画作りの予算表の真実である。
 (どうせ最初から通らない土台無理な話だろうと、監督のやる気の、気が済めば良いと、僕は彼女の悪運の強さを舐めていた…)
 しかしまたもや僕の予想に反して、ちょうどこの時期、そのオファーした俳優さんは、某国営放送の朝の連続ドラマの撮影で、頻繁にこの大阪に訪れていた。
 そしてその俳優さんの出身地の実家はこの大阪にあった。
 (これは多分偶然ではない。大阪を舞台にした、大阪局制作の大阪のドラマだったから、大阪弁が喋れる役者さんたちが集められていたのだろう…)
 交通費、宿泊費問題クリアか…
 次に代理人のマネージャーではなく、本人づきの東京のマネージャーと山崎さんが直接会う事になった。
 前回渡した脚本(シナリオ)に、興味を持ったと言われた。
 でもシナリオは所詮シナリオだ。面白い物語が書けるからといって、ちゃんとその通りに、映画が作れるとは限らない。
 実際、僕らに過去実績(プロフィール)と呼べるものは何も無い。
 (過去に映像コンテスト等のきわだった受賞歴もなく、唯一作った長編作品も東京の多摩市が主催する、インディーズコンペティションに軽く引っ掛かった程度で、場末の自主映画の世界でも、更に無名の存在だった…)
 通っていた映像専門学校の関係者以外、映画界や映画人との太いパイプの繋がりも無い。
 真実誠にただのフリーターの二人組である。
 しかしその東京在住のマネージャーさんは、そのマイナーな映画祭の存在を偶然知っていた…
 (僕だって自作品が入選するその日まで、その存在を知らなかった小さな映画祭なのに…)
 更にその俳優さんが当時出演していた、朝の連続テレビ小説のセカンドディレクターの人が、去年偶然に立ち寄った、僕らの母校である映像専門学校の学園祭に講演会に来ていた、例の都会の映画監督との打ち上げに遅れてやって来た、ディレクターのTさんだった。
 しかもその俳優さんはつい最近、その都会の映画監督の作品にも出演したばかりだった…

 絡めとられる蜘蛛の糸のように、偶然だけがただただ続いた。


2006/05/18

第百四十七回「運命の人(2)」

 大阪から千葉。千葉から広島。広島から再び大阪。
 映像専門学校の助手(アシスタント)からひきこもり。ひきこもりからニート(無職)。ニートから工場作業員。工場作業員からフリーター。
 少しづつ今日まで、慎重に地道に積み上げて来た自主映画作りの足場。
 光の当たらない地中奥深くに潜って、たった一度っきりの、祭りの準備を続けて来た今日までの五年間。
 あともう少しで再び、僕は僕の念願だった、山崎さんと一緒に、もう一度自主映画が作れる。
 そんなささやかな夢はもう僕らの目の前、手が届く所にあった。
 何人たりにも邪魔はさせない。聖なる映画作りの時間。
 とてもじゃないが今までおこなってきた作業の、すべてのバランスを破壊する、そんな大冒険をする気には当然なれなかった。
 第一その主役の配役(響役の配役)は、その時すでに大阪在住の劇団員の人にほとんど決まりかけていた。堅実な選択…
 それが何故今更になってそんな遠い世界の、芸能人の名前が出てくるのか…
 正直、この時の僕にはその意味がまるで分からなかった…
 (今もまだ考えている旅の途中だ…)
 お金も無い。過去の実績も無い。
 普通に考えてそれはあまりにも非現実的な、一か八かの大博打。
 危険なギャンブルであった…
 (それは今の力無き、無名の僕たちにはとてもじゃないがコントロールしきれない。大きすぎる運命の力。映画作りの甘い悪魔のささやき…)
 果たしてその事を当時の僕たちはどれだけ切実に分かろうとしていたのだろうか…

 「アマチュアが売れはじめの新進気鋭のプロの俳優さんを起用する…」

 それはよくある宣伝の文言だが、大抵その裏には何かしらのからくりがある。
 (ちょこっとしか出演していなかったり、たまたま撮影が終わった後にその役者さんが売れ出したり。アマチュアとは名乗りつつも、ほとんどプロになりかけの移行期、制作会社やプロの業界人がちゃんとバックについてたり。長年有名映画監督の助監督を勤め、正統派としてのキャリアを充分に積んでいたり…)
 その華々しい起用の裏には何かしらの理由(わけ)があるのだ…
 (本当に僕らのように何も無い、中途半端なアマチュアの、ただのいち映画好きが起用していいランクの人じゃない…)

 この時に打った彼女の神の一手が、僕たちの映画作りの遠い未来(運命)を決めた。

 (それが果たして作品や僕らにとって、良い運命だったのか、悪い運命に導かれたのか、僕はまだその結果を決めかねている…)



 そしてそれから五年後…。僕はまだこの時に彼女が打った神の一手、悪魔の一手、運命にまだ抗っている…



2006/05/17

第百四十六回「運命の人(1)」

 それは本当(ほんとう)にたまたまだった。
 世の中に運命なんてものはそうそうあるものじゃない。
 あったとしてもそれはだいたい、後づけのこじつけで、誰かが書いた物語のようである。
 ただの偶然の連続を、まるで必然であったように身勝手に思い返し、飾りつけてそれらしく語る…
 もしそれが例え真実、誠の物語(ノンフィクションのドキュメンタリー)であったとしても、第三者の他人に語った瞬間から、その語りは偽物の騙りになってしまう。
 そしてその騙りの話を得意げに語るその内に、騙る本人までも、ついついその気になって、自分自身が語るその騙り話を、真実(ほんとう)の話だと、運命だったと信じ込む。

 …語るに落ちる。

 これから僕が騙る、役者さんたちとの出会いの話も、そんな語りの騙り話である。


2006/05/16

第百四十五回「響」

 2003年6月。年内中に「小夜鳴鳥」の撮影を完了したい僕らは焦っていた。
 制作資金集めから数えても、僕らの映画作りは早くも三年の月日が流れて、とうとう四年めの夏を迎えようとしていた。
 正直もうこれ以上は待てない。
 僕も山崎さんもわざわざ口に出して言う事はなかったが、その思いは多分同じだった。
 前作の終了から五年間。
 僕らはこの長い間、短い短編作品すら、一本も撮れていない。
 バイトバイトに明け暮れる日々。日に日に映画の撮り方を忘れてゆくようで、そのブランク(空白期)が怖かった。
 撮影場所のロケ地や主だった美術品(大道具、小道具、衣装等)は、少しづつだが決まり始めていた。
 あとは映画に出演してくれる未決定の配役。
 重要なもう一人の主役。響(ひびき)役を演じてくれる出演者の決定で、だいたいの映画の撮影期間、一番決める事が難しい撮影スケジュールが出せそうな所まで、もうそこまで作業は進んでいた。
 そして人集め物集めの、製作作業最大にして最後の難関になった、もう一人の今回の映画の主役…
 まだ未決定のままだった響役の、男優さんの決定が残っていた…
 (その配役の決定は大モメにモメて、ここから僕らの映画作りは更に思わぬ方向へと進む)
 ここからが僕らの自主映画作りの、本当に波瀾万丈となった、疾風怒濤の展開の幕開け。
 (松尾敏伸さん。東京在住のプロの役者さんで、これからの僕の人生の中で、決して忘れえぬ名前になるのだが、僕はまだこの時、彼の人の名前さえも知らなかった…)
 夢のステージ2。
 眼鏡でオタクでのび太だった僕の、冴えない人生でたった一度っきりの風。

 最初で最後の激しい風が今吹き始める。


2006/05/15

第百四十四回「根拠」

 お金じゃない。お金がない。自主映画作りの世界を支える根拠とは一体何なんだろうかと考える…
 僕はこれまで僕個人にまつわる自主映画作りの動機やその体験は幾つも書いてきたが、それはあくまでも僕個人の個人的な体験であって、決して自主映画そのものの根拠にはならない。
 映画とは例えそれが自主映画といえども、作者個人の物ではない(と思う)
 しかし商業映画ならその根拠の答えは簡単明瞭である。
 商業。つまりは商売である。
 その作品に関わった監督を含む、スタッフや役者。配給・上映をする劇場関係者等。または企画や製作、ソフト販売等々をする、各種会社や企業で働く人たちが、自分たちの食いぶちを稼ぐための経済活動。それはすなわち仕事である。
 (そう、みんなやみんなのお父さんお母さんがやっているアレだ…)
 勿論それだけではなく映画という芸術(?)の中には、監督や原作者本人の作家性という思想や文学活動。
 何の金銭的な得にもならない純文学的な文学行為の一面も備えてはいるのだろうが、それはあまねく観客や我々マニア(趣味の批評家たち)が語る、幻想の中にしかない。
 (僕らはその語れる部分も含めて映像や映画を、商品としてお金で買っているだけだ)
 一見タダで観られるTV番組やドラマ作品だって、そのテレビという電化製品自体はお金で買っている訳だし、微々たる金額とはいえ月々の電気代だって毎月ちゃんと払っている。
 受信料を支払う必要がある某国営放送や、各種ケーブルTVのペイチャンネル等は、電波自体を買って見ている訳だし、一見タダのようにも思える民放放送の番組は結局、企業や商品のCMを見せるための「CMのCM」である…
 (実は僕らが観ていると思っている映像本編のTV番組とはその本質、コマーシャルを見せるためのコマーシャル。番組という名前のCMである…)
 一時間番組の中で約十五分程度流れる企業CMこそ、テレビ番組本体の中身であり、残りの四十分の番組内容はキャラメルのオマケに過ぎない…(そして子供や僕らのように子供染みた人間はいつだって、そのオマケのおもちゃの方を欲しがる…)
 映画やドラマ、(時に国民に真実を伝える報道番組でさえ)、その映像自体を支える根拠の根っことは、そういった商用活動。すなわちお金(経済)である…
 (だからこそそこに携わるプロの映画人・映像人はプロと呼ばれる…)
 その仕事の中で遊ぶ事はあっても、それは決してお遊びじゃない。
 まぎれもなくプロの仕事である。
 一方自主映画は、(そうじゃない場合、そうじゃない人の例外もあるのだろうが)、完全に趣味のタダのお遊びである。
 少なくとも僕と山崎さんがこれから作ろうとする映画は100%趣味の映画作り、大人になりきれなかった子供たちのする遊び、映画ごっこに違いはない。
 (つまり自主映画制作を支える根拠を探るという事は、「人は何故遊ぶのか?」と、問う事と同じ事なのだろうか?)

 …人は何故遊ぶのか?

 …楽しいからか?

 (そうじゃなければただの暇潰しにか…)

 僕らは今、そのどちらなのだろうか…


2006/05/14

第百四十三回「スケジュール」

 学生を卒業したアマチュアによる自主映画制作の中で、一番難しい作業はふと何だろうかと考える。
 性能の良い高価な撮影編集機材の調達。
 個人での制作資金集め。
 ボランティアスタッフやそれと同然の出演者である役者の招集。
 ロケーションや大道具小道具を借りるための交渉。
 それとも企画・脚本・出演者への演技指導(演出)といった映画そのものの演出力。
 または撮影・編集機材を操る、映画機材を操るオペレート能力の技術力。
 自主上映および、より多くの観客の前で完成した作品を上映したい、完成後の配給・宣伝、営業の努力もいる…
 そのどれもが僕らのような後ろ盾のない、アマチュア映画人には乗り越えるのが難しい、高くてぶ厚い厚い壁である。
 しかし僕が思うに、そのどれよりももっとも難しい作業は、それらすべての離ればなれにある時間を、一つの場所と時間に集める、スケジュールをまとめる事である。
 (もしかして何だそんな事かと思ってしまうかも知れないが考えてみて欲しい)
 遊びの時間が多い学生時代ならともかく、フリーターでも何でも、一度社会に放り出されてしまったら、仲が良かった友達同士全員で、一同に会う事さえ難しくなる。
 働く時間や場所、休日もバラバラ。
 二泊三日のちょっとした国内旅行に揃って出かける事は愚か、週末の夜に全員で会う事さえ難しくなってくる…
 それぞれがそれぞれの時間の流れの中で生き始めて、少しづつ縁遠く、また疎遠になってゆく。
 それが大人になった(大人の時間を生き始める)、友達という存在だ。
 (職場の仲間と友達はやはり違う。趣味の仲間や学生時代の友達は特別なものだ…)
 子供の時間で作られる学生映画をのぞき、自主映画の撮影とはいわば、その大人になったかつての友達同士で揃って、一か月近くも海外旅行に出かけようとする暴挙に近い。
 (働く大人の全員のスケジュールは普通なら絶対に合わない)
 変な話だが普通にしていたら、フリーターの僕と山崎さんでさえ休日はあわない。
 商業映画の世界は、そのバラバラに分かれた、時間や場所やすべての人や物を。
 ギャラ(お金)を払って、一ヶ所に一つにまとめてゆくが、僕ら自主映画を作る者にはその人や物を集めるお金が無い…
 (だから僕は某資産家が億単位のお金を自腹で払って作った、自称自主制作の自主映画作品を、自主映画とは認めたくない。それはもう普通に、独立プロっていうんじゃないのだろうか…)
 タイム イズ マネー。
 お金がない者は同様に時間にも貧しくなる…
 (※ここ最重要。試験にも出ます。嘘)
 自分一人。
 僕一人。山崎さん一人の時間なら、作者本人の覚悟一つで、何年だって映画作りに時間を裂けれるが、大勢のスタッフや演者さん。
 ロケーションや機材・大道具・小道具といった、借り物のロケ場所や道具類を一ヶ所に、一同に集めるのは、やはり一筋縄では行かない。

 そこにはやはり何かしら、お金以外の映画作りの根拠を必要とする。


2006/05/13

第百四十二回「テスト撮影」

 五月晴れという言葉を僕は大人になるまで、五月の空のような晴天の様を指す言葉だと思い続けて使っていたが、どうやらそれは間違いの勘違いのようだった。
 辞書をひくとそこには、「梅雨の間の晴れた日」を指すと書いてあった。
 梅雨。五月はまだ梅雨の時期ではない。
 そう不思議に思ったが、よくよく考えてみれば古い言葉だ。
 旧暦の五月と現在の五月では約一か月ほど違っている訳で、今の暦に合わせるなら五月晴れは六月晴れの事で、確かに梅雨の日の晴れ間だった。
 無知で無学な僕はそれを知らずにずっと、現在の五月の青い空を例える言葉として使い続けてきたようで、それが意外でもあるし、また恥ずかしい…
 それはさておき、五月のある晴れた日。
 僕らは映画のヒロイン役の、小夜子役の青崎裕美さんを連れて、衣装や髪形等のチェックを兼ねたテスト撮影を、奈良県の明日香村という場所で一日行った。
 テスト撮影といってもこの日の撮影は本番のビデオカメラではなくスチールカメラで行う、主役の青崎さんの撮影会だった。
 (以前、仮チラシの撮影で味をしめた僕と山崎さんは今度は青崎さん本人で、同じスタイルのテスト撮影を行った…)
 この日のテスト撮影は天候も良く順調に終わり、出来上がった写真も満足のゆく出来上がりとなった。
 16ミリフィルムで映画を撮るという事をとうに諦めた僕や、現場ではカメラを触れない監督の山崎さんにとって、この日のフィルムでの写真撮影は良いガス抜きになった。

 本当にそれは抜けるように高く青く澄み切った、五月のある晴れた日の出来事だった…


2006/05/12

第百四十一回「インサート」

 スタッフたちと日々、ロケ地探しのロケハンを重ねる中。僕と山崎さんは小さな衝突をしはじめた。
 それは少しづつ決定してゆくロケ候補地を訪ねた際、監督の山崎さんがカメラマンである僕に草や木や花の風景(インサートカット)を撮影しておいて欲しいと言われ始めた時から、その衝突は始まった。
 僕はその時にその監督の山崎さんの言葉を拒否して、その草花の撮影を断った。
 それだけではなくあまつさえ、「そんなに撮りたければ自分で撮れば」と、子供じみた喧嘩口調ではねつけてしまった…
 撮影は僕の仕事(ナワバリ)である。
 そういわれて演出(役者の演技演出が担当の)、山崎さんが自分で撮る訳もないと知った上、珍しく僕は強権を発動した。
 勿論、断ったには断った理由がある…
 四季をまたぐ物語の設定上。春夏秋冬の四季をあらわす映像表現として、監督の山崎さんがインサートカットを、大量に撮っておいて欲しいというのはよく分かっていたが、実は僕はもう何年も前から、次の作品では不必要なインサートカットの挿入はしないと、個人的に決心していたのだ。
 それは山崎さんと一緒に作った、前作の編集の時。
 撮影時に撮れなかったシーンや編集時に繋がらないシーンを、いい加減にごまかそうと、大量の無人の風景のインサートカットを、不正に使用してしまった手痛い反省の、過去からの決心だった…
 自主映画の撮影・編集において、インサートカットの使用というものは善し悪しで、なんなら制作の予算上・撮影の技術上及び、ロケ当日のスケジュール上。シナリオにある。予定していたが様々な事情で撮り切れなかったカットやシーンを、その撮影時の失敗を編集時にごまかそうとして、そのシーンやカットの代用に、意味ありげな風景のインサートカットを挿入して、オフ台詞(台詞の声だけ)を映像にのせて、素知らぬ顔をして、予定していた予定通りの物語を進行させる。
 映像の演出家や制作者としてはかなりせこい手口がある。
 (嘘の映像でまるで本物のように見せる、映画という詐術の中でもそれは下の下のやり方。例えば出演者に頼み難い濡れ場のシーンで、女優さんの裸が撮れないからといって、意味ありげなインサートカットにあえぎ声をのせて、男女のセックスを描写するとか…)
 僕は今回の作品ではインサートカットの多用はなるべくそれを避けたかった。
 (今回の作品には戦後間もなくという高い設定のハードルがある…)
 もし撮影の前から自分たちに、楽なインサートの使用を許してしまったら、前作と同様、製作に困ったらインサートカット、撮影の時間がなくなったらインサートカット、インサートカット、インサートカット、インサートカットのオンパレードになる事は今から目に見えている…
 (撮影前のここで逃げる位なら、最初から別の企画・別の作品の制作に逃げて欲しかった…)

 弱い僕らはいつだって結果、すぐに逃げ出してしまう…


2006/05/11

第百四十回「プロフィール」

 無い。書く事が何も無い。
 多分この場合、受賞歴や過去に自分がどのような形でどんな作品(映画)に関わってきたのかを書くべきなのだろうが、そんなものは何も無かった。
 大阪の映像専門学校を卒業後、ほんのわずかな間、関西ローカルの深夜番組のADをしていた位で、あとは名もなき自主制作で、ひとり短編映像を作ってきただけだった。
 唯一、前回山崎さんと一緒に監督した「ワタシノ夜想曲」という長編作品が一本だけあったが、残念ながらこの作品も映像コンテスト等の、何の受賞も果たしていない。
 何という無残な僕らの映画道だろうか…。二十歳の頃から十年。映画映画と叫んできたが、文字にすれば目の前の白紙一枚を埋めるにも足りない。
 そんなわびしい事実をやはり僕は、また僕に突きつけられてしまった…
 …虚しい。
 それでも起用する役者さんの所属事務所やロケーション等の交渉先に、「僕らが何者なのか?」、提出するべく、僕と山崎さんは何とかそれらしく文章をでっち上げて、(経歴詐称はしていない、ただ無い胸を寄せて集めて、大きく見せようとしただけだ…)
 お互いの映像歴のプロフィールを半ば強引に完成させた。
 すべてはこれから作る、新作のためにである。
 ツラの皮は出来るだけぶ厚く、視線は斜め45℃、空の上にだ。
 あと紙もの以外にも、山崎さんが学生時代に作った短編作品を一本のテープにまとめて、それを過去の作品集としてプロモーションビデオの代わりにした。
 それが今の僕らに出来る精一杯の自分たちのプロフィール作りだった。
 そしてその作品集の中にもう一本くわえるため、今更何年も前に終わった旧作の、「ワタシノ夜想曲」の予告編(??)を新たに編集しなおした。

 それはもう何年も前にお蔵入りした作品の予告編だった…


2006/05/10

第百三十九回「履歴書」

 僕は履歴書を書くのが嫌いだ。
 世の中に自分の履歴書(プロフィール)を書くのが好きだという人間が、どの位いるのかは知らないが、アルバイト探しや求職の際に、その用紙に自分の履歴を書き込む時、僕は思いっきり憂鬱になる。
 理由は簡単。自分には特別に書く事が何も見当たらないからだ。
 たいした学歴も職歴も資格もない。
 唯一、持っている資格は普通免許のみという徹底した普通ぶりで、わざわざその用紙に書き込まなくても、面接の担当官に「自分は普通の人間です」と一言いえば、それですべて済んでしまう。
 それならいっそう氏名と住所・電話番号の連絡先以外は未記入の白のまま提出してやりたくなる。
 それでも学歴・職歴・資格の欄は、一応書き込める事が出来る分だけまだマシで、問題はその後の趣味や特技(!)、得意な科目といったその他の欄だ。
 特技、得意な科目?
 自慢じゃないがそんなものは一つも無い。
 ついでにいうなら賞罰の授与の経験も一切ない。
 唯一あるのはヤクザな自主映画制作という趣味だけだが、これだっていつまでも書けたものかと思う…(正直映画なんか撮っていない、書けない時期ばっかりだ)
 自分の短所なら幾らでも書けるが、他人様に報告出来るような、長所を僕は一つだって持っていない。
 平凡で凡庸で、ついでに経歴を詐称するような度胸も根性も持ち合わせていない。
 とてもつまらない、また中身の詰まっていない、空っぽな人間なのだ。
 履歴書を書く時、僕はその悲しい事実をまず自分自身に突き付けられる。
 そしてその後、その恥ずかしい事実を人様に伝えるのだから、これでは好きになりようもない。
 (それでも生活や仕事欲しさに負けて、その度に僕はまたつまらない自分のつまらない履歴書を書かなければならない。その繰り返し)
 そんな僕が何の因果か、映画製作のゆきがかり。
 自分のプロフィールの、書類を作らなければならなくなった…

 勿論、それは監督の山崎さんも一緒にである。


2006/05/09

第百三十八回「小旅行」

 初夏。例の仮チラシが刷りあがった頃、僕らは撮影のロケ地探しに力を入れていた。
 メインのロケーションである洋館は決まったものの映画にはまだまだ沢山のロケ場所が必要だった。
 特に古い昔の診療所、わらぶき屋根の家といった場所は洋館同様、そこいら辺にあるような場所ではないため、その存在を探すだけでもひと苦労だった…
 そして更にそれ以外のロケ場所(喫茶店、病院等々)も、すべて戦後間もなくの昭和二十年代に見えるという注文付きの場所である。
 簡単に見つかる場所なんて一ヶ所も無かった…
 それでも監督の山崎さんはネットからの情報を頼りに、助監督の河合さんや制作スタッフの真栄城君たちと粘りに粘って、一つずつあたりを探っていった。
 あたりをつけるととりあえず、監督の山崎さんが一人カメラを片手に現地に出かけて、山崎さんが撮って来た現地の写真を見て使えそうな場所だと判断すると、今度は僕や他のスタッフたちを引き連れて、再度ロケハンに出かけた。
 特に愛知県の明治村、岐阜県の大正村といった、僕らの映画作りの拠点であるホームグラウンドの大阪から、遠く離れた場所に遠征する時は、朝早くにスタッフたちと一緒に車で出かけて、夜には大阪に帰って来るという、ちょっとした日帰り旅行のような気分で、わいわいととても楽しかった記憶がある…(乗り物酔いをする山崎さんにはそうでもなかったのかも知れないが…)
 他にも奈良県の明日香村や、お笑いコンビ「笑い飯」のネタの中にも登場する民族資料館。京都の有名観光スポットや滋賀県のロケーションサービス。
 そして有名な神戸の異人館といった、関西周辺のレトロな景観をしらみ潰しに探して回った。
 その結果、イメージにあう場所あわない場所。
 許可がおりる場所おりない場所等々。

 様々な条件の中、ふるいにかけては折り合いのつく場所だけが候補に残った。


2006/05/08

第百三十七回「遺物」

 四天王寺というお寺の広大な敷地内にびっしりと出店されたお店をすべて見終わると、たっぷりと三時間が過ぎていた。
 外は炎天下。早い真夏日だった。
 お店の多くは衣服や装飾品、食器類や美術品、昔の雑誌やレコード・ポスターといったような趣味の品物を扱っていたが、中には少し変わった品揃えのお店もあって、戦時中の千人針や名前が書かれた日の丸のたすき掛け、尋常小学校の名簿やアルバム、古い家族のポートレート(肖像写真)。そして知らない誰かの日記帳…
 所持していた当人にしか、その価値が計れないようなモノが売り物として置かれていた。
 本来そのモノの持ち主たちによって、当人たちだけの思い出を残し、捨てられるはずだった品々である。
 今は主(あるじ)を失い、捨てられ損ねたそれらの品々が、所載なさげに店先に並んでいたのを、僕はとても不思議な気持ちで眺めた。
 一体これらの品にはどんな思い出があったのだろうか…
 他人の僕には分からない。
 辺りを見渡すとこの場所はそんなモノ(時代の遺物)で埋め尽くされていた。
 誰かの思い出…誰かの記憶…
 時代や歴史といった大きな流れの物語ではない。
 個人的で小さな物語(思い出)の一つ一つ。
 生きている人間の家とは違い、ここでは逆に思い出の持ち主である人間、その主(あるじ)が失われ、品物だけが残っている。
 僕はこの朝市が四天王寺というお寺の境内で行われている事が相応しいと思った。

 戦前から戦後にかけて、名も無き人たちの小さな物語を弔っている。

 そんな気がした…


2006/05/07

第百三十六回「勉強」

 買える買えないは別にして、その朝市には大抵のものが揃っていた。
 衣服や鞄といった、今でも使える実用品やアンティークの美術品に混じって、僕らの欲しい蓄音機や昔の形の扇風機等もあった…(ただし状態はあまり良くなかったが…)
 僕らは妥当な値段で手に入る、必要な物だけを買う事にした。
 (使えそうな物は幾らでもあったが、思いつきで集めだすとキリがなさそうだった)
 あと、僕らはこの買い出しの中である事に気づいた。
 僕らの欲しい物は確かに古い物ではあったが、劇中ではそれは現在使用中の品々で、あまりにも古くてボロボロな物は使えないという事に気がついた…(古くてなおかつ状態の良い物。新しく見える物が必要だった)
 結局、多くの品々を見た事によって、更に衣装小道具集めのハードルは上がってしまったが、僕以下、山崎さん・スタッフたちにとって、この朝市の訪問はとても良い勉強会になった。
 何だかんだといっても、みんな平成の今を生きている人間たちである。
 店先に並ぶ、多くの戦前から戦後にかけての品々を見た事によって、その中でも更に細かい時代の分類が出来るようになった。
 (それまではみんな自分が生まれる前、生まれた後と、かなり大雑把に時代分けをしていたように思う…)
 昭和四十年代。三十年代。二十年代…
 同じ戦後でも年代によって随分と生活用品やそのデザインの様式に違いがある事に気づいた。
 地理などもそうだが、人間、自分に関係のないと思っている事には、かなりいい加減な態度で接してしまう。
 偉そうにいってはいるが、僕だってついこの間までは先の戦争を日中戦争と太平洋戦争の区別もなく、大雑把に第二次世界大戦と呼んでいた…(栃木県って九州だったけ、というバラエティー番組に出てくるような無知を僕は笑えない)
 ただ教科書を眺めているだけでは人間は中々学べない。
 もうペーパーテストをする必要がなくなった今頃になって、過去の歴史や文学に興味を持ち始めたりするのだから皮肉な話である。

 僕たちの映画作りはいつだって今頃になって、真実(ほんとう)の本物の勉強をする…


2006/05/06

第百三十五回「朝市」

 それは知らなかった僕が思っていたよりもずっと大きな規模の市(いち)で、こんなに大勢一度に見た事もない数のおじいちゃんやおばあちゃんが、境内にこしらえられた巨大なマーケットを、所狭しと元気良く歩き回っていた。
 僕はまずその光景。老人たちのパワーに圧倒され、現在この国が老人社会である事を改めて認識させられ、次にまだ三十代前半の、まだまだ若僧の自分がその場所にいる事に違和感を覚えた。
 ぱっと見る限り僕らのような年代の人間は他に見当たらない…(変な話、最近洋服を買う時、十代・二十代前半の客が多い店や通りに、ある種のゆきづらさを感じるが、それと同じ感覚だった…)
 「場違いじゃねぇ?」と急に不安になった僕は、山崎さんや同行する他のスタッフたちを見たが、実は僕をのぞいて全員が、今回二度めのこの朝市への訪問らしく。場慣れした様子でお目当ての品物を探し、僕一人を置いてずんずんと先に歩いていった…
 おいてけぼりをくうまいと皆の後ろについて歩く朝市の売り場には、「昭和」が売り物のフリーマーケットお店に混じって、普通のお好み焼き屋や回転焼き等の露店や出店も立ち並び、ようは老人たちが集う、月に一度の縁日かお祭りといった雰囲気だった。
 各お店の商品のレベルも様々で、本当に個人的な物を売っているジャンクな店もあれば、古物商が出張販売しているような高価な品物の、アンティークを扱う店もあった。
 不思議なもので最初は、恐る恐るみんなの後をついてゆくだけの僕だったが、昔懐かしい品々が並ぶ通りを歩く内に、次第に自分の中にあった違和感が無くなっていった。
 辺りをよく見ると老人たちに混じって、僕らのような年代の男女や外国人の観光客とも何人もすれ違った…(どうやら僕ら以外にも物好きはいるようだ)
 歩き始めて二・三十分、僕はすっかりとその場に馴染んでしまった。

 平成より昭和。僕もそんな昭和人間の一人だった。


2006/05/05

第百三十四回「衣装小道具」

 2003年5月。
 仮チラシの完成を待ちつつ僕らはこの頃。もう一人の主役。男の響(ひびき)役を演じてくれる役者さんを探しながら、平行してすでに決定済みの配役の衣装や美術小道具。まだ未決定のロケ場所を探していた…
 僕らの映画は戦後間もなくという古い昔の時代設定上。
 今はもうこの世の中に無い、古いモノばかりを探していた為、なかなか見つからない物ばかりだった…
 (ロケーションの風景もそうだが、衣装や小道具類といった物は、その時代時代のデザインのフォルムが変わってゆく為、現行の市販品の中から探す事は困難だった…)
 先日、先行して行った仮チラシの撮影では、実験的に小夜子の衣装を服飾学校を卒業後。演劇の舞台衣装などを作っていた、助監督の河合さんのお姉さんに、オーダーメイドで頼んで一着作って貰ったが、その作る手間の時間や生地代からも考えて、やはり出来あいの古着を用意した方が、時間的にも金銭的にも無難だという結論に至った…
 (しかし古着といっても今でいうおしゃれで着る古着ではない、文字通り本当に古い衣服だ)
 普通の古着屋に行っても勿論売っていない。
 困った僕らはまず手近な所で、スタッフや友人の家、自分たちの家族や親族といった、自分たちの近辺にそれを探したが、蔵なんてない狭い現代の日本の家屋。
 置き場所に困って、いつの間にか処分し、今は現存していないとの返事がほとんどだった…
 勿論、僕自身の家も調べてみたが、引っ越しに引っ越しを重ねてきた放浪者の両親。ニューファミリーの我が家からは、そんな昔の物はとうに捨てらていた…
 この頃の僕らは失われた時代の遺物を探してはまた、それらの物にまつわる家族の物語を聞いてまわっていたような気がする…
 (進学や上京・結婚で家を出た時。新しい家族だけの新しい家に引っ越した時。祖父や祖母が死んで亡くなった時。人生のその都度その都度に思い出だけを残して、それらの品々はもう使わないと捨てられてきたそうだ…)
 僕らはそんな古びた家族や時代の物語を拾ってきてはまた集めていた。
 そんな時、制作スタッフの真栄城君から、大阪の四天王寺という場所で、月に一度、がらくた市が開催されるという情報を聞かされた。
 (それは朝市といって、老人たちの老人たちによる、いわゆる一つのフリーマーケットだった)

 昔の物探しに困っていた僕たちは、早速スタッフたちと一緒にその朝市の場所を訪ねた。


2006/05/04

第百三十三回「終戦」

 それはある日、突然の事だった…

 僕の暮らす安マンションの棲み家全体に鳩避けのネットが覆われた。
 鳩小屋のマンションに引っ越してから一年半の間。僕の生活は鳩たちとの戦いの日々でもあった。
 自作による鳩避けネットを強行突破してくる、恐れ知らずのテロリスト(鳩)たちとの戦いは、日々進化して完璧に近づく、我が鉄壁の包囲網をもってしても、完全なる終戦には至らず、月ごとに許すテロリストの侵入の回数は減っても、いまだ決着がつかぬ泥沼の膠着状態が続いていた…
 その後、平和の使者(ヒナ鳥)の誕生によって、一時的な休戦を迎える事はあったが、その使者の巣立ちによって。聖地奪回。領土死守の戦いは自主映画制作の水面下で、いまだに続いていた…
 そんなある日。マンションのエレベーターの入り口にこんな文面の貼り紙が貼られていた。
 「鳩による糞害の悪化のため、この度マンション全体に鳩避けのネットを覆わせて頂きます。つきましては五月某日ネットの取り付け工事の為…」
 それは今の今まで知らんふりしていた、マンションの管理会社による、突然の戦争介入。
 終戦の知らせだった。
 僕はそのマンションのエレベーターに貼られた貼り紙を見た時、複雑な思いで僕たちの戦争の終わりを告げる、告知文を読んだ。
 ようやくという気持ちと、今更という気持ちで、素直に喜んでいいのか分からない気がした…
 それでも…。これで部屋に帰るなりベランダを開けて、テロリストたちの存在の心配をする事もなくなり、明け方の鳴き声や羽ばねの騒音に目を醒まされる事もなくなるのだと思うと、まずはほっとひと安心した…
 そしてネットの取り付け工事の日。
 業者の人が僕の部屋のつぎはぎだらけのネット(戦いの傷痕)をはずしながら、「ここの住人も色々と自衛してたんやなぁ…。でも、(反対側のマンションに住む)、知らん人から見たら、キチガイに見えるやろなぁ…」と話す話声が聞こえた。
 部屋の中にいた僕は少しドキっとした。
 喫茶店や電車の中で人前にもはばからず、映画映画と言っては大声で議論を重ねる、知らない人たちから見れば僕たちもきっと、キチガイに見えただろうなと思った…(それでも作品のために必要だから、僕は今でも話すのを辞めない…)
 マンション全体に張られた鳩避けの防御ネットを前に、さすがのテロリストたちもなす術は無く、その後侵入経路の道は完全に絶たれた。
 こうして長きに渡った鳩と人間との争いは、人間側の完全なる勝利で終わった。

 どこか虚しい勝利だった…


2006/05/03

第百三十二回「ヒロシマ(3)」

 二十歳まで。僕は両親の暖かい庇護(ひご)の下。この町で何不自由ない少年時代を過ごした。
 それが今何故、こんなチンピラのようなその日暮らしをしているのか、僕にもよく分からない…
 (本人が分からない位なので、僕の両親の方はもっと訳が分からないだろう。誰か僕に代わって、僕の可哀想な親に説明してくれないか)
 僕の生まれ育った町は前にも書いたが、鉄鋼業が盛んだった工業都市である。
 朝鮮戦争や続くベトナム戦争でその需要が拡大する製鉄業界。
 その新しい戦争の、時代の流れ(特需)の中で、新しく建設された製鉄所に僕の父も勤めた。
 一方、我が故郷の広島はご存知の通り、先の世界大戦において、世界で初めて原子爆弾が投下された被爆都市である。
 戦後日本の平和教育の中で、僕らヒロシマの子は、おそらく他県や他の地域の子供たちよりも、核兵器の無い、戦争の無い。
 平和の尊さとは?と教えられて幼少期を育った。
 少なくとも歴史の教科書よりもリアルな実寸大の被爆体験の話はトラウマになるほど学校の先生や実際に被爆した大人たちから聞かされた…(被爆二世の先生たちも大勢いた)
 世界平和宣言都市の名前は伊達じゃないと思う。
 しかし、僕らは長じてから気がつく。
 世界平和を叫びながらその一方、よその国の戦争に荷担して僕らの町の、生活の豊かさが支えられていたという事実に…(僕の生まれ育った町は戦争で繁栄する、鉄鋼の町という環境から、よりその傾向が他の地域より顕著にあらわれていた)
 矛盾の子ヒロシマ…
 戦争の難しさとは加害者でもあり、同時に被害者でもある事にある。
 そしてまた被害者でもあり、同時に加害者でもある。
 (時には遠い傍観者でありながら、その同時に遠い当事者ともなりうる)
 世界の何処かで今日も戦争が続く限り、何者も無関係ではいられない。
 僕は自身が過ごした故郷の町にその事を教わった。
 小学生の頃、僕の両親が子供の僕にふと、「大学にいってもアカになっちゃいけないよ」と漏らした事がある。
 その時はアカ(共産主義者)という言葉の意味も、何故そんな話になったのかも分からなかったが、その言葉の持つ生々しい響きだけが幼い当時の僕の記憶に残った…(広島大学の教授か誰かが殺された殺人事件の容疑者が「学生運動の残党か?」と疑われた事件だったか?。三十年近く前の記憶なので定かではないが…)
 後々それが当時まだ残っていた、学生運動の残党が起こしたと思われる、陰惨な事件の報道を受けての母親の言葉だったと思い返したが、思い出した頃、僕はめでたくノンポリ浪人人生を送っていた…(両親が心配せずとも受験勉強が嫌いな僕は、まず大学生になれなかった)
 そしてその当時すでに下火になっていた学生運動は今や完全に鎮火し、現在は東大や京大の一部インテリ大学に、埋火(うずめび)のように焼け跡を残すだけである…(いつだって時代は文化の、巨大な忘却装置なのだ)
 その後、映画専門学校に進学した僕はアカ(共産主義者)ではなく、いつの間にかすっかり金にもならない自主映画に染まっちまった。

 政治的か?文学的か?という違いはあれど、結局アナクロには違いはない。


2006/05/02

第百三十一回「ヒロシマ(2)」

 色々と人生のイベントがあった、学生時代や二十代前半と比べると、最近は時が過ぎるのがやたらと早い。
 でも勿論それは主観的な時間で、今も昔も一年は三百六十五日。一日は二十四時間。一分は六十秒である事に何もその変わりはない。
 ただ、昨日過ぎ去った時間に、後になって特別思い出すような、印象的な出来事が自分の生活の中に、段々と少なくなってきている事だけは確かなような気がする。
 昨日は今日と同じ日。一昨日は昨日と同じ日。そのまた昨日はまた前の日と同じ…
 そうなってくると同じ三百六十五日の一年間でも、自分自身の記憶の厚みはどんどんと薄っぺらくなってくる。
 どうやらK君が実家に戻って過ごした三年間も、そんな厚みのない薄っぺらな三年間だったようだ…
 (それでも中年の僕らはちゃんと三年分、年齢を加えたおっさんヅラをぶら下げる)
 K君は高校のクラスメイトで、人生の半分以上を共にだらだらと、ぐーたらに過ごしている、貧乏友達の貧友で、久しぶりに会って話す思い出話も毎回同じなら、交わす会話の内容も毎回だいたい、「金ないわー」という甲斐性なし、ごくつぶしの二人だった…(悲しいけどこれ、事実なのよね)

 僕はいつもの調子でひと通り四方山話を済ますと、さっと手早く仮チラシの依頼も済ませた。
 デザインの打ち合わせといっても、事前に必要な素材(チラシに使う写真等の画像データ)は、すでにパソコン上でデータの受け渡しは済んでいる。
 後はメールや手紙では伝えきれない、微妙なニュアンスを伝えるだけだった。
 以心伝心。旧友のK君との打ち合わせはあっという間に終わった。
 それならばわざわざ遠い広島まで帰ってこず、ファックスや電話のやり取りで済ませればいいようなものだが、やはり直接会って話さなければ伝わらない事もある…(と僕は思う)
 引きこもりのK君や精神的にすぐ引きこもる、僕たちみたいな人間には、時として現実の人との、リアルな邂逅(かいこう)が必要なのだ。
 パソコン上で大抵何でも済ます事が出来る夢の二十一世紀…

 でも、利便性だけがすべてじゃない。


2006/05/01

第百三十回「ヒロシマ(1)」

 2003年4月末日。
 僕は実家がある広島に帰省する各駅停車の鈍行電車の中にいた。
 今回のゴールデン・ウィークの帰省は仮チラシのデザインを、故郷にいる、旧友のK君に頼むためだ。
 大阪に家出してから再び、約一年半ぶりの実家への里帰りだった…
 (一年半前。二本のシナリオと映画貯金だけを頼りに、再び山崎さんと一緒に自主映画を作るため、大阪に出戻った僕は、次に故郷に帰る時は、「作品が完成した時」と、心密かに決めてあった事を思うと、少し早い帰省になってしまった…)
 思えば今回の自主映画制作を、人生最後の夢と、その希望に胸ふくらまし、故郷広島を出発したあの日。
 山崎さんが原案の堅実な自主映画作りのシナリオを思い描いていた僕は、まさか僕が活動の名刺代わりに書いた、商業映画の長編劇映画とほとんど内容のボリュームが変わらない、夢のまた夢の、「小夜鳴鳥」の方を作る事になるとは、当時は微塵にも思っていなかった。

 ほんとうに現実とは思い通りには中々進まない…

 気が付くと我が町に近づく、各駅停車の山陽本線の車窓から、僕が映画制作の資金稼ぎに勤めていた半導体工場の姿が見えた。
 不思議なもので働いていた時はあんなに嫌で嫌で堪らなかった場所だったが、今はただただ当時が懐かしい。
 僕はその工場の建物が通り過ぎて見えなくなるまで、電車の窓から外を眺めて、その懐かしい姿を目で追った。
 実家に帰って一年半ぶりに再会した、友人のK君はまだひきこもりを続けていた。
 無責任になりたくて何かから逃げた逃避先の関東の街で、もう一度大阪に戻って山崎さんと一緒に自主映画を撮りたいと、僕の人生ゲームのふりだしの町。
 我が家がある故郷広島に戻ってから。

 もう三年の月日が流れていた…


2006/04/30

第百二十九回「気分」

 監督じゃない男の僕の言い分としては、彼女が監督の恋愛物としての作品のイメージは、チラシの表側のデザインやキャッチコピー等で充分伝わる。
 僕はせめてその仮のチラシの裏側(B面)だけでも、今回の仮チラシにはその姿が写らない、もう一人のワキ役の主人公、響の事を補足しておきたいのが、当時の僕のささやかな希望だった…
 (実際、演出をするのは監督の山崎さんだ。僕は今回の映画作りのほとんどの時間を、机の上でただ文章を書いただけ。頼みの綱の撮影本番のカメラだって、低予算の都合上、好き映像だけを撮るという訳にはいかない。演出だって彼女の希望通り、恋愛部分に絞って演出する事をすでに了承済みだ。数年先の実際、出来上がった作品の結果はどうだったのであれ。この時までは間違いなく物語の主役は、恋愛パートを担当する小夜子役と監督の山崎さんが主役の映画作りだった。僕も響と同じ影の主役。ワキ役の主人公さ…)
 戦後間もなくが物語の時代背景という、企画・脚本の制作レベルの難易度から比べて、僕らのなんとも脆弱な製作力・技術力・経験値。レベル2の勇者の卵…(もしくはタマネギ剣士)
 この時すでに原作シナリオの、「100%の仕上がり」を諦めていた共同製作者の僕は、せめて今回の仮のチラシだけでもと、企画出発のしっぽのあとを残しておきたかった…
 (この後出来上がった作品の、皮肉な結果を、この時の僕も彼女もまだ何も知らなかった…)

 未来はまだまだ僕らの手の中にあった…


2006/04/30

第百二十八回「純愛」

 まだ未完成の作品の内容を解説する、仮のチラシといえども、いや仮のチラシだからこそ、その中には今後実際に制作される、映画のイメージ(完成予想図)が凝縮される…
 同じ制作チームで、同じストーリーのシナリオを見ていても、僕と山崎さんには若干(いや、かなり)、思う所に違いがあった。
 それは物語の中においての恋愛部分の比重である。
 「小夜鳴鳥」という一風変わった物語は、ジャンル的には恋愛ファンタジーと呼ばれるタイプの物語で、女性の山崎さんは特に、その恋愛部分に惹かれて作品を作りたがっていたようだった。
 一方、原作者の男の僕としては今回恋愛物語を書いた覚えがない…
 むしろまったくその逆だ。絶対に恋愛にならない、恋愛出来ない人間として、たった一日分の記憶しか保てない、響(ひびき)という男の主人公を登場させた。 (響という名前は、今日一日だけ、打っても打っても響かない男という意味だ…)
 そんな男に恋する女の話が、大衆受けする恋愛物になる訳も無い…(世界の中心から一番程遠い、寂しい男と淋しい女の繰り返される毎日の話さ…)
 恋愛と非恋愛。
 僕はそんな男と女の微妙なさじを語れるような恋愛小説家ではないので、その辺の話は有名小説家の辻仁成先生にでもお任せしたいが、どうやらその恋愛と非恋愛の間にある、山崎さんは純愛部分を強調した、今回の仮チラシにしたいようだった。

 純愛…。僕にはさっぱり分からない…

 何をもって愛を純粋な愛と不純な愛に分けるのか?
 不純な愛とはいかなる愛か?
 そもそも愛という言葉自体、野暮な僕には分からない。
 (いつも物欲しそうな顔をして、電信柱と電信柱の間をさ迷い歩いている、野良犬の三十男に純愛なんて分かるものか。それは結婚を前提にしない養って貰わない交際の事か?それとも肉欲を持たないセックスをしない奴らの恋愛の事か?僕には分からないよ…そんな奴らの事は…)
 ただ、そんな野良犬三十男の僕だって人間に恋をする時はある。
 それが結局、叶わぬ恋だと知りつつも、人恋しい野良犬の僕はまたゆきずりに期待する…
 確かにそういった人に恋焦がれる感情を、もう一人の主人公であるヒロインの小夜子役に込めていたが、それが山崎さんがいう所の、はたして純愛なのかどうか?

 正直僕にはよく分からない…

 最初は好きな相手がそこにいて、その人を好きなだけの自分がここにいる。
 最初はただ、それだけで嬉しかったが、人はいつまでもそこにはいられない…
 やがて、人はそこから出て行かなければならなくなる…
 そしていつの日にかまた、ここに帰って来る事もあるのかも知れないと、後ろ髪を引かれながらも、嫌いにならないまま去って行く…
 好きな人を相手に失恋した事がある人なら誰でも分かる、そんな素朴な恋の感情の流れを、僕は物語の一連の流れとした。
 僕は仮チラシの解説文に、監督の山崎さんがそういったラブストーリーとしての解説を期待している事は知っていたが、あえてそうは書かなかった…
 もう一人のワキ役の主人公。感情表現に乏しい。

 男の心情を補足する文章を書きたかった。


2006/04/28

第百二十七回「合議制」

 仮チラシの図案(デザイン)が決定する前、僕は監督の山崎さんとチラシの内容で衝突した。
 (といっても、見た目の図案の事ではなく、そのチラシに載せる文章の事でだ…)
 ワリカンでお金にならない自主映画を作る、共同製作者の僕らの二人の作業分担は、基本的にビジュアル(外見)については、映像派の山崎さんが最終的な決定を下し、文章等を書く作業は(シナリオや物語以外でも)、理屈屋の僕が担当するのが長年の、二人の間の暗黙のルールだった…
 (お互いがそれぞれの作業をチェックしあって、相手の作業に大問題を感じた場合の時だけ、それをお互いに指摘しあった…)
 この場合大変困るのは、その問題の答えの正解が、どちらとも明らかに不正解とは言えない場合。
 あとは個人的な「好みの問題かな?」といった場合。
 その場合、その問題の議題がどちらの管轄に属する問題なのかを、あくまでも話し合いで決着をつけるしかないから、大きな問題が一つでも生じると、人間関係を修復する手間もあわせて軌道修正するのが大変ややこしい。
 これは営利活動を目的としない。
 純文学的で純粋な創作行為(?)である、監督絶対主義の自主映画の世界では珍しい関係だった…
 しかし、この関係は善し悪しで、創作上の可能性が広がる事もあれば、逆に狭まる事もある…
 ただ現実問題、僕も山崎さんも自主映画という卵の世界ですら、半人前同士の半端者で、二人合わせて何とか一人前を装っていた…(再三いうが現実の中に構築してこその夢物語である)
 夢ばかり見ていた学生時代のように理想論をかざしているだけでは、いつまで経っても肝心な映画は現実の中に完成しない。
 大切なのは絶えず情勢が変化する自主映画作りの現実の中で、今自分たちに最低、確実に何が出来るのかをじっと見極め続ける事なのだ…
 (輝かしい夢よりも辛い現実ばかりが見える時もある…)
 僕らの映画作りはいつだってゲリラ戦であり、正規軍じゃないパルチザンなのだ。
 竹ヤリ持って火炎瓶投げて戦車やヘリと喧嘩する。

 自爆する覚悟がなければ戦えない。


2006/04/27

第百二十六回「デザイン」

 役のモデルとなった本人が、その役の代役をつとめるという、僕にとっては最高に豪華な仮チラシ用の写真撮影も終わり、今度はその写真を中心に、仮チラシのデザインを決める事になった。
 勿論、チラシのデザインを決めるのは監督である山崎さんの仕事である。
 しかしこの時の時点では僕だけでなく、自宅暮らしの山崎さんもパソコンを持っていなかったので、昔ながらに撮った写真を拡大or縮小コピーして、その写真やワープロの文字を切り張りして、デザインの下地だけを作る。

 (映画って何?俺らは自主映画じゃけん)

 僕は商業映画の世界の事はまったく分からないが、普通映画制作・映像制作の過程において、こういった紙もののデザインは、誰か専門の業者の人にお任せするのだろうが、そこは文化祭感覚の自主映画の世界。
 経費削減。基本的に見よう見真似で何でも自分でしなければならない…(それがまた自主映画制作の楽しみの一つでもある)
 といっても僕らがこれから作ろうとする今回の作品(小夜鳴鳥)は、ちょっとだけ高級感が必要な企画だったので、さすがに仮のチラシといえども、切り張りコピーの代物ではまずいだろうと、チラシのデザインの仕上げは、誰か他の人に頼む事にした。
 僕はとっさに高校時代からの悪友で、一緒に浪人時代も過ごした、友人のK君の事を思い出した。
 (K君は大阪のデザイン専門学校に通い、その後数年間、実家がある広島に帰るまで、大阪でデザイナーの仕事を生業としていた)
 大阪では職場を転々とし、僕以上に貧乏時代が多かったK君には、多少ながら貸しが多めにあった(ように思う)
 あと僕自身も、田舎の工場を退職して再び大阪に戻って来てからの一年半の間。
 一度も実家に帰っていなかったので、K君にデザインの事を詳しく頼むついでに、久しぶりに実家に帰ってみようかと急に里心が湧いた。
 ゴールデン・ウィークの忙しい最中。

 昼と夜のバイトを両方休んだ僕は、デザインの資料とその下地原稿を抱えて、久しぶりに故郷の広島の町に戻った。


2006/04/26

第百二十五回「代役」

 ここから先は僕の推測で、本当の所は監督の山崎さんにしか分からないが、あえてその希望的推測を書くなら、どうやらこの僕にとっての素敵な偶然のトラブルは、監督の山崎さんが僕のためにあらかじめ画策した恩赦的緊急措置だったように思う…
 考えてみればその時に、とりたてて急ぎでもない、締め切りの無い仮のチラシに、スケジュールが合わなくて急きょ別人の代役を立てるというのは、道理に合わない、おかしげな話だった…
 スケジュールが合わないなら合うように撮影日をずらせば済む事である。
 確かに青崎さんとAさんは同じ似た体型で、後ろ姿のシルエットもよく似ている。
 それでも顔が違う以上、イメージモデルの仮の小夜子では、はっきりと正面から顔を写す事は出来ない…
 それでは撮れる写真のアングルやバリエーションが限られてしまうのは素人考えでも分かる…
 (映画本編の製作作業やチラシのデザインを頼む段階で、早めに写真が欲しいのは欲しかったが、それでもこの急な代役はいかにも不自然だった…)
 そしてここからは、多分だが、以前からAさんの事を気に入って、あわよくば今回の作品にも出演して貰おうと甘い考えの夢を見ていた、結局は叶う事はなかった僕の、その日一日だけの幻の小夜子役として、偶然を装って、この撮影を監督の山崎さんが企画演出したのじゃないかと、僕は当時を想像する…
 確かに僕は山崎さんには内緒に、そういった個人的な願望を持つには持っていたが、役者じゃない素人のAさんに、長芝居で台詞の多い、今回のヒロイン役の小夜子役は演技不可能だと早々に諦めていた…
 (後は台詞が一言も無い、つぐみ役ならとも思っていたが、山崎さん好みの女優さんの、細江祐子さんの登場によってそれも諦めた…)
 配役のキャスティングに関しては、演出担当の監督の山崎さんにすべて任せてある…
 だからそれは僕の胸の中にだけあった、僕個人の秘密の夢に過ぎない。
 仮チラシ用の写真撮影の日。
 僕は当初その日は、カメラをのぞかないつもりだったが、(映画撮影の本番では、監督の山崎さんがカメラをのぞけない分、こういった撮影ではそれを譲るつもりだった…)
 辛抱堪らずにAさんが扮装する、小夜子役のAさんの姿を、何枚か撮らせて貰った。
 山崎さんは撮影の目的上、Aさんだとはその顔がはっきりと識別がつかないよう、横顔や後ろ姿を中心にぼやかして写真を撮っていたが、僕は構わずに正面からAさんをパチパチと撮った。
 勿論、僕が撮ったその写真は、仮チラシには使えない物だったが、僕はその写真を今でも大事にアルバムの中に閉まっている。

 僕にとっては一日限りの夢の出来事である…


2006/04/24

第百二十四回「仮チラシ(三人めの小夜子)」

 「戦後間もなく」という、あまりにもアマチュアにはハードルが高すぎる時代設定で、製作作業が順調に遅れる、僕らの映画作りの日々の中。
 ある日突然、監督の山崎さんが、まだ撮影も始まっていない映画のチラシを作ろうと、僕に提案してきた…
 僕は普通、自主映画のチラシは作品を完成させてから作るものだと思い込んでいたので、急な彼女の提案を不思議に思ったが、どうやら製作作業の中で、「何故、戦後間もなくが時代設定なのか?」と問われる事が多く、制作班のリーダーの山崎さんとしては、そのよくある質問にいちいち答えるのが面倒なので、製作作業用のプレゼントシートが一枚欲しいという話だった…
 なるほど…。確かに行く先々でその質問に答える事はかなり面倒くさい。
 その事も含め、企画意図やビジュアルイメージ(作品の完成予想図)を一枚にまとめた、製作作業用の仮チラシを作るのは、とてもいいアイディアだなと素直に了承した。
 無論、この時点では主人公の響役はまだ配役が未定だったので、チラシはもう一人の主人公。
 ヒロイン役の小夜子役(青崎裕美さん)と洋館のイメージで作る事になる。
 登場人物の衣装やチラシに載せる写真等の、作品のビジュアルイメージに関しては、監督の山崎さんに一任していたので、僕はチラシに載せる解説文だけを考えた…
 それから何日かして、あとは例の洋館で小夜子役のイメージ写真を撮影するだけになったが、何故か、洋館を借りた撮影日と、小夜子役の女優の青崎裕美さんとのスケジュールが合わなくて、その日は急きょ撮影モデルの代役を立てて、イメージショットの写真撮影をする事になった…
 (この辺りのいきさつを僕はよく知らない…)
 そして、仮チラシのイメージショットの、急きょヒロイン役の青崎さんの代役を立てなければならなくなった僕らは、以前僕らが映像専門学校で働いていた時に、夏の合宿地で作った、「座敷童子のお子様ランチ」という短編作品に出演してくれたAさんという女の人に撮影モデルを頼む事にした…
 (そういえばあの時も、最初に予定していた配役の学生が、その夏合宿に不参加になって、急きょその代役を引き受けてくれたのがAさんだった…)
 実はこのAさんこそが僕が書いた小夜鳴鳥という物語の、主人公であるヒロイン役の。

 小夜子役のモデルとなったもう一人の人物だった。


2006/04/23

第百二十三回「モデル」

 「小夜鳴鳥」の物語の主人公の一人、ヒロインの小夜子役には二人のモデルがいる。
 一人は往年の銀幕女優の高峰秀子さんで、そもそも昭和四十年代生まれの僕が、わざわざ戦後間もなくという、まだ生まれてもいない時代設定の物語を書くきっかけになったのは、彼女が主演した「二十四の瞳」という映画に出会ったからである。
 知っている人は知っていると思うが、この日本映画の名作の中で高峰秀子さんは瀬戸内海に浮かぶ小豆島の、小さな分教場の女先生役を演じている。
 物語は戦前から戦中・戦後と、その女先生と分教場の教え子たちとの、「戦争という時代を駆けた」、心の交流を描いた感動作で、詳しい内容の説明はここでは省くが、日本人なら涙なくしては見られない日本映画屈指の大感動作である…(ハンカチのご用意を)
 僕はその映画を観て、スクリーンの中の女先生役を演ずる高峰秀子さんに、恥ずかしながら恋をしてしまった。
 僕は普段、TVドラマや映画作品を観て、その中の登場人物を好きになったりはしない。
 どちらかといえば作品主義というか、映像や物語全体をふかんしては、ああだ、こうだと偉そうに批評家ぶって分析をする、別の意味でイヤらしい客(オタク)である。
 しかし何故か、この時ばかりは高峰さん演ずる女先生役にすんなり一目惚れしてしまった…(何故だろう…映画を見ている最中、何でもないシーンでも涙が止まらなかった…)
 多分僕はこの時、高峰さんの純情可憐な容姿以上に、その女先生役の役柄の中に潜む、戦前の日本人女性の美徳や気品に惚れてしまったのだろう…(若い人は馬鹿にするが冬のソナタを観て、ヨン様や韓流スターを追っかける、おばさまたちの気持ちが少し分かる…)
 この何十年も前の白黒映画の中の、登場人物に対する遅れてきた恋心を、僕はどう表現すれば良いのだろう?
 (今となっては追っかける事も叶わない…)
 やり場のない想いに困ってしまった僕は、いつか自分が描く物語の中に、せめてその女先生のようなヒロインを是非登場させようと思った…

 それは僕から高峰秀子さんに出す、数十年遅れのファンレターでもある。


2006/04/22

第百二十二回「ミーティング」

 この頃僕らはスタッフ会議(ミーティング)と称しては、月に一度のペースで安居酒屋に集まって、製作作業の経過報告の報告会を行っていた。
 それは遅々として中々進まぬ、映画制作の状態を配慮して、監督の山崎さんがスタッフ各員のモチベーション維持を目的にした集会だった。
 スタッフみんなで集まって、映画制作の製作状況の話と、それが終われば世間話をするだけの軽い例会だったが、このスタッフミーティングの集まりこそ、僕と監督の山崎さんとの対立が発露する場所。
 二人の喧嘩の温床の場となった…
 人間、一対一では平気な事でも、みんなの前で改めて言われたりすると腹が立つ事もある…
 (そして悲しいかな、人間は三人以上集まると政治というものが生まれる…)
 特にこのミーティングでは、人集め物集めの製作作業の話がメイン項目になるため、製作作業に追われるあまり、ついつい置き去りにされる演出の不勉強が心配になった僕は、その不安をスタッフの皆の前でぶちまけてしまう事が多発して、監督の山崎さんの監督としての威厳やプライドを傷つけてしまい、それが僕らの喧嘩の原因の大部分だった…
 僕自身それは常々感じていたので、僕は監督の山崎さんに正直に、「ミーティングには参加したくない」と彼女に話したが、スタッフのメンタル強化とその維持が目的の会合に、作品の責任者の一人が不参加では困ると至極当然な正論でしりぞけられた…
 僕は何回か集会を重ねる内に学習して、ミーティング中、あまり余計な事は喋らないようにしたが、今度は段々とそのだんまり地蔵の姿勢が苦痛になってきた…(ただ黙って居るだけなら道端のお地蔵様と同じだ…)
 あと僕は、度々山崎さんがミーティングの最中突発的に、まだ事前に話し合いの解決がついていない問題を、スタッフの前で解決したように発表してしまうのが不満だった…(本人は多分会話の流れの中で、何の気なしに話してしまっていたのだろうが、山崎さんが監督という名前の立場である以上、監督絶対主義の映画の世界では、当然スタッフはそれを結果発表として聞いてしまう…)
 その度に僕は、「ちょっと待った。その話聞いてないよ」と、ダチョウ倶楽部になって、また二人の喧嘩の原因になってしまう、対立の連鎖が続いた(…)

 そんなある日、監督の山崎さんが、スタッフ全員を集めて、「シナリオの読み合わせ」をしたいと脚本を書いた張本人の僕にも言ってきたが、僕はスタッフの一人、カメラマンとして参加しなければならない、その会の参加を断った(…)
 その集まりでうっかり余計な一言を言えば、今まで以上の大喧嘩になる事は目に見えていた…
 確かに僕はスタッフの一人だけど、彼女の下につくスタッフじゃない…
 だからといって確かに、今回の布陣では、共同監督でもない、酷く微妙な立ち回りの立場だ…(鳥類でもない哺乳類でもない蝙蝠のような影の男だ)

 役者演技の演出の事は、監督の山崎さんに任せた以上、僕としてはこれ以上、スタッフの皆に何も言う事は出来やしない(…)

 僕がそう言うと、監督の山崎さんは、今回の「シナリオの読み合わせ」の、不参加を了承してくれた…


2006/04/22

第百二十一回「対立(マイナスの表現)」

 二十代後半から三十代前半のフリーターの僕らが、自主制作とはいえど「映画を作りたい!」というのは夢の話である。
 夢見がちな現実認識が出来ないピーターパンな大人が、ああだこうだと言っては理想ばかりを語っている(騙っている)のだから、周囲の人間たちから見れば、さぞ滑稽で気味が悪い存在だったと思う…
 しかし人生とは不思議なもので、その夢の中に逃避して生きているからこそ、時として堅実な現実生活を生きている人たち以上に、リアルな現実というものに否が応でも、向き合わなければならなくなる。
 (現実とは実は何でもありの、酷くデタラメな正体である事に気付く)

 今思えばこのあたりから僕らの夢の映画作りは一つまた一つと、理想の映画を道端に捨ててゆく事になった…

 それは夢見る夢の子供の僕たちにとって、とても辛いリアルな現実であったが、裏をかえせば確かに、この不確かな現実の世界に、僕らの自主映画が少しづつ形を成してゆく経過でもあった…
 僕は口先ばかり立派で(理想を騙るばかりで)、何もしない何も出来ない自分たちというのは、もう二度と御免だった…
 どんなにグスグズで最低な内容の映画でも、それがもし現実に出来上がるなら。
 どんなに最高で夢のような素晴らしい映画でも、現実の中に出来上がらなかったら。
 それは比べるまでもない…

 僕も山崎さんも夢見る頃は、もうとっくに過ぎている年齢だった。

 現実問題どんなに頑張ってみても、主人公の部屋の中を充分に、美術小道具を揃えられず、演劇の舞台公演のように点々としか並べられないのなら、僕らはそのマイナスを逆手にとって、舞台的な広い映画の絵を作り、その広い絵の中で役者さんたちに時間をかけて、たっぷりと演技をして貰う実験的な演出プランを考えた…(やはりそれはいつもの僕らの実験映画だったのかも知れない…)

 それは撮影のカメラを担当するカメラマンの僕にとっても、監督の山崎さんにとっても、かつての理想の映画(小夜鳴鳥)の、理想の映像(絵)ではなかったかも知れないが、映画全体のトータルバランスを考えず、自分たちが撮りたい夢の映像(ワンカット)だけを撮って、後は編集時に編集の小技で、小手先でごまかす、前作のようなやり方はもう賛成出来なかった…
 元々、物語を物語るよりも、カメラの目の前にある物をじっくりと撮りたい、映像作家としての資質が強かった、特に監督の山崎さんにとっては、これは一か八か、苦渋の賭けだった…(物語全体を取るか、自分たちが撮りたい映像を取るか、二つとも撮るのが普通のプロの劇映画だが、僕らはやはりただのアマチュアだ。長編ファンタジー映画の小夜鳴鳥の撮影を諦めて、別の自主映画らしい自主映画を作るのもまた選択の一つだ。さぁ、どうする?)

 どうにか物語世界のシチュエーション(舞台背景)だけを、演劇のかきわりのように作って、あとは役を演じる役者の演技力と監督の山崎さんの演出力に僕らの映画を託すと、僕は僕の好きな趣味の映像は捨てた(…)
 同時に映画全体の運命を託された、演出家の山崎さんにとって、これは凄い監督のプレッシャーになったと思う…
 (僕らの映画の成功・不成功のすべてが、自分の演出家としての演出力にすべて託されたのである…。それがどんなに重荷になった事か。もしそれが僕だったらとてもじゃないが、プレッシャーに耐えられそうにない…)
 しかしこんな風に冷静に、後々考えられるようになったのは、随分と後になっての事で、この時の僕の心境は好きな映像と楽しい編集を彼女に奪われてゆくような、酷く複雑な心境だった…(でも、アンタは好きな物語を書いたんだろ?それがアンタの取り分さ。引っ込んでろよ…)

 このあたりから自主映画制作を楽しみたい僕と、無理をしてでもどうしても、「小夜鳴鳥」を作りたい監督の山崎さんとの、人間的な対立は徐々に段々と激しくなって行った…


2006/04/21

第百二十回「演出(工夫する心)」

 知人や友人。親戚や家族。それこそネットを使ったりして色々探し回っては見たものの、家具や調度品、大道具小道具不足の決定的な解決方法は見当たらなかった…
 (人づてにたどって、一品一品地道に揃えるしか方法は無かった…)
 本物の洋館にはまた、本物のレトロでアンティークな家具や道具が必要となる…(あからさまな偽物のフェイクでは全体のバランス、釣り合いが取れない…)
 それでも監督の山崎さんは頑張って粘って、画面の設定上、必要最低限度な家具や小道具を何とか揃えた…(どうしても借りられなかった主人公のベッドだけは、山崎さんが映画の予算とは別に、自腹で買って、撮影が終わった今現在は自宅の自分の部屋に持ち帰り、自分のベッドとして使用している)
 しかしそれは本当に、最低限度必要な家具や調度品だけで、あの広い洋館の部屋をぎっしりと埋めるには不充分だった。
 (映画の絵として部屋を作ってゆくには演出が必要だった…)
 実際に人が住んでいる家や映画のセットハウスのように撮影するには家具や調度品、生活用品の数があまりにも足りない。
 どんなに頑張って、家具や小道具を集めた所で、僕らの製作能力の限界では、精々演劇公演のまるで舞台のように、テーブルと椅子をぽつんぽつんと並べて終わりだった。
 これは映像を撮る上ではかなり厳しい制約となる。
 舞台は役者の演技力で舞台上に無い物まで、観客の想像力で見せる芸能だ。しかし一方、映画や映像は同じように役者が芝居をして、物語を物語るが、カメラの前に実際に物を置かなければ、当然カメラには何も映らない…(逆をかえせばカメラの前に物さえおけば、なんとなく映画が撮れたりもする…)
 予算が少ないから画面がチープになるのは自主映画の常(つね)だが、今回のような嘘八百の設定のファンタジー作品で、それは困る…(お話の設定が嘘丸出しな以上、映像の説得力が重要になる)
 低予算だからと言って言い訳をしてまで自主映画を作る必然性が僕たちのどこにある…
 やる以上は高い完成度を目指さなければならない…(当たり前だ。僕らはもう学生じゃないんだ。だからといってプロでもない。挑戦するアマチュアなんだ。ふざけて誰が自主映画なんて作るか。出来もしない事に挑戦する、愚かな騎士のドンキホーテだ)
 どうせ自分たちだけのお金で作るんだ、失敗を恐れていては何も始まらない。 でも現実問題、普通に撮り切れる予算もない…(それも当たり前だ。僕らアマチュアごときに簡単に、たったの三・四百万円のはした金で、時代物の長編ファンタジー映画が作り切れるぐらいなら、何で何億円も予算がかかるのさ)
 普通なら絶対に不可能な事をするなら、撮り方の演出を工夫するしかない…
 (考えろ、考えるんだ、考えるのを止めたなら、プロの映画の足元にも及ばない、僕らの自主映画作品が例え無事に出来上がったとしても、今度は作品が存在する意味がない…)

 考えろ!

 それが自主映画の演出家だ。

 シナリオの通り、最初から最後まで長尺の物語を完成させるには、何か特別なアイディア(演出)が必要だった…

2006/04/20

第百十九回「現実の部屋」

 洋館のあるI市からいつもの梅田の街に帰って来て、山崎さんにロケーション(風景)の感想を求められた僕はひどく困ってしまった。
 洋館は思ったよりも悪くはなかった、いや、正直思っていたよりもずっと良かった…
 正直、僕自身のイメージは響の部屋は華やかな洋館等ではなく、企画の原点である、現代によみがえるサナトリウム文学(療養所文学)の「病室のような部屋」のイメージだったが、実際に洋館をこの目でみてみて、この路線もアリかなと思えた…
 (シナリオの設定では響の生まれた家と、今住んでいる部屋は違う場所だったが、予算的にも時間的にも、二つの場所を探し出しロケする事は大変な困難な事であったが、この場所なら一ヶ所にその設定を統一してもいい…)
 ただ、監督の山崎さんの思い通りに事が進んでゆくのが、ちょっぴり悔しかった僕は、「響(主人公)ってお金持ちやねんなぁ?」と、わざと素っ気ない感想を述べた。
 (長年の付き合いでつまりそれは僕がOKした事だと了解した監督の山崎さんは、得意満面に笑みを浮かべて、「そうなんよ、お金持ちなんよ」と僕の皮肉に応えた。

 これでこの場所に決定だった…

 しかしこの「響の部屋」の決定によって、今後の問題は山積みとなった。
 撮影の(作品の)、基本となるメインロケーションは決まったが、その部屋の中身は家具も調度品も何も無い、まだ空っぽの部屋だった…
 洋館のすべての部屋の中には、家具や調度品の類いはほとんどなく、映画のロケをするにあたって、その部屋の中身をすべて自分たちの自前で、用意しなければならない。
 いくら登場人物の設定が、あまり生活感のない人物像だったとしても、映画の絵として、最低限度の家具や調度品は必要となる…
 (これが時代物の設定の作品ではなく、普通の現代劇の作品なら、自宅やスタッフ、関係者の家から、ありったけ借りれるだけの家具や小道具を借りてきて、映画のロケが出来るのだが、今から僕らが作ろうとする自主映画には、戦後間もなくという、時代設定の高い壁があった…
 (その内容からレトロでアンティークな家具や小道具が数多く沢山必要)
 しかもあの、洋館の場所と釣り合う家具や調度品となると、貸し道具屋にレンタル代を払って、まともな方法で揃えるなら、僕らの自主映画の制作費は一瞬にしてすべて消えてしまう…(それでもまだまだその桁は足りない)
 アマチュア素人製作の、時代物の映像制作の難しさはまさにこの部分にある。
 誰にどんなに頭を下げても、無い物は無いのだ…(業者や蒐集家から本物のアンティークを借りるにしても、その保険代だけで数百万はかかる)
 逆さにして振ったって、今の僕らにそんな予算は無い…
 (ピンチがチャンスの始まりなら、チャンスもまたピンチの始まりだった…)

 さぁ、困った…


2006/04/19

第百十八回「空っぽの部屋」

 年が明けた一月の末日。
 僕は監督の山崎さんに連れられて、ロケ地候補地の洋館を訪れた。
 大阪の下町というのか、住宅街の中にその不釣り合いな建物はぽつんとあった。
 こんな普通の住宅街に広い洋館があるというのもかなり不思議だったが、その建物はさらに不思議な構造の建物だった。
 (前にも書いたがその屋敷の半分は洋室で、もう半分は畳敷きの和室だった)
 事前に監督の山崎さんからロケハンの写真を見せて貰っていたので、一部屋一部屋の見た目は知っていたが、実際にその場所に立ってみると、やはり奇妙な気分になった。
 山崎さんが切り撮った平面の写真の風景とは違って、立体的に立っているこちら側とあちら側の建物の様式が違う。
 和と洋の境界線がある。
 変な言い方だが、何だか本当に本物の、映画のセットハウスの中にいるような気がした…
 元々はとある財産家の別宅だったそうだが、一体その主(あるじ)はどんな気持ちでこんなリバーシブルな別荘を建てて、どんな風に現実と夢を行ったり来たりしていたのだろうか…
 そんな事をぼんやりと考えながら、僕は山崎さんの後をついてまわった。
 山崎さんは僕を案内(ガイド)しながら、自分の中の構想を、(この部屋はこのシーンに使おうとか、あの部屋はあのシーンにいいんじゃないかとか)
 僕に色々と話しかけてくれていたようだったが、その不思議な洋館の雰囲気にあてられた僕は、山崎さんの話を聞いているような、聞いていないような、山崎さんのガイド(案内)を無感動に聞き流していた…
 こんな夢のような建物の中に一人暮らしている、主人公(響)の生活とその胸中は、一体どんなものなんだろうか…
 この時、僕はすっかりと物語の世界の中に感情移入して没頭していた。
 小一時間程、洋館の内部を見学した僕たちは、その不思議な洋館を後にした。
 真昼の夢のような非現実的な空間を去って、生活感あふれる現実的な下町を歩きながら、僕はさっきまで自分もいた、映画の登場人物の部屋になる、空っぽの部屋の事を思い出した。

 真冬の昼下がり、僕は酷く寂しい気持ちになった…


2006/04/17

第百十七回「林檎の唄(歌舞伎町の女王)」

 オーディション当日には以前と同じだった黒髪が、金色の茶髪になり、化粧もかなり濃くなって、短い期間にかなり体重も増えたようだった…
 日々、容姿が変わってゆくのは生きている証拠だが、正直この日のNさんは健康的とは言えなかった…(何かやさぐれた感じがした…)
 Nさんと合流した僕らは待ち合わせ場所の近くにある喫茶店に入った。
 (そういえば前の作品を作っている時も、Nさんや他の出演者たちと、この場所のこの喫茶店に立ち寄った記憶がある…)
 とつとつと話すNさんの様子はどうやら最近の自分の人生に酷く疲れているようだった。
 実はオーディションのアンケートにも専門学校を卒業後、僕らと別れてから少しだけ鬱病を患ったと書かれていた(…)
 思春期の頃からずっと続く、万年軽い鬱(うつ)の僕にはそれは常態で、かえってその症状の辛さがどんなものなのかはよくは分からないが、僕が知ってるNさんは活発で明るい関西の女の子だった…
 前作の完成後、Nさんと会う事がなくなってから数年…
 その間にNさんの身に何が起こったのか、僕は何も知らない…
 知らないが今のNさんが何か自分自身に、自信を失っている事だけはよく分かった…
 何故ならそれはほんの少し前の僕自身の姿でもあった…(目の前の目的を見失って、酒を飲んでは中島みゆきの歌ばかりを聴いていた頃。きっと僕も今のNさんのような伏せ目がちな仕草や後ろ向きな言動をとっていたように思う…)
 僕たちは、僕たち自身の今の状況や、僕たちが知る前作の共演者たちの近況をNさんに話した。
 僕はその時そっとNさんに、「今は(唄を)歌ってないの?」と聞くと、Nさんは目を伏せて「歌ってない」とだけ答えた…
 Nさんはその後ぽつり、「駄目なのは、自分だけだなぁ…」とつぶやいた。
 (ああ、やっぱり…どうして僕たちのような人間はすぐにこうなってしまうのだろうか…)
 僕たちは映画が好きで、Nさんは歌が好きで、唄を歌っていただけなのに、いつの間にかその好きな事が、歌わなくなった自分を責め始める…
 初めは絵や写真、音楽や映画、物語が好きなだけの子供だったのに、いつの間にかそれだけでは“そこ”にいられなくなる…
 それが大人になるという事ならなんて悲しくてやり切れない事なのか…
 僕はNさんが専門学校を卒業した後、その後数年間をどんな風に暮らしたのか僕は分からないが、(知らないが…)、もしあの頃と変わってしまった今の自分自身を嘆いているなら、人間は変わるものだと話した。
 そして人間はいつでも変われるものだとも付け足した…
 (僕はこの時身勝手にNさんの人生に、万年自主映画浪人のさえない自分の人生を重ね合わせていた)
 それはいつもの僕の悪い癖だったが、同じ青春の後先の…。青春ノイローゼに悩んでいると思われる、この時のNさんに僕は何か一言を伝えずにはいられなかった…

 (多分、みんな同じなんだよ…)

 僕はふと、前作の打ち上げの二次会のカラオケで、Nさんが得意な椎名林檎の唄を歌っている姿を思い出した…
 前作でNさんは主人公の友人役のワキ役だったが、そのカラオケでは間違いなく、Nさんが主役だった…
 訓練された見事な声量で「歌舞伎町の女王」を歌い上げる、Nさんの唄に僕も山崎さんも他のスタッフや出演者たちもみんな、「さすが」と聴き惚れていた…
 (それは今でも忘れられない映画作りの思い出の一つである…)
 この日はそこまででNさんとは別れて、後日また詳しい役柄等を連絡する事になった…
 それから数ヶ月間、僕らは撮影準備に忙しく追われ、ようやく撮影のメドがたった頃、Nさんとの連絡が途絶えて、再び音信不通になった…

 数年後、ようやく完成した僕らの新しい映画の中にNさんの姿は無い…

 僕は今でもTVや街角で、椎名林檎さんの唄を聴くと、Nさんとあの日の事を思い出す…(ちょっぴりと苦く)

 そして、これからもずっと…


2006/04/17

第百十六回「通知」

 ヒロインの小夜子役を正式に青崎裕美さんに頼む事に決めた僕らは、もう一度改めてオーディション参加者に、その結果を伝えていった…

 鈴木紗理奈似の星さんには小夜子の妹役の千代子役を。
 僕たちの母校である映像専門学校の後輩のKさんには、役者ではなく制作スタッフとしての協力を。
 そして…、青崎さんと最後の最後まで競った細江祐子さんには、出番こそは少ないが、作中で非常に重要な役割どころになる、つぐみ役をお願いする事にした…
 僕はオーディションというものに参加した事がないし、勿論これまで開いた事もない…
 こういう風に受けた役と違う役を頼んだりする事は失礼にあたるのか?
 この世界の慣例はよく分からないが、三人とも嫌な顔は見せずに、僕たちの身勝手な要望を聞き入れてくれた…
 そして最後に一人、僕らは前作の出演者であったNさんに会った…
 出来上がっていたシナリオの中には、Nさんの年格好に合うような役柄は無かったが、やはりなんらかの形で今回の作品にも参加して貰いたかった僕たちは、急きょNさんに似合うような新しい役を、特別に一役作る事にした…(僕は歌の上手なNさんにはやはり、戦後歌謡の唄を歌う唄歌いの役でもと気軽に考えていた…)
 オーディションから数ヶ月後…
 僕たちはその事を伝えようと再びNさんと会って話をした。

 当日、待ち合わせの場所には、オーディションの日からかなり姿が変わったNさんが居た…


2006/04/16

第百十五回「決定」

 響の部屋…

 撮影のメインロケーションが見つかった以上、もう迷っている暇はなかった。
 オーディションの日以来、保留にしていたヒロイン(小夜子役)の配役の事である。
 長芝居が出来る舞台女優の青崎裕美さんなのか?映像出身の細江祐子さんなのか?
 今ここではっきりとその答えを出さなければならなかった。
 勿論、最終的にその答えを出すのは監督の山崎さんであって(映画監督とは映画作りの様々な局面において、複数ある選択肢の中から最終的にその答えを「決める人」だ。決して芸術家という意味では無い…)
 隣に立つ僕はその監督の山崎さんの出す、答えを待っているだけ(…)
 当時の山崎さんにすればきっと二人の異性から同時に告白されて、どっちと付き合おうかと迷っている状態だった思う…(ただ、恋愛事と違って決して二股交際は許されない…)
 港港の行く先々で小さな恋をしては結局いつもあっさりとフラれる、映画「男はつらいよ」を地でいく、僕みたいな人間には分からない悩みだ。
 今回は前作とは違い、山崎さん一人が監督である以上、最終的には山崎さんがその答えを出さなければならない。
 (今回は今までと違って素人出演者の人を無理矢理撮影モデルに見立てた、映像作りじゃない。アマチュア作品ながら演技者と格闘する、劇映画を作りたい。だから出演者が僕と山崎、どちらの言葉を聞けばいいのか迷わないように、彼女一人を監督にした。前回のように一つの席に、今回は二人は座れない…)

 では改めて、監督じゃない、ほぼ同額の製作費を出資する、共同製作者の僕はといえば今回は「物語の原作者」「作家」である。

 ただ、とてもややこしいのは、職業じゃない(商売じゃない)、趣味の映画作りの自主映画の世界で、「映画監督」と「作家」はイコールである事が多い…

 そして周りの世間の人たちもまた、「売れない自主映画の監督」は、せめて「思想家の作家」である事を望む(…)

 (ついでに言えば30歳を越えて、「自主映画を作ってます」と言う僕は、「ああ、監督さんですか?」と、好きな女の人や世間の人に100%そう尋ねられる…)

 (後々、僕と彼女のこの関係が「ある一匹の怪物」を生むのだが、それもまた随分と先の未来の話だ…。今はこの映画作りの過去の、現在に戻る…)


 前回の前作(ワタシノ夜想曲)の時のように、二人仲良くのんきに自主映画作りを楽しみたい、当時の僕の希望に反して、アマチュアの僕らにはあまりにハードルが高い「小夜鳴鳥」に、僕ら二人の映画作りの、撮影企画が変わった時から、作家じゃない映画監督の、山崎さんがすべき事はこの「小夜鳴鳥」というシナリオの、枠組みの中のすべての決定で、いうなればそれは映画という工事の現場監督だった…
 (自分が企画原案の、自分が作家監督の、地味な自主映画企画を蹴ったのもまた、山崎さんという自分だ…)

 自分、自分、自分…

 自分が主(あるじ)の自主映画の世界で、一番大事なのはお金じゃない、数値化出来ない、この自主性という名の「自由」だ…

 すべては自分で決めて自分でする、協力者もまた彼女(彼の)の、その自主性の強い「意思を持つ者」の魅力に惹かれて協力をするカリスマ…

 (この時のカリスマは間違いなく映画監督の彼女の方に居た…)

 その僕らの映画制作のカリスマであった、監督の山崎さんが下した判断は、今回の映画のヒロイン役(小夜子役)は、長芝居にたけた舞台女優の青崎裕美さんと決定した…


 この時、監督の彼女が下した判断を僕は絶対にそう信じる…


2006/04/15

第百十四回「洋館」

 監督の山崎さんがある場所からロケハンから帰って来た日…

 彼女は一人、興奮していた。

 インターネットで関西周辺の洋館を検索した結果、彼女は大阪のI市にある一つの洋館に着目し、一人ロケハンに行った…
 その洋館は神戸の異人館のような人気観光スポットでこそなかったが、そこもまた建築資料(文化財)として一般公開している、地域が管理するマイナーな場所で、名前は「愛らんどハウス」…
 元は戦前に建てられた財産家の別宅という、まさに山崎さんが「小夜鳴鳥」の舞台。主人公、響の部屋とイメージする正真正銘。本物の洋館だった…
 彼女がその洋館と運命的な出会いを果たした日、僕はのんきにアルバイトに行っていて、現物の建物もその写真も、まだ見ていなかったので、(当時はまだデジカメではなく普通のカメラをロケハンに使用していた…)
 一人興奮する山崎さんの話を僕は半信半疑に聞いた…
 もし仮にその場所がイメージ通りの場所であったとしても、その洋館でたかが自主映画の撮影が、可能かどうかは分からない…
 結局また、いつものぬか喜びに終わってしまうのではないかと正直に思った。
 そして何より自分が書いた物語とはいえ、あまりに自分たちの制作能力とかけ離れた、自主映画「小夜鳴鳥」の撮影に反対派の僕としては、そんな場所はあっては困る、あってはならない場所だった…
 後日、そのロケハンの現像された洋館の写真を見せられた僕は、内心複雑だった…
 確かに監督の山崎さんがイメージする、立派なお屋敷の広い洋館で、ご丁寧な事に古い日本家屋まで横づけされた(リバーシブルというのか…)
 和洋折衷。僕らの映画のロケ地にはぴったりな場所だった…(一定額を払えば僕らのような一般人でも借りれる。リーズナブルな貸しスペースでもあった…)
 「小夜鳴鳥」の製作作業の最大の難所であった、「響の部屋」を発見した当時の山崎さんは意気揚々だった。
 僕はもう、「やるしかないかも…」と急に不安になった。


 この日から僕と彼女の、二人のほんとうの戦いが始まった…




2006/04/15

第百十三回「響の部屋」

 昔、消え去った療養所文学(サナトリウム文学)を現代に復活させるという物語の設定上。
 主人公の響(ひびき)の部屋には、看護婦ともメイドともつかない介護婦の、ヒロインと主人公との広い絵の2ショット…
 ロングショットの撮影を可能とする部屋の広さがいる…
 (雇用する側と雇用される側の二人の関係性には当然他人同士の離れた距離感が必要…)

 これから撮影しようとしている映画は、主人公二人が恋人同士ではない…

 二人が狭い部屋で一つの絵に、べったりひっつくと映画の内容が変わってしまう。
 (四畳半のアパートやワンルームマンションの、同棲カップルの話なら良かったのに…)

 僕は最初物語を、企画の思いつきである、現代に甦った療養所(サナトリウム)文学のイメージで全体を考えていたので、「病院の病室のような場所」と「響の部屋」を考えていたが、女性監督の山崎さんには別のイメージがあったようだった…
 色々、話を総合すると監督のイメージは外国の屋敷。洋館のような場所だった。

 (女の人はいつだって自分を遠い世界から迎えに来てくれる王子様が好きなのさ…)

 関西の有名な洋館といえば神戸の異人館があるが、当然人気観光スポットで自主映画のロケは不可能である。
 それ以外にも京都や他の地域にも洋館らしき、お金持ちの住む家はあるにはあるが、そこで暮らしている人間を押し退けて、僕らの自主映画を撮影するのは、現実的なプランじゃない、不可能な世迷い事だった…
 自宅住まいの山崎さんが製作指揮する、「小夜鳴鳥」の製作作業は早くも手詰まりの状態が続いた…

 (実はそれこそが「小夜鳴鳥」の撮影に反対派だった、当時の僕の狙いだった…)

 僕は急きょ企画変更してから一年間、シナリオの内容を一切変えないという、最初に提示した厳しい条件を盾に、山崎さんが根をあげる日を待ってたのである…
 そしてこの「響の部屋探し」こそが、素人製作の最大の難関であり、ギブアップを宣言するなら、この場所だと予想していた…

 「小夜鳴鳥」を作りたい山崎さんには絶体絶命…

 「小夜鳴鳥」の撮影を中止したい僕には企画変更の絶好のチャンスだった…


2006/04/14

第百十二回「難所」

 さかのぼる事ちょうど一年前…

 当時決まっていた別の自主映画らしい自主映画企画を蹴って、急きょその制作が始まった、僕らの映画「小夜鳴鳥」は、その製作作業の開始から約一年が経って、ようやくその下準備を終えて、役者集めの出演者オーディションを開催したり、本格的に制作開始となったが、実のところ肝心な事はほとんど何も決まっていないままだった…

 特に主役の一人の男性役の響(ひびき)役と、もう一つ影の主役。
 メインロケーションの「響の部屋」が、まったく未決定のまま、何のアテさえもなかった…
 物語のもう一人の主役、ヒロインの小夜子役は「青崎さんか?細江さんか?」と日々悩まされている事を考えると、需要と供給のアンバランス。偏りがあった。
 しかしこの危機的状況は今に始まった事ではない…
 これこそが僕が最初に、ハードルの高い「小夜鳴鳥」の制作を反対したほとんどの理由であり、予想された危機だった…
 響(ひびき)役とその豪奢な部屋を見つけるという事こそ、この作品の製作作業の最大の難関で山場。
 僕ら素人製作では超えられそうにない高い高い峠であった…

 正直、綺麗もしくわ可愛い女の人(小夜子役)なら比較的に簡単と僕らでも見つけられる…(見つけられそう)
 しかし一方、もう一人の主人公の響役は、「浮き世離れしたおよそ、この世の者ではない絶世の美男子」、というのが監督の山崎さんの響役のイメージで、残念ながら当時も(多分今も)関西の芸能界や演劇界にはそんな美形は多分いない(多分)
 そんな上玉な役者に、僕らのような何の実積も無いアマチュアが巡り会える確率は限りなくゼロに等しい…
 何しろ今回はルックスがいいだけでは駄目なのだ。
 (ちゃんと演技の出来る人を探していた…)
 同様にその「響の部屋」も監督の山崎さんは「王子が住む洋館のような華やかな場所」をイメージしていた(…)
 その上、例の「戦後間もなく」という厳しい時代設定もある三重苦(のヘレンケラー)
 世代や年代、時代は違えども、自主制作映画のほとんどはいわゆる四畳半の部屋を舞台にした「四畳半ムービー」であり、今風に言い換えればマンションの一室を舞台にした「ワンルーム映画」である。 
 それは等身大の若者を描くという作家性のテーマからではなく、ただ簡単に僕ら素人や学生さんでも、借りられるロケーション(撮影地)が自分の家や部屋、一人暮らしの友達の部屋という、製作作業の利便性のゆえだった…
 逆にカメラを構えて、「撮影をするという利便性」だけを考えるなら、当然カメラのカメラ位置が自由に設定出来る広い部屋(撮影スタジオの撮影セット)が望ましいが、無論、学生映画や貧しい自主映画レベルでそれを手配するのは金銭的に難しい(無理)
 それ故に僕らは狭い部屋でも画面が広く撮影出来る広角レンズの使用や、顔のアップショット(バストショット)ばかりを上手く組み合わせる、カット割りを工夫して、空っぽにした押し入れの奥深く、ギリギリ限界までカメラ位置を下げて…(ついでにカメラマンは押し入れの低い天井に頭を下げて)
 映画らしい映画の画(え)を作ろうとする、それが結果として等身大の生活の(四畳半生活の)、リアリティーを生む。
 普段、月9ドラマとか見ていて、どう考えてもその登場人物の年齢や設定、年収から考えて、東京の街で、「こんな家賃が高そうな広い部屋に住める訳ないじゃん」と違和感を感じる事はないか?
 (TVドラマ等では撮影に便利なように常に主人公の部屋は広く設定される…)
 等身大の若者のリアリティーを追求していない、時代物のファンタジー作品の、僕らの映画のメインロケーション(響の部屋)もまた、僕らアマチュア映画人の製作能力のリアリティー(実力)から大きく逸脱していた。無理難題。

 時代の制作資金の壁が、僕らの映画道の前には常に高くぶ厚く立ちはだかっていた…


2006/04/14

第百十一回「時代」

 インターネット。

 僕が二十歳の学生時代。世の中ではまだ携帯電話が普及し始めで大雑把にそれがパソコン通信と呼ばれていた頃。
 大阪の某映像専門学校を無事に卒業した僕は、タレントの師匠が興した関西の小さな番組制作会社で、走るボロ雑巾のADをしていたのだが、その時はまだ携帯電話はかなりの高級品で、業界でもタレントさんやプロデューサーと言った一部の偉い人しか持っていなかった…(電話代が高くて便利ではあったが下っぱの僕らは持てなかった…)
 そんなバブル経済がはじけたばかりの九十年代初頭。
 塀の外の懲りない面々たちは今度はデジタルバブルというまたしても足場のない、ふわふわとした底の無い、泥沼のような夢を見ようとしていた。
 国や企業が揃って、山師のような自称クリエーターや大小様々なネットワーク構想に、億単位の無駄金を払っているのを誰も止めようとはしなかった…(子供騙しもいいとこの幼稚なCGに、当時は信じられない額が支払われていた)
 「歴史は繰り返す」とはよく言ったもので、しばらくしてその夢のデジタルバブルもはじけると、今度は「IT革命」という流行り言葉が数年後、親父メディアを飛び交っていた。
 そのブームのどれもが僕らみたいに二十年以上は遅い。今更。遅れて来た自主映画青年たちには無関係なムーブメントで、僕らはただ、「ちっ」って舌打ちをしながら、新しいと呼ばれる時代が通り過ぎるのを、じっと横目に眺めていた…(実際、その時代の寵児たちはそのブームが過ぎ去ると次々と表舞台から消えていった…)
 結局、ネットという巨大な入れ物の箱だけが残って、その中身は何一つ残らなかった。

 生まれて三十年以上。自分が生まれた年から逆走するように、更に三十年以上前にさかのぼった、「戦後間もなくという時代」を舞台に、今自主映画を撮ろうとする僕たちは、思いっきり今の時代に後ろ向きに生きていた…(アナクロな8ミリ青年の生き残り…。そんなパソコンともネットとも無縁だった自主映画青年の当時の僕らだったが、これから先意外な形でインターネットのお世話になる事をこの時の僕はまだ知らない…)
 時代はまわる。
 今はそう信じて僕らの映画作りの時間を先に先にと進めるしかない。
 未来はまだまだ明るいとそう希望を信じて…

 僕らの映画道は今日も一マス、前に進む。


2006/04/13

第百十回「2003年」

 2003年1月1日。僕はひとり人通りの少ない梅田の街を徘徊していた。
 この年の正月は年中無休の、かけもちのバイト先で過ごして、実家がある広島へは帰省しなかった。
 大阪に戻って再び、ちょうど一年の月日が流れた。
 元旦の朝、僕の2003年は奇妙な光景から始まった。
 安マンションの前の歩道に置いていた、こちらに戻ってから中古自転車屋で買った、まだほとんど乗っていない新品同様の中古自転車(?)が、まるでアートなオブジェのように電信柱の空中に、文字通りくしゃくしゃになって張りついていた。
 一瞬、僕はこの奇妙な光景に「???」、理解不能になったが、どうやら大晦日の昨日の夜。
 暴走車が自転車置き場化していたマンションの前の歩道に乗り上げて、僕の自転車を含む、十数台の自転車やスクーターを巻き込んで電柱に激突。
 そのまま当て逃げしたようだった…(僕の自転車は電信柱の真横に置いていたため、そのまま空中オブジェとなって、電柱小僧ならぬ電柱チャリン子になってしまった…)
 まるで塚本晋也監督の出世作。映画「鉄男」のラストシーンのようにすべての自転車とバイクが合体する、混沌(カオス)の場と化した自転車置き場を、僕は何する訳でもなく、ただ唖然とその光景を眺めていた…(口があんぐりするとはまさにこの時の事である)
 何の理屈も根拠もないが、「2003年の今年はこりゃ当たり年になるな」と思った…(事実そうなった)

 嵐の年。疾風怒濤の2003年が始まった。


2006/04/13

第百九回「オーディションその後…」

 先日のオーディションの結果。僕たちは四人の女の人たちに作品への協力を求める事にした。
 まず、鈴木紗理奈さんに似た星揺利子さん。彼女には主人公(小夜子)の妹役の、ちょっとコメディタッチな千代子役を頼む事にした。
 次は前回の作品の出演者だったNさん。やはり彼女には何らかの形で今回の作品にも参加して貰いたかった…(とりあえずシナリオの中に彼女に合いそうな役は無かったので、急きょ彼女用にひと役増やす事に決めた)
 あと、唯一現役の学生だったKさん。実は彼女の通う専門学校とは、かつて僕と山崎さんが通っていた(働いてもいた)、我らが母校の映像専門学校で、しかも同じ映画学科の彼女は正真正銘、僕らの後輩だった。
 僕らはそんなKさんには役者(演者)ではなく、制作スタッフとして作品への参加協力を求めた。
 そして最後にあの、インディーズ映画女優の細江祐子さん。
 実はこの時点では細江さんには、何の役を頼むのかはっきりと言わないまま(決められないまま)、ふんわりと曖昧に出演依頼だけをした。
 (僕らはこの時まだ、青崎さんか細江さんか、どちらの女優さんが主役の小夜子役なのか、実はまだ迷っていた…)
 オーディションの参加者に合否の判定を知らせる期限は、年内中と面接時に本人たちに伝えていたので、細江さんには大変申し訳なかったが、「第一次審査合格」という嘘をついた…(だから二回めなんて無いって…)
 演劇公演(舞台)を中心に活躍する舞台女優の青崎さんと、(キャリアはまだまだ浅かったが)、映画をスタートに女優活動を始めた映像畑の細江さん。
 見た目の容姿の違い以上に、その演技力のタイプの違い。
 「資質の違い」があるように思えた…
 特に配役決定の責任者である、監督の山崎さんはその決定に相当悩んでいたようだった。
 そんな山崎さんに僕は決定的な助言はせず、自分なりの分析を述べるだけに止めた…
 やはり選ぶのは監督の山崎さんである。
 (結局この問題はもう少しだけ先送りにされる事になった…)

 まだまだ2002年の年暮れの出来事だった。


2006/04/13

第百八回「小津の町(4)」

 小津作品の上映会が終わる頃、僕と原田君の本日の成果なし手ぶらの男組は、上映会場の公民館の駐車場に戻って、疲れて車内でうとうとしながら、上映会組の女組の、山崎さんたちの帰りを待っていた…
 車の窓をコンコンと叩く男が聞こえる。
 はっと目を覚ますと戻って来た山崎さんたちがいた。
 (何やら外の様子が騒がしい…)
 眠りから目覚めた僕たちが辺りを見渡すと、地元のTV局の撮影隊が会場の外の様子を取材していた。
 (帰り道、興奮した様子の彼女たちから話を聞くと、どうやら期待するような事が何も無かった僕らとは違い、彼女たち三人には今日一日、色々な事件が起きたらしい)
 当たり前だが(?)、小津安二郎監督(オーヅ先生)をしのぶ会の参加者はお年寄りのファンたちがほとんどである。
 そのお年寄りたちの中にわざわざ遠い大阪から、孫娘のような年齢の山崎さんたちはかなり目立つ。
 どうやらかなり孫可愛がりされたようだった。
 映画の上映後、当日ゲストとして呼ばれていた、かつての小津組女優の、(故)岸田今日子さんへの代表質問者として若い山崎さんが選ばれ、その質疑応答の様子がその日の夕方。地元のニュース番組のローカルニュースのコーナーで流れるとの事だった…(あれから数年後、岸田今日子さんも亡くなられてしまいましたね…)
 あと町の町長さんや観光課のお偉いさん方たちにも、映画のロケーションを探している事を話したら大層喜んでくれて、後日山崎さんの家に分厚い観光パンフレットが山のように何冊も送られて来た。
 その日、何の成果も上げられなかった僕は隣の席で運転する原田君と顔を見合わせた。

 女子たちは強い。


2006/04/12

第百七回「小津の町(3)」

 上映会場の公民館に到着した僕らはまず二手に分かれた。
 山崎さんと助監督の河合さん、薄着の浜口さんの三人がそのまま上映会に参加して、僕と車の持ち主の原田君はその上映会の間、辺りの町を車でロケーションハンティングする係りだった。
 僕と原田君はその日の上映会場でもあった公民館で、町のガイドマップを貰うと、後は勘を頼りにあっちからこっちへ、こっちからあっちへ、風の向くまま気の向くままロケーション(いい景色)を探して車を走らせた…(だから例によってその上映会中、何が起きたのか僕らは知らない)
 確かに飯高という町は小津安二郎ゆかりの町というだけあって、なかなか風情のある町並みではあったが、土地勘のない人間が車で走る範囲内には、僕らが思うような「戦後間もなくに見える風景」はなかった…(そんな場所はもうこの国のどこにも無いのさ…)
 それでも、「ここは使えるかな?」と思う風景があると、車から降りてその記録にビデオカメラを回した。
 しかし、山間部の田舎町とはいえ当然電柱もあれば電線もある。そして建っている家や町並みはやはり現代の日本の風景だった…(都会に比べて田んぼや緑、そして老人が多い、ただそれだけだ)
 あてどなく現代の町を、飯高を車で走り回る僕と原田君だったが、結局この日のロケハンで大した成果は得られず、僕ら二人は道の駅で、名物の伊勢うどんを食べただけに終わってしまった(ひもじい…)
 そして悲しいかな、小津映画という、映画の中の時代の風景(戦後間もなくの景色)は、この田舎町の飯高からも、いつの間にかすっかり失われていたようだった…(あらかじめ失われた風景…)
 青年時代、小津安二郎監督はこの飯高という町で暮らし、その後この町を舞台に何本かの映画を撮ったそうだ。
 今はもう映画の中にしか青春時代の記憶もその時代の風景も思い出は無い。

 すべては風になって消えてしまった…


2006/04/12

第百六回「小津の町(2)」

 大阪から車で小一時間も走ると周りの風景はすっかりと山の中になった。
 乗り物酔いする山崎さんは、最初こそテンション高く車内を盛り上げていたが、くねくねとカーブが多い山道に参ってしまったようですっかりとグロッキー。ぐったりと眠っていた。
 朝早い出発のせいか、他のスタッフたちも一様に疲れ顔で、僕は仕方なく一人車の窓から外の風景をぼんやりと眺めていると、反対車線の車道に野生の日本猿が数匹しゃがんでいるのが見えた。
 大阪から一時間強。車は随分と山深くにまで来たようだった。
 すると女性スタッフの浜口さんが急に「寒い寒い」と言い出した。
 冬の山中、寒くない訳はないが車内はちゃんと暖房が効いている。
 僕が不思議に思って後部座席の浜口さんを見ると、もうすでに十二月の半ばだというのに、浜口さんは秋口のような薄着をしていた。
 誰かが、「上着は?」と聞くと、浜口さんは「着てない」と答えた。
 僕が「何で?」と訪ねるとちょっと天然の浜口さんは「出発する前にシャワーを浴びて、体が火照っていたので、今日は暖かいんだと思ってそのまま出て来た」と答えた。
 するとさっきまでぐったりしていた山崎さんが急に起き上がって「自分おかしい、冬山なめすぎ」と、天然の浜口さん相手につっこんで、静まりかえっていた車内に再び笑い声が戻った。
 天然でいじられキャラの浜口さんは、スタッフのムードメーカーだった…(本人はそれを癒し系と呼ぶのがまた…)
 大阪から二時間ちょっと走った頃、僕らは目的の町に着いた。
 三重県の山と山の間にある飯高町という小さな町。

 そこが小津安二郎ゆかりの町だった。


2006/04/11

第百五回「小津の町(1)」

 オーディションから一週間後、僕らはスタッフたちと一緒に三重県の山間部にある小さな町へと向かった。
 目的は二つあった。
 一つは「小夜鳴鳥」のロケーションハンティング(ロケハン)と、もう一つは当日その町で行われる、「小津安二郎を偲ぶ会(オーヅ会)」が主催する、故小津安二郎監督作品の、昔の日本映画の上映会に参加するためだった…
 日本映画が好きな人ならその名を知らぬ者がいない名匠小津安二郎監督をしのぶ会に、何故僕らのようなチンピラ自主映画人が参加する事になったのかは、よく分からない話なのだが、ある日突然、僕らの映画の監督の山崎さんが、その会に参加するぞと僕らスタッフたちに号令をかけた。
 僕はその日まで山崎さんが、それほどまでにオーヅ先生の事を(通は小津安二郎監督の事をそう呼ぶらしい)、敬愛していたとはついぞ知らなかったので、急にしのぶ会に参加するぞと言われても何が何やら分からずに???になった。
 確かに同じ日本に生まれた日本映画の名匠である。
 そうか、山崎さんはきっと僕の知らない内に、同じ映画監督の名を持つ者として、二十世紀を代表するあの名匠小津安二郎に、何か密かに心通じる「映画魂」を持っていたんだなぁと、一人早合点して、「成長したなぁ、感心感心」と思ったら何の事はなく、以前ドキュメンタリー映画監督の原一男さんが主催する映像セミナーで知り合いになった人がその今回のオーヅ会の人で、その人に来ませんか?と誘いの手紙を貰っただけの、100%にわかファンだった。
 (僕も山崎さんもそれまで観た小津安二郎監督の作品といえば、映像専門学校時代に授業で見せられた「東京物語」の一本だけだった。あまりに少ない)
 正直、しのばせて頂けるレベルのファンではない。
 自主映画という辺境の中でも、さらに亜流の僕らである。
 日本映画の大王道。キング オブ キングス。
 その程度でオーヅ先生をしのぼうだなんて大変失礼な話だったが、監督の山崎さんいわく、その日の上映会はかつて監督が映画のロケ地に起用した、小津安二郎ゆかりの町で行われる、戦後間もなくという同時代を舞台背景にする、「小夜鳴鳥」のロケ地探しの何か参考になればと思って、僕らスタッフを同行させて、その町に行ってみようというのが、我らが名監督である山崎さんの主旨だった…
 (なるほどね、じゃあ行こうじゃないかオーヅ会)

 僕らは当日朝早くに、スタッフたちと一緒に、大阪から車でその小津安二郎ゆかりの町へと向かった…


2006/04/11

第百四回「二人めの小夜子」

 面接は一部例外があったものの次々と無事に終わっていった…(短い面接時間、自己アピールを続けて、終わりを告げても中々帰ろうとしない参加者もいた)
 残念ながら今回のオーディションの目的だった、もう一人の主人公役(響役)が似合いそうな、線の細い男性はいなかったが、参加者の中の一人の女性が、監督の山崎さんの目に止まった。
 細江祐子さん…。
 特定の団体や芸能事務所には所属せず、アンダーグランドの世界で、フリー(個人)で俳優活動を続ける女優さんだった。
 役者活動への遅い目覚めだったらしく、活動歴こそ短い当時の細江さんだったが、アンケートの出演作の欄には、今やすっかり売れっ子の、時の人になってしまった(当時は大阪芸大四天王の一人と呼ばれていた)、山下敦弘監督の商業デビュー作品にも出演している映像畑の映画女優さんだった…
 一応、今回のオーディションのチラシには、ヒロイン役の募集とも記載してはいたが、実際はほぼ、以前メインスタッフのデスク制作の真栄城君に紹介して貰った、青崎裕美さんに九割がた内定していた。
 しかしこの細江祐子さんと出会った事によって、それはいったん振り出しに戻ってしまった…
 映像畑の細江さんなのか?長芝居が出来る舞台女優の青崎さんなのか?
 (これが演劇ならWキャストという手もありうるのだが、当然映画では優柔不断は許されない。僕らはこの後その究極の選択を迫られる事になるのだが、今は嬉しい誤算としておこう…)

 こうしてこの日の第一回めのキャストオーディションは無事に終った。

 僕にとっては生まれて初めての、そして最後のオーディションになった…


2006/04/10

第百三回「オーディション(3)」

 当日、オーディションに集まった人間の年齢はあらかじめこちらの指定通り、二十代の人ばかりだったが、ただ一人Kさんという女の子だけが現役の専門学生で十八歳だった。
 参加者のほとんどの人はやはり関西のインディーズの劇団に所属していた劇団員の人たちが多かった。
 そもそも今回のこのオーディション会場に借りたそのビル自体が、大阪のアングラ芸能の団体や人たちがよく稽古や打ち合わせ等に利用する場所で、その場所に置いたチラシを見て応募してくれた人がほとんどのようだった。
 各参加者のプロフィールは自分がメインで所属する劇団の公演と、後は映画のエキストラやTVドラマの端役出演。僕の知らない自主映画作品への出演歴等がやっぱり書かれていた。
 (そう言っていいなら僕らも彼らもこの世界の卵だった。孵るか孵らないかは本人の努力次第の、今は親鳥の居ない卵だ…)
 (人の事は言えないが)、道から外れた変わった人が多い中でも特に一風変わったプロフィールを持っていたのは、僕らのオーディションを受けた後に、TVの貧乏バラエティー番組に「捨てられない貧乏さん」として出演した人がいた事だった…(この場合、前歴ではなく後歴になるのだろうが…)
 あとは少し変わった人で、普段は結婚式やライブの司会業(MC)をしているという、タレントの鈴木紗理奈さんに似た、星さんというとても元気な女の人…
 (星さんは自分の面接の番が終わると、受付の僕らにも丁寧に名刺をくれて、「結婚する時はどうぞヨロシク」と元気よくビルの廊下をずんずんと帰って行った)
 僕は面接会場の外の受付で、「この人はこの役だな」とか、「あの人はあの役かな?」とか、一人考えていると、廊下の向こう側からこちらに見知った顔の女性が一人歩いて来た。

 Nさんだった…

 勿論、Nさんは上映会のあの日の夜。僕と山崎さんが今回のオーディションの事で大喧嘩した事は知らない…
 僕はあの日の罪悪感からなのか、普段よりも普段通りに、Nさんに接しようと努めたが、(当たり前の事だが)、これからオーディションを受けるNさんの方がガチガチに緊張していて、僕が渡したプロフィール記入用のアンケート用紙の欄を埋めて行った…
 (過去に出演した作品名の欄には僕らの前作である「ワタシノ夜想曲」とだけ書いてあった…)
 Nさんが無言で素早くその用紙を書き終える頃、Nさんの面接の順番が来た。
 Nさんが山崎さんが待つ部屋の中に入り、ドアが閉まると僕は無責任にもほっとした(…)
 この日の面接で、彼女の事を良く知る山崎さんと、僕らの事を良く知るNさんの二人が、何を話したのか…

 僕は知らない…


2006/04/10

第百二回「オーディション(2)」

 オーディション当日…

 不安がる僕らの心配をよそにその日のオーディションには十数名の応募があった。
 (ネット上でも応募したせいか東京や他、関西地区以外からの応募もあった…)
 男女の応募の比率はほぼ半々だったが、中には変わった人もいて女の子なのに男役の響(ひびき)を演じたいという応募もあった。
 そして当日その応募者たちに混じって、先日の大阪上映の時に再会した、前作の出演者だったNさんもいた(…)
 その日僕は昼間のバイトがあったので少し遅れてオーディション会場に入った。
 僕が森ノ宮にあるオーディション会場の会議室に着くと、室内の準備はすでに終わっていて、後は時間通り参加者が来るのを待つだけだった。
 オーディションは応募者と一人づつ、監督の山崎さんが一対一で面接する形式で、一人あたり十分の持ち時間で行った。 
 僕は最初の一人めの人だけ、面接の進行具合に不具合がないかを確認すると、あとは山崎さんと他スタッフ一名に任せて、会場外の受付を手伝う事にした。
 だから会場の中の事は知らないから書けない。

 オーディション参加者が次々と濡れた傘を片手にあらわれた。

 外は冬の雨の日だった。


2006/04/10

第百一回「オーディション(1)」

 東京の多摩映画祭から一週間後、僕らは僕らの新しい映画「小夜鳴鳥」の出演者オーディションを、大阪の森ノ宮にある行政が管理するビルの貸し会議室の一室で、第一回めのオーディションを行った…(といっても第二回めなんて無かったが…)
 今回のキャストオーディションの主な目的は、すでに内定していたヒロイン役(小夜子役)の公募ではなく、もう一人の映画の主人公、響(ひびき)役の男優さんを探す事が主な目的だったが、今一度一般にも門戸を開くという形で、仮決定済みだったヒロイン役も含めた、すべてのキャストを再募集するのがこの第一回めの出演者オーディションの目的だった…(だから第二回めは無いって)
 とはいっても、無名な僕たちの映画の、無名な物語のオーディションに本当に参加してくれる人間などいるのだろうか?
 正直、僕はかなり半信半疑だった。
 オーディションの告知のチラシには簡単な物語のあらすじと「主役の響役と小夜子役の募集」とだけ記してあった…(一応ネット上でも同時募集をかけたらしい)
 どうなんだろうか…?
 同じ関西アンダーグランドの世界にいても似て非なる自主映画の世界と演劇の世界。
 (特に関西において、この両者は意外に接点が少ない)
 役を演じる側と映像を作る側…
 今まで役者志望でもない知人友人を無理矢理出演させて、作品を撮り続けて来た僕と山崎さんには近いようで遠い、隣人の他人。
 それが地元関西の演劇人と当時の僕らの関係性だった…
 未だ役者志望の役者の卵の人すら撮った事もなかった癖に、それがいきなり選ぶ立場のオーディションを開くとは随分生意気じゃないかと、僕も山崎さんもオーディション当日まで精神的に座りが悪かった。
 厚顔無恥。傲岸不遜。
 そんな四文字熟語が頭に浮かんだ。
 偉そうに募集したもののオーディションを受ける人間が当日、誰一人来なかったら、いい恥さらしだなと内心心配だった。

 そして当日…。


2006/04/10

第百回「東京物語(10)」

 コンペティションが終わった夜。
 僕らはその晩別々の場所で東京の夜を過ごした。
 山崎さんは山崎さんの同映像専門学校の級生と、僕は僕の同期と眠らない街、新宿で眠れない夜を過ごした。
 僕の同級生も山崎さんの同級生も今やすっかりTV業界の人になっていた。
 僕は僕の友人と会うまで少し時間があったので、山崎さんとその友人の会席に同席させて貰った…(山崎さんの友人のKさんは前作のロケを手伝って貰った事もあったので僕も少しだけ顔見知りだった)
 あの頃のKさんは今の僕らと同じフリーターだったが、その後遅い就職をして上京して、今は朝の情報番組のADをしている…(KさんはKさんの彼氏で、その番組のディレクターの人と一緒にやって来た)
 僕らがKさんたちから業界の話を聞いたり、こちらの映画の話をしていると、僕の友人のMさんから電話が来たので、僕はそのまま席を外し山崎さんたちと別れた。
 Mさんは僕の専門学校時代の数少ない友人の一人で、友人たちの中で一番の出世頭である。
 一番メジャーな仕事では何年か前の「情熱大陸」の、料理研究家の回のメインDをやっていた…(偉くなったなぁ…)
 僕はMさんとそこら辺の居酒屋に入ると、学生時代の思い出話や昔話をした…(そういえば千葉から広島に帰る前、最後に赤坂で別れたっきりの再会で実際に会うのはかなり久しぶりだった。やはり同期の友達はざっくばらんで気軽だ。お互いの恥ずかしい過去を山ほど知っているからだろう…)
 終電も無くなって今夜の寝床もない僕は、眠らない新宿の夜の街を、Mさんに色々と案内して貰った。
 歌舞伎町やゴールデン街といったTVの中でしか見た事がない有名な場所に連れて行って貰っている途中、生まれて初めてあのドンキホーテに入った。
 (ああ、これか…。昨日の女の子が言ってたドンキとは。大阪に帰ってびっくりドンキーの事をドンキって知ったげに言って危うく恥をかく所だった…)
 友人の夜の観光案内も終わり、始発の電車が走り始める頃、わざわざアルタ前を通って、僕は山手線に乗ってMさんと別れた。
 その後、東京駅の銀の鈴で少しだけ仮眠をとって、山崎さんと再合流した僕は、よせばいいのにせっかくなのでと貧乏症。
 二日めのフィルム部門の作品も観ようと、再び昨日の会場まで足をのばした。
 徹夜明けの僕らは途中、何度か襲われる悪魔のような睡魔に耐えながら、フィルム部門の作品をすべて見終えるとくたくたになって大阪へと帰った。

 これが一泊三日の僕らの東京物語だった。


2006/04/09

第九十九回「東京物語(9)」

 緊張の舞台挨拶を終えた僕らはようやくと肩の荷がおり、再び僕は元の観光気分に戻った。
 アイスを食べ終えた僕は一人、ビルの八階の休憩スペースの窓から、多摩の町並みを見下ろしたりして、作品の上映が終わるまでの時間を潰した。
 (残念ながらこの時上映された前作は、他のお客さんたちと一緒になって大スクリーンを眺めていられるほど、絶対の自信作ではなかった…)
 少し気持ちに余裕が出て来て、階下に眺める多摩の町は暮らしやすそうな良い町だなと思った。
 青白く柔らかい。ちょうど冬の午後の光の加減が、僕は僕が少しの間暮らしていた、千葉県の松戸の町を思い出した。
 町並の景観というのか、家屋の密集具合なのか、よそ者の僕から見て関東の町はどこも似ている。
 東京の郊外にあるベッドタウンの風景を見ながら、僕は今更こんな場所に、こんな人たちといるのが不思議だった。
 僕も作品も同じ時間だけ放浪を繰り返している、自主映画放浪記…
 僕が一人、そんなセンチな事を考えている内に、あっという間に作品の上映時間が過ぎた。
 その日、最後の七本めの作品は緊張が解けてリラックスして観れた。
 七本めの作品のチームの人たちは僕らよりも更に遠い沖縄の人たちで、朝、飛行機に乗ってスタッフみんな揃って東京まで飛んで来たそうだ。
 大勢の仲間たちと楽しそうに、お祭りである映画祭に参加している陽気な沖縄の人たちを見て、僕たちも次がある時にはスタッフやキャストのみんなとお祭りを楽しもうと思った…(本来、映像コンテストとはそうゆうものだ…)
 そしてその日のビデオ部門のコンペティションはすべて終了した。
 結局、僕らの幻だった作品は賞にかする事もなく、その日三年遅れて作品の命日を迎えた。
 だからその日の結果に僕たちは落ち込む訳でもなく、不思議な気持ちで会場を去ろうとエレベーターを待っていると、あの沖縄から来た人たちの中の、女の人が一人、小走りに僕らの元までやって来て、同じ女性の山崎さんに声をかけてきた。
 とぼとぼと帰る僕らがよほど気の毒に見えたのかも知れないが、「とても映像が綺麗で私は好きです」とその沖縄の人は不出来な作品の感想をくれた。

 多分僕らはきっと、その日一番の笑顔で、感想をくれた沖縄の人に「アリガトウ」と言った。


2006/04/09

第九十八回「東京物語(8)」

 僕らが上映前の緊張をまぎらわそうと、うじうじと愚痴(?)を言い合っていると、休憩スペースの向こうで作品が上映中の五本めの監督のYさんが、一人すみっこで売店で買ったアイスクリームを食べていた。
 どうやら舞台挨拶を終えた後、上映会場を抜け出して一息ついているようだった。
 僕らはそのアイスクリームを食べるYさんの姿を見て少し自分たちの緊張の糸がほどけた。
 作品の上映前や上映中に緊張するのは皆同じようだった。
 (僕らは自作品の上映前にナーバスになって激しいマイナス思考に陥っていた)
 僕らはそわそわと足を揺らしながら、一人アイスクリームを食べているYさんを見て、僕らも舞台挨拶が終わった後、甘いご褒美のアイスクリームを食べる事に決めた。
 そしていよいよ僕らの番。
 事前のイメトレのおかげで今回はすべらずに無難に挨拶を済ませる隣の山崎さん。
 一応僕も山崎さんの隣に立って簡単な挨拶をする。
 上映前の簡単な無難挨拶を終えて、僕らが舞台袖に引っ込むと場内の灯りが落ちて、問題児たちの一風変わった不良作品(ワル)の上映が始まった…
 (あとは野となれ山となれ。今更どうにも出来ない)
 僕らはしばらく作品の音量(音のヴォリューム)を確かめた後、再び上映会場を抜け出して、先程の約束通りご褒美のアイスクリームをそわそわふわふわと二人、足を揺らしながらゆっくりと食べた。


2006/04/08

第九十七回「東京物語(7)」

 その日、一本めの作品は学生さんらしい作りの等身大のドラマ作品で、映像専門学校に通っていた頃、働いていた頃に、よく観た事があるタイプの作品で僕らは少し安心した。
 今まで関西の自主映画・学生映画はかなりの本数を観てきた僕らだったが、東京のインディーズ映画を観る機会にはあまり恵まれず、どんなレベルのものか、ほとんど観た事が無かった…(いや、観ようと思えば大阪でも観れない事はない。ただ、観なかっただけだ)
 次に二本めの作品は監督の年齢がぐっと上がってほぼ僕と同い年…(劣等感がすっと消える)
 二本めの作品は「一日撮りの作品」という監督の話し通り、技術的にはかなり荒い荒削りのドラマ作品だった…(またまた劣等感がすっと消える)
 一本めと二本めの作品の上映が終わって、変な話このレベルなら僕らの作品も「アリかな?」と思った矢先に、作品のレベルが上がる。
 三本め四本め、技術レベルも製作レベルもほぼプロ並…(注…このほぼプロ並という所が自主映画制作の難題だったりする。ほぼプロ並は決してプロでは無いという事だ。ついでにプロが作ったドラマや映画を、僕らは毎日家に居て幾らでも観れるという点を覚えていて欲しい。この一点に僕らはつまづくのだが、まだまだそれは先の未来だ…)

 三本め四本めは半プロたちが作る、深夜ドラマのような半プロ作品になった…(でも、ただそれだけの作品だ。そこにプロ作品を越えようとする「挑戦」は無い。わざわざ出来の劣る「模造品」を観るなら「本物」を観ればいい。僕ならそうする…)
 六本めが僕らの作品の出番だったので五本めの作品は観ずに、ホールの外に出て、意味もなくそわそわとする…(緊張していた)
 次は誰にも似ていない、僕らの「自主映画」の出番だ…

 悪役登場。


2006/04/08

第九十六回「東京物語(6)」

 翌日、殺し屋イチが出て来そうな安ホテルを後にした僕らは京王線に乗ってコンテスト会場がある多摩を目指す。
 少し早めに目的地に到着した僕らは上映会場の場所を下見した後、近くのマクドナルドで朝マックの朝食を取った。
 例によってまたまた、こういったイベントの参加に不慣れな僕らは極度に緊張していた。
 特に山崎さんは先日の上映会の、舞台挨拶の失敗の記憶が頭に残っているようで、本日もある舞台挨拶の言葉を、今の内から頭の中で繰り返しイメージトレーニングしている様子だった。
 一方僕は、自分たちにとっては一度終わった、三年も前の自作品が今更、他人に受け入れられるかどうか至極不安だった…
 今回の東京での上映は先日行った地元大阪での、ほとんど身内客相手の上映会と違って、作者である僕らの事を知らないお客さんたちばかりである。
 贔屓目(ひいきめ)はない上に元々問題ありありの実験ドラマである。
 普段見慣れたストレートな劇スタイルの作品ではない。
 僕らの実験映画がどう会場のお客さんの目に映るのかまるで予想がつかなかった。
 様々な理由から極度に緊張した僕らは、駅のすぐ近くのファッションビルの八階にある上映会場に向かった。
 受付にいた映画祭の担当スタッフの方が昨日大阪から来た僕らを、遠路はるばるご苦労様ですと暖かい笑顔で迎えてくれた。
 場馴れしていない僕らは多分手探り手探り、ひきつった笑顔でその挨拶を返した。
 会場の中に入ると、かなり広めな上映ホールには関係者以外、人影はまだまだまばらだった。
 僕らが座席に着いて間もなく本日一本めの、上映開始の場内アナウンスがホール内に流れた。
 本日一本めの、最初の作品の監督さんはまだ映画学校を卒業したての、僕よりは十歳は若い学生監督の人だった…

 学生じゃない、いつまでも学生気分が抜けきらない僕らは、何だか自分たちが酷く場違いな場所にいるような気がした…


2006/04/07

第九十五回「東京物語(5)」

 眠らない街、新宿。

 TVの安いドキュメント番組あたりで繰り返しよく使われる、何故か昔からこの陳腐なフレーズが大好きな僕は、新宿の駅につくなり一人、「さすがは眠らない街、新宿」と山崎さんを相手にキャキャと楽しそうに連発していた。
 (この言葉の持つリズム感というか、そのリズミカルな語感とその後に続く、これからこの街で何か事件が起きそうな期待をさせる期待感が、田舎者の僕は大好きなだった。「新宿鮫」という言葉も好き)
 その眠らない街、新宿で僕らは今夜眠る場所を探して、ポケット地図を片手に眠らない街、新宿を歩き回った。
 僕らが飛び込みでチェックインした、安いビジネスホテルには今にも殺し屋イチが現れそうな、いかにも怪しげな雰囲気で、さすがに眠らない街、新宿と僕は言わざるおえなかった(しつこい)
 ただ女性の山崎さんはそのただならぬホテルの雰囲気にかなり怖がって、起きている間中ずっとコイン式のTVをつけっぱなしにしていたらしいが、冬の夜の寒さをしのぐには眠らない街、新宿とはいえ、宿を探して眠るしかいたしかたなかった(??)
 僕らは貧乏自主映画人なんだ。シティホテルに宿泊する事すら夢のまた夢さ…
 殺し屋ホテルに荷物を置いた僕らはせめて外で晩御飯を食べようと夜の新宿を歩いた(まさに今からがこの街は眠らない)
 おのぼり気分が抜けきれていない僕らは、安くても東京ならではの食べ物を食べようと、僕は生まれて初めてもんじゃ焼きというものを食べた(贅沢は敵だ!)
 多分、他にも沢山あっただろう東京の食べ物だったが、懐も発想も僕らは赤貧チルドレンだった(欲しがりません勝つまでは!!)
 店を出ると若い女の子数人が「ドンキいこ、ドンキ」と言っているのを聞いて、当時はまだ関西ではディスカントストアーのドンキホーテはその名が知れていなかったので、ハンバーグレストランの「びっくりドンキー」かと、勘違いした覚えは今となっては懐かしいあるあるネタだ。
 ジャンクな食事を終えた僕らは夜の街を適当にブラついて、帰りにコンビニに寄って殺し屋いちが待つビジネスホテルに戻った。
 部屋に戻った僕らはさっきコンビニで買った、缶チューハイで明日の上映を祝ってチンと乾杯をした。
 (安くても何でもいい祝う心が大切なのだ…)
 ちょうどそんな時に山崎さんの携帯電話の着信音が鳴った。
 (連絡の相手は以前、小夜鳴鳥のシナリオを送った一社の、某出版社内にある映画制作部の人で、遅ればせながらつい先日、送られたシナリオを読んだという感想の電話だった)
 どうやらその僕らと同じ関西出身のプロデューサーの人は、熱い言葉で山崎さんを励ましてくれているようで、僕らは明日のコンテストに向けてとても大きな元気をその人から頂いた。
 東京の夜ならではの僕らの身の周りに起こった小さな小さな事件。

 さすがは眠らない街、新宿。

 最後にもう一度眠る前に僕は言わざるおえなかった。


2006/04/07

第九十四回「東京物語(4)」

 Oさんへの会社訪問を終えた僕らは今晩の宿を探す前に折角なので東京の街を少しだけ東京見物する事にした。
 山崎さんは普通の女性の人らしくディズニーランドへ行きたそうだったが、今からTDLに行くには中途半端な時間だったので、それは誰か別の人との次回にして貰う。
 僕は個人的にはわずかな間暮らした。あの懐かしい千葉の松戸の町を久しぶり訪ねてみたかったが、僕の知っている松戸の有名な場所といえば、矢切りの渡しとドラッグストアのマツモトキヨシの本社(?)しか知らなかったので、それもまた今度。
 結局お金も無い、若くも無い、恋人同士でも無い僕らは、無難に上野辺りに行ってみる事にした。
 千葉の短かった滞在期間中、当時部屋の中に一人引きこもっていた僕は、無性に人が恋しくなった時だけ、お金がかからない上野公園に訪れて。
 半日ほどベンチに座って通り行く人々の顔を眺めては、また独りぼっちの自分の部屋へ戻った。
 (公園周辺の路上に生きるホームレスの人たちが、救世軍の聖歌隊と一緒になって聖歌をコーラスをしている所を、僕は少し離れた噴水のほとりに座って、ぼんやりとその光景を眺めていた事を今でも覚えている)
 あの頃の僕はただ一人世界のはじっこで自分の居場所を探していた…

 上野駅に着くともうパンダさんのいる動物園は閉園寸前だったので、僕らは西郷どんのいる公園やアメ横通りを目的もなくぶらぶらと歩いた。
 記念撮影用にカメラの一つも持たずに東京に来た僕らは、折角の東京見物の記念にとコンビニで使い捨てカメラを買って、パンダ(人形)や西郷どん(銅像)の前で記念撮影をした。
 (この頃はまだ携帯のカメラ機能が一般的ではなかった)
 すっかりおのぼり気分に火が着いた僕らは、次にやっぱり定番の観光スポットである浅草を訪ねた。
 (やっぱりここは雷門の前で一発ポージングー。パチリと写真を撮った後はパンダに会えずに浅草寺参り)
 その境内からの帰り道、仲見世の商店街を歩いて帰ると、山崎さんが急に名物の揚げ饅頭を食べたいと言い出したので、僕らは揚げ饅頭を一個売りしてくれる店を探した。
 探しまわってようやく、出口付近のお茶屋で熱い日本茶と揚げ饅頭にありつけた頃、外はすっかりと暗く肌寒くなっていた。
 (今思えばこの浮かれ気分の観光気分が貧しさに負けて、世間に負けて喧嘩ばかりしていた僕らの、自主映画制作の長い道のりの中で唯一ほっと出来た、幸せな時間だったような気がする…)

 揚げ饅頭一個で小腹を満たした安い僕らは、まだ決まっていない今晩の宿を探しに、夜の新宿へと向かった。


2006/04/06

第九十三回「東京物語(3)」

 実をいうと僕は初めての作品持ち込みだったが、山崎さんは以前ある映像セミナーで知り合った、有名なドキュメンタリー映画監督の事務所まで自作品を直接観せに行った事もある、すでに持ち込み経験者で、初めてなのは僕だけだった。
 それでも初めて出会う人や初めて訪れる場所に緊張した僕たちは、訪問先の会社があるという、ビルの地下室へと潜った。
 以前からその会社名を映画のエンドロールのテロップや映画雑誌で見知っていた僕は、「へぇ、ここがねぇ…。意外と小ちぇなぁ」と、ミーハー心を丸出しにしてその会社への階段を降りた。
 なんとなくイメージでは雑誌の編集部やTV局の一室のように、活気溢れる賑やかな場所を想像していた僕は、その静かでゆったりとした時間が流れる、画廊(ギャラリー)のような場所に会社があって少しだけ驚いてしまった。
 (後で聞いたら付属の小さな上映施設を併設しているそうで、静かなのは当たり前だった)
 「あれ、この場所であってんのかな?」と、急に不安になった僕らは物音を立てないよう、必要以上に抜き足さし足忍び足。そろりそろりとそっと歩いて、担当者であるOさんという女性の方を探した。
 少し迷って上映施設のもぎりのお姉さんにOさんの居場所を教えて貰った僕らはOさんがいるという制作室のドアを叩いた。
 シナリオの感想の手紙をくれた、担当者のOさんは僕らとほぼ同年代の女性の方だった。
 (江戸弁というのか、浜言葉か、その違いは箱根よりも向こう側の西の人間である僕らには分からなかったが、Oさんは初対面の僕らにもさばけたイナセな口調の、とても話し易い女の人で、大人の社交辞令の付き合いが苦手な僕らはようやく一安心をした…

 約一時間位は話をしただろうか、「小夜鳴鳥」のシナリオの感想や共通の世間話。
 (偶然にも以前山崎さんが自作品を持ち込んだ、ドキュメンタリー映画監督の人が、更に付属の映画学校の講師をしていたらしく。意外とこの世界はどこに行っても狭いなと実感をした…)
 僕らは忙しい仕事の最中、わざわざ映画村のはじっこにある、関西自主映画村の村民の、田舎者の僕らなんかのために貴重な時間をさいてくれたOさんに感謝の辞(ことば)をのべて、その場から立ち去った。

 日本映画という小さな世界の更に小さな自主映画の世界の、部外者のおのぼりさんである僕らの東京見物の旅はここから始まった。


2006/04/06

第九十二回「東京物語(2)」

 遠い大阪から東京駅に降り立った僕らは、まずは近所にある小さな映画関係の会社を訪ねた。
 以前、山崎さんが「小夜鳴鳥」のシナリオを映像映画関係の会社に送りまくっていた時、好意的な返事が書かれた手紙を送り返してくれた会社の一つが東京駅のすぐ近くにあった。
 折角安くない高い交通費を払ってわざわざ東京まで来たからには、精一杯元をとって帰ろうと関西気質丸出しの貧乏人な僕らは、その時の担当の人に「会社訪問をしたいのですが…」と事前にその旨を知らせて、今日会う約束の了解を得ていた。
 (いわゆる若い漫画家等の卵の人たちが、自作品を片手に出版社を訪ねる、持込みみたいな会社への訪問だった。実際はかなりその意味合いは違うが…)
 昔、学生時代の恩師だった人にはパラパラとめくられただけのシナリオだったが、今から手紙や電話だけの交流を頼りに、見知らぬ場所の見知らぬ会社の見知らぬ人を訪ねる僕らは人情は紙風船だ。
 東京駅の構内を出た僕らは約束の時間まで、まだ少し間があったので、一度地図の会社の場所を確かめてから、近所の蕎麦屋さんに入った。
 よくあるあるあるネタで関西人は関西と関東での蕎麦やうどんの出汁(だし)の取り方の違いから、関東の蕎麦やうどんを嫌う傾向があるというが、大阪生まれの大阪育ちの隣りの山崎さんは、別に気にする様子もなく黒いつゆの蕎麦を美味しそうにすすっていた。
 勿論、僕は元々中国地方の広島で生まれ育った田舎者なので、関西文化や関東文化の食の違いなどに関係なくとても美味しいはずなのだが、人見知りの緊張しいの僕はこれから行く場所に緊張をして麺がのどを通らなかった。

 人生初めての持ち込みだった。


2006/04/05

第九十一回「東京物語(1)」

 前作、「ワタシノ夜想曲」の大阪上映の数週間後。
 僕らは東京行きの新幹線に乗っていた。
 東京都のとある市が主催する映画祭のインディーズ部門のコンペに三年前の旧作、「ワタシノ夜想曲」がノミネートされて、その映像コンテストに参加するためだ。
 作品の完成から三年後の。これが最初で最後の公(おおやけ)での作品の上映になった。
 あらゆる映像コンテストに落ちまくって(といっても長編作品がエントリー出来る映像コンテストは国内にはその数が限られているので、三つ四つのものだが…)
 散々、落ち込んだ後での今更ながらの旧作品の入選に、僕はまるで狐につままれたような不思議な気持ちだったが、隣の席の山崎さんはこのめでたい幸運(ラッキー)に素直に喜んでいるようだった。
 この時が第三回めだった、まだ比較的新しかったその映像コンテストは、作品が完成したちょうど三年前には、まだあったかなかったかですれ違っていたようだ。
 (もしかしたら第一回めのコンペはフィルム作品のみの受付だったのかも知れない)
 喜びも災いもちょうど忘れた頃にやって来るのだろうか…
 僕はちょっとだけ複雑な気持ちで東京駅のホームに降りた。
 (もし僕がまだ関東に住んでいた頃に今回のこの映像コンテストに参加出来ていたら、僕の、いや僕たちのその後の運命も少しは変わっていたのだろうか…。いや、そんな事はないな。映画やドラマじゃない本当の人生にもしも…はないさ…)
 千葉から広島の実家へ都落ちした日以来、約三年ぶりに降り立つ東京駅だった。
 この日の新幹線の車中。僕は前日に山崎さんが貰ったある珍しい手紙を、僕にも読めよと彼女から手渡された。
 それはある世界的に有名な女性映画監督から貰った手紙で、以前その女性映画監督の人に山崎さんが、「小夜鳴鳥」のシナリオを手渡した。シナリオの感想の手紙だった。
 その感想の手紙にはシナリオをパラパラとはめくったが、結局内容は読まなかったと書いてあった(…)
 何故、ちゃんと「読まなかったのか?」というその理由を女性監督の彼女は、そのシナリオを書いたのがシナリオを手渡した本人の監督の山崎さんが書いた物じゃなくて、脚本担当の僕が書いた物だったからという、僕にはよく分からない理由だった。
 その世界的に有名な女性映画監督の人は、僕たちの共通の知り合い、というか学生時代の恩師の人で、僕の事も山崎の事も少しは知っている。かつての学校の先生と教え子の関係。
 僕はこの時はこの何だかよく分からない手紙を、「アホか?」と一蹴したが、今更になって読み返してみると考え深い。

 (という事はつまり、シナリオを手渡した山崎さんが書いたシナリオなら、彼女は例えそれがどんな内容でも、その手渡されたシナリオを読んだという事か?)

 (という事はつまりシナリオを書いた本人の僕が、彼女に「小夜鳴鳥」のシナリオを手渡したら、彼女は「小夜鳴鳥」のシナリオを、ちゃんと読んでくれたという事か?)

 どうでもいいような事だが実はこれが、この後に苦戦する、「僕たち」の映画活動の核心をついていたような気がする…(商業映画の興業と自主映画の上映はまるでルールが違うという事さ)

 普通のプロの商業映画の世界では「監督」と「脚本」と「原作」はイコールでは無い事の方がかなり多い。

 売れた小説や漫画といった「原作」を、映像専門の脚本家が「脚本」に脚色し、それを演出家の「監督」が「俳優」に俳優演出や、「カメラマン」にカメラ演出をして、更にその後、各種音も映像も「編集」をして、なんやかんやと出来上がった作品を、「配給会社」の人が各系列の「映画館」にその作品を配給・上映する。更にその後、DVD等のソフト販売もする「販売事業部」などといった、パートパートの流れ作業が、普通のプロたちが作るプロたちの映画作りだったりする。
 勿論、上映をするにも販売をするにも、「宣伝」は絶対に必要だ。

 プロの場合、映画監督なんて映画興業の中のたった一つのパート(部分)にしか過ぎない…
 (そして映画とは誰かに観られて初めて「映画」になる…)

 でも、映画監督本人の作家性が売りの、自主映画の場合はかなり違う。

 自主映画の普通は監督が脚本を書き、監督がカメラを回し、監督が編集をして、監督が各種上映に立ち会い、監督が自作品を宣伝をして、監督がそのソフトを一枚一枚手売り販売をする。
 (もっとも販売出来るような作品ははっきり言ってほとんど無いが…)

 とにかくすべての作業が監督、監督、監督、監督という事が、何故か世間からもそう求められる(…)
 その感想の手紙をくれた自主映画出身の、世界的に有名な女性映画監督の人は、プロの世界でプロの商業作品を作るようになってもその自主映画時代のスタンスをかたくなに守ろうとする芸術家(タイプ)だ。
 (撮影のカメラマンや音楽の作曲家までか。プロの俳優やその他俳優に混じって、監督自身が主役級の役で出演したりもする、あの有名な塚本晋也並みに筋金入りな人だ)
 そして今から僕たちが作ろうとしている映画は、まごうことなき自主映画作品で、その映画の監督は間違いなく確かに山崎さんの方だった…
 (僕は原作、脚本、撮影が担当の、世間的にはただのスタッフで、確かに監督では無いが、確かに作者の一人であるという曖昧な存在…)
 監督の山崎さん本人が書いたシナリオじゃないと読めない(読みたくない)という、自主映画の世界を勝ち抜いてきた、その世界を熟知する女性映画監督。
 対してその最底辺な自主映画の世界でも未だに無名なままの僕ら二人(ふたり)

 しかし実際は無名な人間が書いた無名な物語も、しかし実際は無名な人間が作った無名な映画作品も。
 結局は最後まで「読んでみるまでは」「観てみるまでは」。
 映画の内容やシナリオの真価は。その作品の価値は誰にも分からない不可視の未知の領域…
 (寄ってらっしゃい。見てらっしゃい。見なきゃ誰にも分からないよ、見なきゃ誰にもね…)

 作る事や書く事以上に難しい。見せる事や読ませる事の難しさをこの女性映画監督の人は当時の僕らに教えてくれたのかも知れない…(という事にしておくさ。まぁ単純に彼女は僕の事は、嫌いだったのかも知れないが…)

 とりあえず僕たちはその不思議な女性監督からの不思議な手紙をおいて、僕らの映画制作の先へ進む。


2006/04/05

第九十回「巣立ち」

 鳩の成長は早い。

 二週間もしない内に赤ちゃんバトは小鳩から若鳩に成長した。
 この頃の僕はバイトから帰って来てベランダに立てたスダレの裏側をめくるのが楽しみになっていた。
 日に日に雛鳥がハトのカタチになって行く生命(いのち)の不思議さ…
 別にその小鳩が我が子とまではいわないが、寂しい一人暮らしに友を得た気分だったのかも知れない。
 ここ一年の内に僕はいつの間にかハトの容姿に詳しくなっていた。
 引っ越した頃はベランダに侵入して来る無数のハトたちをまだ漠然と「鳩」と大雑把にその個体認識をしていたが、この頃になると一体一体、個別に判るようになっていた…(またお前かとか、一羽づつの顔が分かるようになった)
 勿論、公園や駅のホームで見かける鳩の群れにも一羽一羽、顔形の個性が見える。
 肉付きのいい奴。やたらひょろっと細い奴。毛並みのいい奴。まだらぶち模様。年老いた鳩。古傷がある鳩。首だけが妙に長い鳩…
 よくよく見ると一匹一匹全部その形が違う。それは別に当たり前の事なのだが、僕は今まで十羽(十把)ひとからげにハトは鳩として見ていた。
 ポッポとクルッポ。そう二羽に名前を付けた時から、僕は意識して鳩たちを見分けるようになった。
 (実際どっちがポッポでどっちがクルッポなのかははっきりと決めてはいなかったが…)
 まぁ、映画制作とは何の関係もない無駄話である。

 (関係のない話のついでにもう一つ…)

 当時僕は夜に皿洗いのバイトをしていたのだが、そのバイト先の食ビルには、何人か中国から来た人たちが厨房で働いており、僕が働く店の厨房にも一人、中国から来た留学生の男の子がいた。
 僕はある日、その茶髪で長髪だった留学生の、「日本の大学を受験する際、この髪を切って黒色に戻した方がいいのでしょうか?」と聞かれてその返答に困ってしまった。
 (さぁ、それはどうなんだろう…僕は知らなかった…)
 今日び、若者の茶髪や長髪は別に普通な気もするし、その大学の面接官たちがどう考えるか次第なんじゃないかなとは思った…(僕がまだ学生だった遠い昔、男の茶髪はヤンキーかホストだけだった。あとはバンドマンやアート系の子が、普通の人と個性的な自分との区別をしたくて、思い思いにその色を染めていた)
 生まれてから一度も髪を染めた事がない、ずっと黒髪のまま長髪中年になった不良品の僕は、その辺の世俗の感覚が完全に麻痺していたので、「面接の時だけ切るか、染めるかしたら」と、適当な妥協案を返事とした。
 (どうやらその中国から来た留学生の男の子は、故郷である中国に帰省した際、中国に暮らす親や兄弟、友人たちにその長くて茶色の都会的な髪型を、都会人になった事を自慢したかったようだった…)
 僕が酷く簡単にそう答えると留学生の男の子はとても残念そうに(謝謝とではなく)
 「アリガトウ」と言って、また別の人にも同じ質問を繰り返していた。
 もしかしたら留学生の男の子は日本人の受験生なら別に髪を切らなくても染めなくても、受験の合否には関係ないが、中国から留学しようとする自分は、それだけで面接試験を落とされるかも知れないと、深く考えていたのかも知れない。
 (もしかしたらその解決方法をもう少し親身になって、一緒に考えてあげれば良かったのかも知れない…)
 それから数日後。留学生のその男の子はつるつるの丸坊主姿で店の厨房にあらわれた…

 僕が疲れてバイトから帰ると、ポッポとクルッポはいつの間にか、どこかに飛んでいなくなっていた。


2006/04/05

第八十九回「休戦」

 果たして男の涙が武器になるのか?(男の僕には分からないが…)
 さすがに泣かれちゃねぇ、喧嘩になんねぇやとこの日の喧嘩は手打ちで終わった。
 次はまったくのアウェイ、東京での作品上映が控えていた…

 人の世の季節が秋から冬に変わるこの頃。
 僕の部屋のベランダに二匹のハトの子供が産まれた。
 正確にはハト避けのネットをしていない、隣の部屋のベランダのすみっこに、いつの間にか建築された隣の部屋の巣に産まれたのだが、巣は僕の部屋と隣の部屋のちょうど境界線上の国境のド真ん中にあった…

 ハトの朝は早い。
 この時期ならまだ夜も明け切らぬ、早朝の五時位からその活動を始める(羽ばねの音や鳴き声が聴こえる)
 夜の皿洗いのバイトから帰って来て、深夜の二時三時に眠る事が多かった僕は、この迷惑なハトの生活音に最初の頃は随分と腹ただしい思いをさせられた。
 この頃の僕の部屋のハト避けネットは、ほぼ鉄壁の陣をひいていたが、それでも一月や二月に一二羽のテロリストたちが、ベランダ内部に侵入を繰り返し、僕はそのつどハトをわし掴みにしてベランダの外に放り出した。
 一度、二羽いっぺんにハトが侵入して来た時は両手にハトをわし掴んだ事もある。ハトつかみ放題…。何だかよく分からない単語が頭に浮かんだ。
 (とにかくこの頃の僕のマンションは治安が荒れていた。一度などは僕の部屋はマンションの五階にあるのに。どこからか野良猫まで僕の部屋のベランダに侵入して来た。何故だ?)

 たまにTVのグルメ番組等で芸人さんやタレントさんが、高級フランス料理店の鳩の料理を頼んだり食べたりするシーンを見ては、いよいよ生活に困ったら、鳩猟をして暮らそうかなどと、くだらない事を真剣に考えたりもした。
 そんな頃の話だった…

 最近隣の部屋の、ハトの出入りがやたら激しくて、うるさいなぁと思っていた矢先に、洗濯機の排水口の、水の流れが妙に悪くなった。
 なんか変だなぁと感じた僕は、当時ハト避けのためにベランダの床に立てかけていた。スダレの裏側をめくってみるとちょうど排水口の排水路の真上に、木の枝等を主な原材料に、かなり巨大なハトの巣が、要塞帝国が構築されていた。
 (激しいハトの出入りは親鳩たちが子を育てる巣を作っていたのだ)
 この攻撃にはさすがの僕も参ってしまった(ハト&ピース)
 この頃の僕は約一年間にも及ぶ、度重なるハトたちとの闘争の日々に疲れ果てて、すっかりハトが嫌いなアンチハト派な人間になってはいたが、このでっかいハトの巣を撤去するかどうかはかなり悩んだ。
 (睡眠を妨げられる上に水はけも悪い)
 確かに産まれて来る命(赤ちゃんバト)に罪はまだない…
 しかし成長した小鳩がいずれ必ず敵になるのは必定だった。
 (いっそ柔らかい若鳥の内に食べてしまおうか…)
 僕が二律背反。倫理と実用のアンビバレンスに悩んでいる内に、巣にのせられた卵から雛鳥がかえった。
 まだ毛も生え揃わない二匹の雛(ヒナ)が、洗濯機の排水にびしゃびしゃに濡れて、ピーピーと泣いていた。
 まぁ、仕方がないかなと思った僕はビニール傘を使って、排水路の真上にあった巣の位置を少しだけずらした。

 生まれたての二匹の赤ちゃんバトに僕は、ポッポとクルッポと名づけた。


2006/04/05

第八十八回「純喫茶」

 僕は数時間後。その時のその思いを山崎さんにも話した。
 きっと数時間前の僕と同じように、今日はどう喧嘩をしようかと考えていたであろう山崎さんはいきなりの僕の心情の吐露に面を食らったようだった。
 三十男の僕は泣き出しそうになりながら、少しづつ今朝からの心境を語った。
 (もしかしたら僕は本当に泣いていたのかも知れない…いや多分泣いていただろう…というか泣いた…)
 その逆のシチュエーションはそれまでにも何度かあったが、初めて見る男の僕の涙に彼女は戸惑っているようだった。
 多分、周囲の客や店員たちにこの時の僕は、別れ話の末こっぴどくふられたフラれ男のように映っていただろう…
 (実際にそれはたいして間違っていなかったのだが…。彼女はいつだって過ぎ去った遠い過去よりも今現在の幸せを優先する。現実に歩んで来た過去をかえりみようとはしないリアリストのロマンチストなのかも知れない…)

 そして僕はこうも付け加えた。
 それはつまらない利益の出ないタダの精神論かも知れないが、もしアマチュアの僕らがそういった心根を忘れて作品を作ってもあまり意味がないと僕は思う。
 僕らは映像商品を作って、それを誰かに売って暮らしているプロじゃないし、今更プロを目指しているプロの卵でもない(少なくともこの時点で、もうすでに三十オーバーだった僕は確かにそうだった…)
 ましてや僕らは生粋の芸術家タイプなんかじゃない。
 前にも自白したように僕は河原で拾った石ころを美術品だと売っているような無能の人だ。
 ただこうまだ何か、心のどこかに小さなトゲのようなものがひっかかっていて、それに対して何かしたい、今でも何か出来ないだろうかと考えている。
 それだけの奴らなのだ。
 きっと他のメインスタッフたちだってそういった、学生時代憧れていたはずの映像業界で、まだ志半ばのまま自ら去って行った、何かわだかまりのようなものが今でもあるから、毎日の生活の中の貴重な時間を、無名の僕らの自主映画制作なんかの為にさいてくれて、何の名誉にも何の得にもならない今回の自主映画制作に、きっとその何かを託してくれたのだと、今でも僕はスタッフだった彼らに感謝すると共に、身勝手にもそう信じている…
 (確かに人は今の今、今日一日という時間しか生きられないのかも知れない。しかしその今日という新しい時間だって、明日には昨日という過去の古い時間になっているのだ)
 過去の事がどうでも良いっていうのなら、明日にはもう昨日の過去になってしまう今日を。今の今しか生きられない運命(さだめ)の僕らは一体どうやって生きろっていうんだ!
 今から作ろうとしているその新しい映画(小夜鳴鳥)だって作り終えた瞬間に、結局は古い映画(ワタシノ夜想曲)と同じ過去になってしまう。
 過ぎ去った昔を今大切に出来ないなら、今過ぎ去る今も、これから過ぎ去るであろう明日も、未来永劫大切に出来るものは自分一人の身、自分自身以外何もないじゃないか!

 少なくとも俺はそんなのはいやだ…

 店内の時間が昭和のまま止まってしまった、今はもう取り壊されて無いレトロな内装の喫茶店で、瞳を赤く腫らした僕は相方の山崎さんにそう訴えた。


2006/04/04

第八十七回「過去(第492回からの呼び声)」

 手紙には母の文字の簡潔な文章で、「元気にしていますか?少ないけどお金入れときます」とだけ書いてあった。
 新米を送ってくれるとは事前に聞いていたが、まさかお金が入っているとは思わなかった。
 一度は帰った故郷を再び、後ろ足で砂をかけるように再度裏切って、金にも何の得にもならない、山崎さんとの自主映画制作に家出をした僕に、何故…
 僕は血の繋がった親子の縁よりも、霞(カスミ)のような自主映画制作の、赤の他人の山崎さんとの縁を選んだ大馬鹿息子なのに…(その貰ったお金だって結局は自主映画の一部になってしまうだろうに…)
 親バカの一言で済ませてしまうには、今日はあまりにもタイミングが悪かった。
 僕はこれからその山崎さんとつまらない言い争いをしに行くのだ。
 心底自分が情けなくなった。
 一体僕はここに何をしに帰って来たのだろうか?
 少なくとも、「自分が悪いとか、自分は悪くないとか」、そんな争いをする為に今まで何度も期待を裏切り続けて来た、もう決して裏切ってはいけなかった人たちを置き去りにして来た訳ではない(それだけは絶対に違う)
 僕らは生活や今の活動に追われるあまり、いつの間にか三年前の過去の自分たちや、自分たちが苦労して作った過去の作品に払うべき敬意を失っていた。
 (それは作品や自主映画にだけじゃない。すべての過去にだ)

 つまらない自己主張のくだらない口論をする前に、何故僕らはあの夜、三年ぶりにたった一夜限りとはいえ、スクリーンの観客の前に復活をした、過去の作品に対して祝杯の一つでもあげなかったのだろう?
 確かに新しい作品の製作作業の為に、急きょ担ぎ出されるカタチになってしまった古い作品の、古い前作だったかも知れない。
 しかしその古い作品を作った過去の経験があればこそ、僕らはもう一度今、新しい作品を作りたかったのじゃないだろうか?
 二人仲良く作った「ワタシノ夜想曲」という、一つ前の僕らの夢は、その不出来な内容から幻の作品に終わった。
 でもその作品を作っている間、僕は本当に楽しかった。
 そしてそれが本当に楽しかった故に、その内容の不出来さが、結果が悔しかった。
 その二つの記憶を持って、僕は三年間渡り鳥のように大阪を、千葉を、広島を渡り歩いて来た。
 今の今がすべて。昔の事なんてもうどうでもいいと言うのなら、今の僕はここには居やしない…
 新しい作品の物語のテーマもきっとそこにあるというのに、僕も山崎さんも今、一体何をしているのだろうか…

 「ただ、ひたすらに己を恥じよ!」

 どこからか誰かの声が聞こえた。




 (聞こえるか…今俺はここに居るぞ…遠い未来のここに…確かにまだ…たゆたって居る…)




2006/04/04

第八十六回「小包」

 一文無しになって故郷の実家に帰った僕は約二年の間、再び両親たちと家族の時間を過ごした。
 しかしその二年の間に一家団らん、一体何度同じ家族の食卓を囲んだだろうか?
 文無しだった最初の数ヶ月間はともかく工場で働き出してからの僕は、ほとんど一人部屋にこもって個食を続ける、精神的引きこもりの日々を繰り返していたように思う。
 (この時の僕はまだ映画の夢にとり憑かれていて、自分自身の生活の、現実の象徴である両親の顔をあまり見たくはなかった…)

 四勤二休。昼夜入れ替えの変則的な勤務時間で、夜遅くに帰ったり。逆に朝早くに帰っていたりしていたせいも確かにあったが、僕は自分の実家でほとんど一人暮らしのような下宿生活を行っていた。
 (休みの日には薄暗くした自室に閉じこもって、一日中映画ばかりを観ていた)
 僕は故郷や家族たちとの生活。つまりは自分自身を取り巻く現実(リアル)から逃避していた。
 そして騙すつもりはなかったけど、結局騙したように、お金が貯まるとずっとこのまま僕がいるものだと思っていた両親や通勤のために親に買わせてしまった中古の軽自動車や。そして、今やすっかり駐車場に変わり果てたあの庭を置いて、ほうのていていと元いた大阪に逃げ帰ってしまっていた。
 (何が自分たちが貯めた自己資金だけで作った自主映画だ。そんなの全部嘘っぱちじゃないか。俺もお前も未だに親のスネをかじり続ける甘え太じゃないか。精々いい所二人ともスネ夫にスネ子ちゃんだ)

 この頃僕は映画製作の主導権を、月々の家賃を払わなくてもよい、自宅住まいの山崎さんにパスをし、昼夜かけもちのアルバイト生活に追われていた。
 生活と夢…。
 自主映画制作という一回こっきりのデッドエンドな理想を持って、意気揚々と元いた大阪まで戻っては来たけれど、結局はまたアルバイトに生活に毎日に追われ、中途半端な気持ちで日々を過ごしていた。
 (一体いつになったら俺は。俺たちは映画が撮れるんだよ…)
 そんな時の山崎さんとの喧嘩だった。
 山崎さんとその言った言わないの、喧嘩の決着をつけにゆく日の朝。
 広島の僕の両親から鳩小屋のマンションの部屋に宅急便の小包が届いた。
 宅急便の箱の中には大量の新米と。瓶詰や缶詰。レトルトの食料品…
 そして封筒が一枚、食料品の間に挟まれていた。
 (封筒の中には5000円札一枚と母の文字で書かれた短い文章の手紙が一枚添えられていた)

 実家を捨てて一年後の、それは両親からの僕へのありがたい仕送りだった…


2006/04/04

第八十五回「すれ違い」

 結局その日の電話は、電話では話にならない、後日直接会って話そうと切った。
 ほろ酔い気分もすっかりふっ飛んだ僕は、熱いシャワーを浴びた後、もう一度寝酒に強い酒をあおってふて腐れて寝た。
 サイテー最悪の気分だった。
 この日から数日間、僕は山崎さんと次あったらどう彼女に喧嘩をふっかけるか、その事ばかりを考えて過ごした。
 あの日の無理な企画変更から、遅々として進まぬ製作作業も含めて、この時点のイニシアティブリーダーの彼女に対して僕の不満は鬱積していた。
 (彼女は本当に映画の作業に専念しているのか?口にこそ出さないが彼女がそれ以外の恋愛事などにうつつを抜かしていないか?多分当時の僕は疑っていた。辛かった工場での労働を終えて、希望に溢れて大阪まで戻っては来たものの、相変わらず僕の生活は月々の家賃や生活費などで大事な映画資金を減らさないように、昼も夜もバイトに明け暮れている、厳しい現実の中を彼女に生かされている。彼女の夢とは映画なのか?それともその後の幸せな結婚や家族との暮らしなのか?僕は彼女と僕の現状の差に嫉妬していた。何故そんなに映画の「製作の作業」を嫌々やってそうなふりをする。俺は映画を作りに色々な生活を切り捨ててここに帰って来たんだ。それなのに僕は今回の映画の製作作業にはほとんど関わっていない。また今日もまた明日も家賃を払うためのバイトバイトだ。映画の制作費の大事な貯金を減らさないように夜は皿洗いだ。この時の僕は彼女のほとりでその作業進行の行方をただ傍観しているだけだった。新しい企画の「小夜鳴鳥」は時代物で金がかかり過ぎる。賃貸生活者の僕は少しでも現金を手元に置いておかなければならなかった。月々の10年20年ローンの後払いで、自主映画を作れるのなら、どんなに僕たちにとってそれは楽な事だろうか…。出来るなら俺だってもっと映画の作業に関わっていたいよ。出来るなら今すぐ力任せに力の限りに西や東に走りまわりたいよ。出来るならこの貧しい鳩小屋の生活を彼女に変わって貰いたいよ。出来るなら…俺だって…俺だって…)

 哀戦士。この時の僕は生活力の差が努力の差だと少しだけ思い込み過ぎていたのかも知れない…

 大阪の地べた這いずり回って、もう随分と僕は空の上の希望を見上げていない。彼女とのすれ違い、空。

 思えば僕と彼女の関係も前作のただ楽しかった時と比べて随分と変わってしまっていた。
 (その原因の一つには僕が慣れないスタッフたちによる集団作業があった)
 以前はカメラと演出以外の作業を。映画作りのすべての作業を僕と山崎さんの二人でふり分ける超変則的な個人映画だったが、今回の新企画はその企画の大きさから、撮影前の事前に僕ら以外のメインスタッフたちを招集していた。
 実際は今回も僕と山崎さんの二人の共同製作・共同出資。すなわち前作と同じ共同監督の共同作品だったが、集めたスタッフやこれから集めるキャストたちの手前。混乱しないように今回は山崎さん一人だけが監督を名乗った。
 (僕は原作者。または脚本家として監督の彼女の横に肩を並べた)
 その新しい二人の関係性に当時の僕はまだ慣れていなかった。
 (そして悲しいかな、人間は三人以上集まると必ず、「政治」というものが生まれる…)
 否、そもそも今回僕が希望していた理想の映画制作とは、「もう一度山崎さんと一緒に映画を作りたい!」、あくまでも変則的な「個人映画」であって、ほとんどプロ作品に近い、プロの映画作りを真似しなければ出来ない、戦後間もなくという時代物の、長編ファンタジー映画の「小夜鳴鳥」では無かった。
 (この時の僕はスタッフとは、あくまで撮影現場のみ参加の、ヘルプスタッフとしての作品への参加を考えていた)
 「小夜鳴鳥」というあくまでも「作品」を撮りたい山崎さんと、ただ前作の楽しかった時のように「山崎さんと一緒に映画を撮りたい」という、自主映画制作の快楽や快感だけを求めるひ弱な僕と強い野心家の彼女との間には、当時大きくて深い「考え方の違い」という溝があった(…)
 今考えてみれば当たり前の事だが、例え大阪に帰って来ても、映像専門学校で二人仲良く机を並べて、学校職員としてそれなりの月給を貰って、その暇な仕事の合間合間に、働きながら楽しく、二人自主映画を作っていた頃に帰れる訳では無かった。
 (あの頃の僕らは自主映画人として本当に甘い、幸せな環境にいた)
 遠い引きこもり時代の千葉を経て、大阪から広島の実家に帰った時、人も家族も町も、昔のようには帰れないと、散々痛い目に僕はあって来た筈だったのに、

 「喉元過ぎれば熱さを忘れる」

 僕は今までの経緯を、すっかりとその事を忘れていた。
 その日の朝、その小包が鳩小屋のマンションの、僕の自室に届くまでは…


2006/04/04

第八十四回「バッドナイト」

 作品の上映終了後。僕らは懐かしい人たちを見送った。
 特に知り合いが多かった山崎さんはその別れの挨拶で一杯一杯になっていた。
 その夜の帰り道。僕らは映像専門学校の先輩である自主映画監督のSさんにこれからちょっとだけ飲みに行かないかと誘われた。
 次の日、朝が早かった僕はとりあえず終電までの短い時間、Sさんと近所の居酒屋に入った。
 僕は山崎さんも一緒にと誘ったが、なんだかとても忙しそうな山崎さんは一人先に帰っていった。
 Sさんはどうやら僕らの作品の不出来を慰めたかったようだが、三年も前に完成していた古い作品だったので、今更人に慰められるのはむずがゆい奇妙な感じだった。

 「(何はともあれ)、自分が作った自分の映画が、映画館で上映されるっていう事は凄い事なんだよ」と、かつてSさんが自分の作品を映画館で上映した時に、映像専門学校の恩師から贈って貰った言葉を励ましの言葉に代えて、僕や僕らの不出来な作品を励ましてくれた。
 (Sさんはとても義理人情に熱いいい人だった)

 その後僕はSさんと別れて、終電で鳩小屋のマンションの自分の部屋にちょうど戻った時、山崎さんから僕の携帯に緊急の連絡があった。

 それはあまり良くない知らせだった…

 実は今回の合同上映会。
 (いや、作品のノリが違う映像サークルに山崎さんが一人参加した理由の一つに)
 三年のブランクで自主映画の「製作の仕方」を忘れた山崎さんが、新作準備のリハビリのため、身近な自主映画人の彼らから、その活動の仕方やり方を学ぶ(自主映画制作の仕方を思い出す)、というのが彼女がそのサークルに参加したメインの目的だった。
 (そんな目的を持った山崎さんがただ古い作品を上映してそれで終わりにするつもりはなく、当然今から作る新作のプラスになるような、あるお知らせの告知をした宣伝のチラシを、その日行った上映会の来客者たちに手渡していた)

 それはヒロイン役以外のキャスティングがまだまだ未決定だった、新しい作品のキャスト募集のお知らせ。
 そのオーデションを開催する役者募集の広告チラシだった。
 僕は当初そのチラシの折り込みに対しては否定的だった…
 おそらく身内しか来ないであろう今回のこの上映会に、そんな宣伝のチラシを渡してもあまり意味がないように思えた。
 それでも山崎さんは偶然何があるか分からないからとチラシの折り込みに消極的な僕を説き伏せた。
 (つまりは彼女はポジティブな人間であり、僕はどんな時でもネガティブだった…)
 ただ、今回の合同上映会に関してはやはり僕は部外者だったので、結局その話はうやむやなまま、当日そのチラシは会場に来た全員に配られた。
 そして、そのチラシを見たNさんからヒロイン役のオーデションを受けたいと山崎さんの携帯にメールがあった。
 (ヒロイン役はすでに女優の青崎さんに内定していた…)
 いやそれよりも、今回の台詞が多いヒロイン役は、演技経験の無い、Nさんには最初から無理な役所だった…
 人情の板挟みに困ってしまった僕はつい、いら立ち混じりに、「ほらみろ、こんな事が起きる」と、まるで山崎さんがすべて悪いような言い方で彼女をなじってしまった。
 (勿論これは誰が良くて、誰が悪いという問題では無かったのだが…)
 それから…。
 僕らは言った言わないの大喧嘩に発展してしまった。
 実は今までもお互いの考え方の違いから小さな喧嘩は何度となく繰り返してきたが…(ミーティングの最中、スタッフたちの前で監督の山崎さんが泣き出した事もあった…)
 恋人同士じゃない男女二人の共同出資・共同製作の自主映画制作。
 お互い腹の中には相手に対しての不平不満がかなりたまっていた(仕方がない人間同士だもの…)
 それがこの前作が復活したとてもおめでたい奇跡の夜に、一気に二人とも爆発したのだ。

 めでたい筈の夜は、転じて、最悪の夜になった。


2006/04/03

第八十三回「グッドナイト」

 結局、上映会当日には六十人程度のお客さんが集まった。

 勿論そのほとんどは山崎さんの知人や友人。今のバイト先やかつての仕事仲間。学生時代の友人たちのようだったが、交遊関係が少ない僕にとっても懐かしい顔がちらほらとあった。
 映像専門学校の先輩で現役バリバリの自主映画監督のSさん。
 僕らが専門学校で働いていた頃、よくお菓子をくれた事務の女の人。
 (今でもたまに学校の事務室に訪問するといかにもお金に困っていそうな僕たちに、すぐにお菓子やジュースを分け与えてくれようとする優しい人)
 他にも僕らが学校助手だった頃の当時の学生たち。 (今やもう立派な社会人の彼ら)
 僕は何だか本当に同窓会を開いているような気分になってきた。
 そしてその中に本日上映される作品の出演者の一人。映画では主人公の友人役をつとめてくれた。あの懐かしいNさんの顔があった…(作品の制作中、山崎さんが急に倒れて入院中、僕がスカウトしてきた、当時はまだ専門学生の歌手志望だった女の子だ)
 Nさんとは作品が完成して以来、約三年ぶりの再会だった…
 (当日、残念ながら他の出演者たちはみな欠席だったので、Nさんが出演者代表の観客という事になった)
 作品が完成した途端、すぐに映画墓場のお蔵入り作品になって、その制作に関わってくれた、出演者や当時のスタッフたちに対して、映画の制作者として最低限度の責任が果たせなかった、僕らはサイテーな作者二人組だったので、今回Nさん一人でも映画館に見に来てくれた事が僕は本当に嬉しかった…
 そしていよいよ作品の上映開始の時間。山崎さん一人が壇上で監督として上映前の舞台挨拶を行った。
 この作品での僕は、一応共同名義の共同監督だったが、今回のこの上映会を主催する映像サークルとはまったくの無関係だったので、一応念のためそれは辞退した。
 (だからこの日の僕はただのお客さんの一人だったので、自前でチケットを買って入場した…)
 僕は六十人の前で舞台挨拶をする、山崎さんが我が身のように恥ずかしかったので、舞台挨拶中は館内の外のロビーに逃げて、彼女がどんな舞台挨拶をしたのかはよくは知らない。
 あとから人づてに聞くと見ているこちらが緊張するほど、彼女は舞台上でガチガチに緊張していたらしい(そうなんだ。それは見なくて良かった…)
 そして上映が始まって、久しぶりに大きなスクリーンで観る自分たちの作品も、やはりその日駆けつけてくれた、懐かしい人たちと同様にとても懐かしかった。
 特に少しだけ大人になったNさんが、歌手になる事を歌手になれる事を夢ばかり見ていた、まだ少女だった頃の自分の過去の映像を今、どんな気持ちで観ているのだろうか?
 僕はその事がとても気になった…
 (撮影を担当した自分でいうのもなんだが、スクリーンに映るNさんのワンカットワンカットがとても綺麗で美しく見えた)
 結局、この作品も映像コンテストの賞など、何の結果も出せず終いの作品だったが、それでも当時の僕らは多分、きっと良い事をしたのだと今更になって思う…
 僕はスクリーンに映る今よりも少しだけ若いNさんの姿を観て素直にそう思えた。
 作品の完成直後すぐに幻となって消えた、泡のように儚かない、かつての僕らの夢の映画だった「ワタシノ夜想曲」という作品は、この日、地元大阪での一夜限りの復活を遂げた。

 悪くない夜だった。


2006/04/02

第八十二回「同窓会」

 当たり前だがただ黙っていて自主上映会に観客は訪れない。

 当時すでに作品の完成から三年が過ぎていた「ワタシノ夜想曲」は自分たちの中ではもうすでに決着がついていた作品だったので、その突然の復活は昔別れた人たちと思いがけずに再会したようなとても不思議な気分だった。
 特に今更その古い作品を見せたいと思う知人友人は誰もおらずその上映宣伝には大変苦労した。
 人見知りな僕なんかとは違って交友関係の広い、山崎さんはかなりの数のDMのチラシをばらまいて、精力的にその上映活動をしていたようだったが、正直僕にはアテもツテも全然無かった(相変わらずこういう時僕は全然役に立たない。山崎さんに頼りっきりだ…)
 困ってしまった僕は急きょ昔の友人数人に直接電話をして、当日映画館までわざわざ足を運んで貰った(一応僕にも共同監督としての面子があった)
 昔、一度見せた事のあるあまり出来のよくない作品を再度鑑賞して貰うのは大変心苦しかったが、そこは最近縁遠くなっていた、かつての友人たちを久しぶりに引き合わせる同窓会だと思って勘弁して貰った。
 特に腰の重たそうな不精な友人には、昔友人たちがやっていたバンドのライブイベントに「(僕は)よく行ってたよねぇ」と脅迫まがいの勧誘をした。
 いやらしい話それは空席を埋めるためのサクラの誘いだったが、それでも数年ぶりに再会を果たした友人たちの顔は懐かしかった。
 (みんなそんなに嫌そうな顔するなよ。今だって俺たち友達だろ?…)

 十八十九の浪人時代。田舎町で一緒にコントごっこをした仲間のN君。
 (僕が最初に映像に興味を持つきっかけを作ってくれたVHSのビデオカメラの持ち主で、仲間内で一番最初に結婚して一番最初に離婚した友人。今は単身東京に転勤させられてしまった企業戦士。東京で彼は元気でいるだろうか)

 同じく田舎のコント仲間だったI君とY君。
 (I君とY君の二人は中学時代からの大親友だったのに、僕はいつの間にか二人と二人別々に会うようになっていた。早く二人とも仲直りしろよな)

 そしてAD時代の友人で僕の密かな憧れだったT君。
 (まだ僕が学生から社会に出たての頃、現実と理想のギャップの中で、自暴自棄になって人として決してしてはいけない事をした時、きつく叱ってくれたのは一つ年下だけど大人の彼だった…)

 そのT君とI君たちが組む、バンドのリーダー格だった歳上のF君。
 (歳上で誰にでも優しかった大人の彼を、僕らはみんな兄貴兄貴と呼んでは慕っていたっけ)

 風の便りにそれぞれの噂は聴く事があっても、一堂に会すのは本当に五・六年ぶりの事だった。

 目もロクに合わせられず照れ臭い分だけ、僕たちはほんの少し大人になっていた…


2006/03/29

第八十一回「デジタル」

 「ワタシノ夜想曲」という作品は僕たちの最後のアナログ作品だった。
 しかし今回作品を上映する、自主映画サークル主催の合同上映会は、デジタルビデオデッキによる再生上映の為、急きょ作品をアナログのテープからデジタルのテープに、作品をダビングしなければならなくなった。
 三年ぶりに再生した「ワタシノ夜想曲」のマスターテープは少しだけその画像が劣化していた。
 僕らが前の作品を作っていた頃、ちょうど世の中ではデジタルビデオカメラが普及し始めた頃で、デジタルでの撮影はともかく、デジタルビデオ編集はまだまだ一般的ではなかった。
 しかしあれから数年が経ち、映像の世界はいつの間にか、今やそのほとんどがデジタル化されてしまった。
 (更にあれから数年がたち最早ハイビジョンが当たり前の時代になった。技術の進化に僕たちはまるでついていけてないアナクロな人間だ)
 パソコンの大容量化時代にともなって、今は個人でのノンリニア編集(デジタルビデオ編集)は当たり前の映像新時代で、時代に取り残され僕らはまるで浦島太郎だった。
 遠い昔、まだビデオ映像作家を気取っていた二十代の僕は、ビデオ撮影で作品を作る際、当時はまだまだフィルム撮影の映像に比べてかなり劣っていたビデオ撮影の映像を、一体どうしたらフィルム撮影の映像に負けないように綺麗に撮れるか?その事だけに執念を燃やした。
 (今はもうそんなもの機械で、誰にだって簡単に出来るが…)
 「ワタシノ夜想曲」という作品は当時として異例のとても綺麗なビデオ映像の映像作品だった…(物語の内容はともかくそこだけはプロの作品にだって勝っている当時の自信はあった)
 ただ今となっては機械技術の発達によって誰にだって簡単に、ビデオ撮影の映像をフィルム映像ように見せる事が出来る(加工が出来る)
 撮影時のちょっとした光の加減やバランスの構図といった、そんな些細なものを気にしなくても編集ソフトのボタン一発で、簡単にフィルム映像のように見せれる大変便利な時代になった。
 どんな映画にもCGIが当たり前になって、スターウォーズシリーズがビデオ撮影されるようになった新世紀に、気がつくとビデオアート(!?)という言葉が映像の辞書から消えていた。
 どうやら僕はまた一つ自分が帰る場所を失ってしまったようだ…

 それでもまだ今日もこんな場所に引っ掛っている。


2006/03/27

第八十回「サークル」

 その頃山崎さんは単独で大阪のある自主映画サークルに所属していた。
 僕らの母校である映像専門学校のOBを中心にした映像作家(!?)の卵たちの集まりだった。
 その自主映画サークルの合同上映会のプログラムの一本として、僕らの前作「ワタシノ夜想曲」も上映する事になった。
 僕はその映像作家(僕はこの映像作家という言葉が未だによく解らない。そんな職分が本当にあるのだろうか?そして映像作家の作家とは一体…)のサークルの事はあまりよく知らない。
 元々、映像専門学校の同じゼミ出身者のゼミ会のような集まりで、同ゼミ出身の山崎さんはともかく、僕には縁遠い人たちの集まりだった。
 実際、集まった人間の年齢や作ろうとする作品の作風がかなり違う、そのサークルの上映会で一本だけ、僕らの作品はあきらかに浮いていた。
 僕らが作った映画はかなり奇妙な仕上がりの実験ドラマではあったものの、それでもストーリーが一応普通にある、物語映画のドラマ作品ではあった。
 (サークルの人たちの作る映画は芸術作品で、同じく難解でもまた種類が違う)

 サークルの人たちが作る作品は揃って、物語(ドラマ)である事よりも非物語(ドラマ)であれという、作品中に「僕」や「私」という強い自意識を持ち込む、反ドラマ派のドラマ解体主義派の集まりに僕には見えた。
 狼の群れの中に子羊が一匹。山崎さんや僕らの作品が彼ら芸術家の卵の人に噛みつかれやしないか(または場違いじゃないか?)

 僕は少しだけ実は心配だった。


2006/03/26

第七十九回「アングラ」

 一口に自主制作映画といっても自主映画の世界にも色々なタイプの作品がある。
 特撮番組を真似たヒーロー物や拳銃をとにかく撃ち合うアクション映画、学校や色んな場所であった本当は怖いホラー映画といった。プロたちが作るジャンル作品を楽しく模倣したパロディ系の作品。
 次に台詞やストーリー性をほとんど排除した「映像」だけを見せる本格的アート作品。
 ぴあ出身。もしくはミニシアターを中心に活躍する映画作家をその教祖にする自主映画王道派。
 あとはドキュメンタリーやルポルタージュの狭間。現代社会に生きる自己を、とにかくアイデンティティーを追及する変則トリッキーな純文学系。
 そして洋モノのインディペント映画にかぶれた、スタイリッシュなのかおしゃれ系…等々。

 個人の趣味で自由に創る自主制作の世界だからこそそれは商業映像の世界と同等に(いや、それ以上に)
 多種多様なバラエティーに富んでいる。
 しかしそうなると必然的にインディーズ映画の小さな映画祭やアマチュア対象の映像コンクール。
 自主映画制作団体の映像サークルにはその主催者や団体の個性に合わせた各々のカラー(色)というものが派生してくる。
 僕らが作った前作「ワタシノ夜想曲」はそのボーダーレスな作風ゆえに、多種多様なアンダーグランドな自主映画の世界でさえ、その場所のどこにも属さない(他の誰にも似ていない)
 世にも珍しい不思議なまとまりの実験映画で、即映画墓場にお蔵入りした幻の作品だった。

 何故その不思議な幻の実験映画が、作品の完成から三年も経った今頃になって、蔵の中から引っ張り出されたのか?今少し説明をしておきたい…


2006/03/23

第七十八回「舞台」

 その舞台はとても不思議な舞台劇だった。

 僕は演劇については門下外の素人だから、もしかしてよくあるタイプの公演だったのかも知れないが、その演劇公演のお芝居はそれまで僕が観た事がある。
 もしくはTV等で知っている演劇公演のどれにも当てはまらないタイプの内容だった。
 アングラでもないしオーソドックでもない、シュールでもないし、ニューウェイブでもない。
 しいていうなら小学校の時に学校で観た。巡回で来る児童劇団のような演目だった。
 公演の客層は子供から老人までのあらゆる年代で、ファミリー向けとでもいうのだろうか…
 決して少なくない会場の座席にはほとんど空席は無かった。
 肝心なお芝居のストーリーとは言うと、よくある新劇の人情喜劇の世界かと思えば、最新の社会風俗や社会問題が入ってきたり、子供向けの教育的なストーリーかと思うって油断すると今度は倒錯した性的な暴力描写が乱入してきて、それは無個性というのか多様性というのか?
 とにかくそれまでの僕が知らない、まとまり方のお芝居だった。
 そんな不思議な演目のステージの上。女優の青崎さんは先日出会った時の線の細い印象はなく。とてもパワフルに主役のヒロイン役を熱演していた。
 (後日、これは女優の青崎さん本人から聞いた話だが、どうやら僕が不思議に思ったその舞台公演の演目の物語は、その劇団自体がタレントの養成所に付属する、選抜メンバーで結成された養成所員の劇団の為。公演の演目も一つの作品というよりは、その養成所に所属する劇団員(タレントの卵)たちによる、日頃のレッスンの発表会という特性が強く。演目=作品という事ではないらしい…

 なるほど。それならばあの演目にあの客層。観客の入り人数も理解出来る。
 (統一性が無い摩可不思議な物語に。お芝居の内容に関係なく、いきなり始まる歌とダンスのショータイム。登場人物すべての役にあるメインストーリーには不必要なサブエピソードの数々も納得が出来る)
 不思議な需要と供給のアンバランスの一致。

 まだまだ僕なんかには知れない、ディープな芸能の世界がそこにはあった。


2006/03/22

第七十七回「女優」

 当時の青崎さんは大阪にあるタレント養成所の劇団に所属する、いわゆる舞台等を中心に活躍するプロの舞台女優さんだった。
 考えてみれば映画映画と大騒ぎする割に、僕も山崎さんも本物の役者さん(もしくわプロの俳優志望の人)と、映画を作った事がまだ一度も無かった(なんかごめん!)
 今までは自分の友達やそのまた友人といった、自分たちの周辺にいる、小綺麗な素人さんたちを無理矢理、役者さんに仕立てて。
 映画ごっこの更にその真似事をしているだけの屁タレなアマチュアで、先日は偉そうに現場の叩き上げ。有名映画監督の助監督出身の、都会派映画監督の作品に毒を吐いていたが、当時も今も自分たちに映画のキャリアと呼べるようなものは何もなく、悔しいけど僕らはその程度の奴らだった。

 (路上に転がった名もなき小石よりも更に小さい砂一粒の存在。その小さな小さな砂の一粒が沢山集まって、僕らはようやく自主映画人という、わずか一掴みの砂の固まりの存在になる)

 関西の場末にある小さなタレント事務所の所属とはいえ、初めて接触するプロの役者さんにどう接すれば良いのか?
 僕も山崎さんもかなり戸惑ってしまった。
 今までは友達の延長線上で、ギャラなんか払わずにただ頭を下げてお願いだけをしてきたが(有名な事務所の有名な役者さんじゃなかったのかも知れないが)
 曲がりなりにも職業俳優の女優さんに、何をどうやって頼むのか、まるでその世界の慣例が分からなかった。
 (ギャラの支払い方法とか適正なギャラの金額。所属するタレント事務所との契約の仕方とか、これから僕らはその一つ一つを学んで行く、初めてだらけの経験をする)

 確かその日は一時間位。喫茶店で話をして、初めての顔合わせは終わった。
 舞台女優の青崎さんはとても静かな礼儀正しい人で、線の細さが印象的な女優さんだった。
 人見知りの僕は初めて出会う、有名ではないが職業女優の青崎さんとの接見に、かなり緊張していたので、その日の記憶はその程度しか残っていない。
 話のほとんどは監督の山崎さんと紹介者の真栄城君が進めていった。

 そして僕らは後日、他のスタッフたちも引き連れて、青崎さんが主演する演劇公演の、青崎さんの舞台を観に行く事になった。


2006/03/22

第七十六回「種子」

 2002年。山崎さんが春から少しづつ蒔いてきた映画の種が芽吹き始めた頃、世の中の季節はもう秋だった。
 勿論、吹き出した芽が花や実をつける事はまだまだ先の話だったが、三年間の空白期(ブランク)から自主映画の作り方を忘れてしまっていた山崎さんもようやく本来の自分の動き方を取り戻しつつあった。
 そして本格的に僕らの映画活動が再開したこの時期に、もう一つ意外な形で復活を遂げたものがある。
 それは完成から三年の間、誰の目に触れる事もなく、作られた途端、消えていったある幻の映画の、一時的な復活だった。
 偶然にもこの時期、僕らの前作「ワタシノ夜想曲」が東京と大阪のスクリーンで上映される事になった。
 それは共に一日一回限りの上映だったが、僕らはこの三年後の奇跡の復活を大いに喜んだ。
 それがただの自主映画といえども、映画はやはり誰かに観られてこその映画だろう…
 それともう一つ嬉しいニュースがあった。
 「小夜鳴鳥」のシナリオがとあるシナリオコンクールの最終選考にまで残った。
 結局、賞は貰えずにがっかりはしたものの、僕は生まれて初めてそういったコンテストで最終選考まで残った事と、小夜鳴鳥の物語がちゃんと他人にも読める内容である事が証明されてそれがとても嬉しかった。
 何しろ僕は生まれてこの方、一度も賞状を貰った事がないような、世にも稀なダメダメ人間なのだ。
 最終選考まで残ればそれだけでも当時の自分の感覚では、まぁまぁの結果だった(…)
 そんな少しづつ活気づき始める僕らの映画の製作作業の最中(さなか)
 僕らは制作スタッフの真栄城君の紹介で、関西の場末にある、小さなタレント事務所に所属するある女優さんと出会った。

 それがのちに映画の主役のヒロインを演じる、青崎裕美さんとの初めての出会いだった。


2006/03/21

第七十五回「田舎者」
 数日後、僕らは監督直筆のサイン入り前売り券を片手に映画館に向かった。
 映画の内容は奇しくも童話。「都会のネズミと田舎のネズミ」を下敷きにしたような異文化交流の物語で、「ある普通の会社で働く真面目な会社員が偶然、街で再会した幼なじみの服飾デザイナーの友人が主催する。インディーズブランドの若きデザイナーたちの世界に、会社を辞めてつかの間のあいだ、夢を追うデザイナーの若者たちと、人生の貴重な時間を過ごす」というのが、作品の簡単なあらすじだった。
 映画を見終わった後、僕は深い溜め息をついた。
 演出力に定評のある監督の演出は素晴らしかった。
 映像もとてもスタイリッシュでオシャレに格好良く撮られていた。
 そして何より出演者たちの演技がリアルに、役者たちの演技をとても魅力的に引き出す監督の演出力は本当に見事な出来映えだった。
 しかしこれが物語の内容(テーマ)になると、(少なくとも僕には)、さっぱりよく解らなかった。
 いや、ドラマ自体は実に分かり易いよくある展開で、ひと昔前のバンド物の漫画の世界によくあった。
 「バンドメンバーの一人だけがプロの世界に誘われて、バンドが解散の危機を迎える」的な。音楽業界の世界を服飾デザインの世界に置き換えただけのごく普遍的なストーリーだった。
 (別に分かり難い高尚な芸術作品では全然ない)

 ではそれの何が解らなかったのかというと、作中に語られるテーマ(芸術論)が田舎のねずみである僕にはまったくの理解不能だった。

 インディーズブランドの主催者である、グループの中で一人だけ飛び抜けた才能の持ち主である主人公(都会のねずみ)は、自分が立ち上げた自分たちのブランドの存亡をかけて服飾デザインのコンテストに参加するが、コンテストの前日、それまで仲間たちと一緒に一生懸命に作った作品の服を、自分自身の才能に届いていない失敗作だという理由で、突然仲間たちが見ている前で仲間たちと作った大切な服をハサミで切り出す…

 どうやら都会のねずみの監督は、芸術とは才能とは、人の情を押し退けてでも追求しなければならないとても厳しくて非情なものだと、監督自身の映画制作体験を含めて、僕たち観客に訴えたいらしい。

 そうなのか?少なくとも最初の登場人物の会社員と同じ、田舎のねずみである僕には、映画の中で主人公がとったその行動は独りよがりでとても嫌な奴にしか映らなかった。
 (驚くべき事に映画の主人公は田舎者のネズミである普通のサラリーマンの方だと思って最後まで見ていたら、実は再会した幼なじみのインディーズブランドの主催者の方であり、田舎者のネズミの会社員は単なる傍観者のただの脇役だった)

 今や邦画の世界の中心にいる、売れっ子監督の作品を偉そうに批評する気などさらさらないが、もし件の講演会で聞いた通り、あの主人公が監督自身の分身なら、とてもじゃないが僕はついて行けそうにない。
 (見栄っ張りでわがままで、仲間を仲間とも思わないその傲慢な態度も嫌だし。自分の都合で勝手に始めたり、勝手に終わにしたり。それがクリエイター、アーティストとしての孤高なのか?)

 自主映画すらロクに撮れやしない僕には、映画の主人公のデザイン(創作)に対する自意識が皆目さっぱり解らなかった。
 (あれじゃただのはた迷惑なナルシスト野郎じゃんか!山崎さん!!)
 第一、自分の理想の服(デザイン)を作りたい作りたいばっかりで、それを誰かが生活の中で着て、初めて服は服になるという基本概念が、その映画のテーマである芸術論からはすっぽりと抜けて見えた。

 ある映画の台詞を借りるなら、「だったら一人で家で絵でも書いてろ」と、僕はその映画の主人公に言ってやりたかった。

 (その作った服はお前一人の服か?今まで続いた活動はお前一人の才能の功績か?何故、何のために、お前はお前の服を作ろうとする。そしてその服を最終的に着るのは誰かよく考えて欲しい。何のためにコンテストに出品しようとしたのだ。お前一人の名誉のためか。違うだろ。もっと仲間たちと自分たちの服を作りたくて、コンテストに勝利して名前を売りたかっただけだろ。違うのか?いいや違わない。違わないと僕は言って欲しい。勿論、スクリーンの向こう側に僕の声が届く訳もないが…)

 僕は映画館を出た後、隣の山崎さんを振り返り、なんだかとても寂しくなった。


2006/03/17

第七十四回「都会のねずみ」

 講演会の打ち上げ会場の居酒屋の座敷席に座った僕の斜め前には先程まで遠くに眺めていた有名映画監督が座っていた。
 (そういえば二三日前に立ち読みしたキネマ旬報という映画雑誌に監督のインタビューと写真が載っていたなぁとか。流石に売れてる人、高そうなレザージャケットを着てるなぁとか。「別に」。どうでもいい事ばかりを僕は考えていた)
 今朝、鳩小屋のマンションで起きた時にはまるで想像していなかった状況にいる。僕はかなり戸惑っていた。
 学校で働いていた時やADをしていた時には、たまに有名映画監督や作家。また芸能人と同席する機会はあったのだが、今の僕らは飲食店勤務のただのフリーターだ。普段の生活でこういった状況はまず考えられない。
 正直僕も山崎さんもお店の人に混じって配膳配食したい場違いな気分だった。
 招待する側でも招待される側でもない部外者の僕らは黙って監督たちのお話を聞いていたが、すると今度は遅れてNHKの有名ディレクターの、映画監督でもあるTさんまでやって来た。
 (どうやら初対面の人たちとの会話に困らないように売れっ子監督さんが呼んだようだった)

 Tさんはいかにもやり手の業界人といった監督とは違って、見た目には温厚な年配のおじさんだったが、後で学校の先生に聞くと本当に有名なドラマの名ディレクターで更に驚いた。

 僕らはみんな集まった二人の業界トークをありがたく拝聴させて頂いた。
 二人の会話の中に登場する有名芸能人や有名クリエイターたちの名前を「へぇ」とどこか関係ないなと心遠くに聴いていた僕は、普段僕と山崎さんが会話をする自主映画の話とは随分違った映画の話だなぁとひとしきり感心した後。
 童話の「都会のネズミと田舎のネズミ」という話を思い出した。
 (まだ若い売れっ子監督は時折脱線して、女性陣にむかってキャバクラトーク的な猥談も披露していたが。監督流のリップサービスだろう)
 後日、僕と山崎さんはその変わった一日の今日の出来事を振り返って、有名人たちとの相席に興奮した僕が、売れている業界のど真ん中にいる監督を称して、あっちは「都会のネズミ(業界の真ん中にいる映画人)だよなぁ」と問い掛けると。
 山崎さんは端的にその映画監督の容姿の特徴を捉えて「ネズミ男みたいだった」と答えた。

 都会のネズミ男…さん…

 僕は山崎さんのその辛口コメントを聞いて、やはり女の人は職業身分の差に強いなと感心をした。
 男の僕じゃこうは言えない。

 例え売れている有名人を相手でも彼女たちは決して物怖じしない。


2006/03/16

第七十三回「相席」

 売れっ子映画監督の講演会が終わった後、僕らはそのまま家に帰るつもりだったが、寄るの辺ない映画浪人の身である僕らに、同情してくれた先生たちのはからいで、その売れっ子の監督さんと会話が出来るように山崎さんを監督に紹介してくれた。
 山崎さんがその監督さんと二言三言会話をする様子を屁タレな僕は少し離れた遠くの場所から眺めて立ちすくんでいた。
 情けないがこういう時、愛想のない僕は全く役に立たない。
 山崎さんは勇気を出して小夜鳴鳥のシナリオを渡そうとしたが、それはごめんなさいと丁重に断られた(平素からそういったものは受け取らない主義らしい。やはり有名な売れっ子ゆえにそんな事が日常多々あるのだろう)
 この頃になるともう僕らは世間の誰に対しても期待はしていなかったので、先生や昔お世話になった事務員所の女性に挨拶をして再び帰ろうとしたが、今度はその事務員の人に捕まって、文化祭の出店の模擬店に連れて行かれた。
 もう学校職員でも学生でもないのに、現役の学生さんたちに紛れて、文化祭の出し物の模擬店に座っているのが、学校助手をしていた頃の昔を思い出して、物凄く変な気分だった。
 (アシスタントを退職してからだって三年以上。純粋な学生を卒業してからなら約十年の時が流れていた)
 僕らは三年ぶりに再会した事務員の女性の人と会話を終えて、今度こそ家に帰ろうとしたが、今度は文化祭の後片付けで、何人かの学生講師の人が、先程の講演会の打ち上げに参加出来ないので、その空いた空席の穴埋めに来ないかと誘われた。

 断る理由は特に何もなかった。


2006/03/08

第七十二回「講演会」

 とりあえず外部からの資金援助を諦めた僕らは、せめてその活動の顔役にひとり大人の人間が欲しいと活動の後見人を探していた。
 (確かに僕も山崎さんも幾つになっても未だに学生のような出で立ちで、これから先行う様々な映画の交渉事に、交渉相手に普通に舐められる事が予想された)
 僕らはそれを映像専門学校時代の恩師やそれらの人たちから紹介して貰った身近な人物に探し求めたが、企画の内容が時代物である事と今ある制作資金の準備額を聞いた途端、それはとてもじゃないが完成はしないだろうとすべての人に断られた。
 それは常識のある良識のある大人なら至極当然の当たり前の判断だった。
 (いくら名前を貸すだけとはいえ、企画の成立自体がほとんど不可能事に近い。将来の展望がまったく見えない自主映画制作に参加するような物好きな大人は誰もいない)
 周りの大人たちはみんな愛する家族や自分自身の大事な仕事。生活を抱えていた。
 いつまでも学生気分が抜けきらない、甘ったるい僕らの自主映画青春ストーリーに、七人めの登場人物になって金にも名誉にもならないマイナーな自主映画制作に付き合ってくれる程、ロマンチストでもなければまた暇でもなかった。
 (誰だって責任を背負う面倒は御免だ…)

 そんな時僕らはふらりと立ち寄った映像専門学校のわが母校で、偶然今をときめく超売れっ子の有名映画監督の講演会を拝聴する機会に恵まれた。
 (専門学校の学園祭イベントの公開講座で、監督本人による新作映画の上映プロモーションの一環のようだった)
 僕らは現役の学生さんたちの中に混じって会場の一番後ろのすみっこの席で、その売れっ子監督の講演を聞いた。
 (流石に喋りが達者な売れっ子監督は若い学生さんたちに夢のあるクリエイター論を展開して、その巧みな話術で若者の心を掴んではその気にさせた)
 それは相変わらずピラミッドの底辺でドサ回りを続ける、フリーターの僕らには遠い日の夢の話だったが、それはそれなりに感心しながら聞き入って、約二時間に及ぶ長い講演会はあっという間に終了した。
 講演会が終わって最後に監督さんの手売りで、新作映画の前売り券をサイン付きで販売していたので、僕は山崎さんに頼んで僕の分も買ってきてもらった。

 今日の講演会を聞いてその監督さんが作った、新作映画に僕らは興味を持ったのだった…


2006/03/08

第七十一回「流浪」

 この頃の僕らは大人の人(プロデューサー)を探していた。

 しかし正直もうお金に関しては自分たちの手持ちの貯金。自己資金のみで何とかするしかないと諦めていた。
 もちろんそれは自分たちの頭の中にある理想の映画(映像や演出)を諦める事を意味していたが、これ以上出るか出ないか分からない(いや、きっと出ないだろう)、外部からの資金援助をアテにする事がなんだか悲しくなってきた。
 (これじゃ飼い主を探して街角をさ迷うまるで捨てられた捨て犬の野良犬じゃないか…)
 この頃巷(ちまた)ではシネコンの普及やTVのデジタル化多チャンネル化による映像ソフトの供給不足で、長年斜陽産業と呼ばれていた日本映画の世界も再びかつての活気を取り戻しつつしあると日経新聞や経済紙などに書かれていたが、当然僕らアマチュアにはまったく関係のない世界の出来事だった。
 (実際、シナリオを持ち込んだ数社には「確かに面白いとは思うけど、今はうちはうちの事で精一杯」と言われた)
 幾らビジネス誌等の情報メディアが景気よく映画産業の復活だと騒ぎたてても、実際に現場で働く業界の人たちの感覚は、相変わらず映画は最先端の斜陽産業というのが実情のようで、当然僕らみたいな名も無き野良犬は当たり前に蚊帳の外だった。
 (正直、自己資金の額では頭の中の理想の映画にその金額の桁が二桁は足りない)
 最低限度に削って工夫して勝負するにしても、もう一桁は絶対に足りない、絶望的とも言える厳しい状況だったが、持ち込みを始めてもう一年近く、なしのつぶてが続いていた…
 (僕らはこれから二桁も違う100%勝ち目のない映画作りに挑戦しようとする、はたから見れば風車小屋を相手に戦おうとする滑稽な騎士。まるでドンキホーテのように見えていただろう)

 そんなありもしない期待をして街角をさ迷っている時期に僕らはある有名な映画監督とすれ違った。


2006/03/02

第七十回「ダンス(シンデレラは踊らない)」

 またしても急な連絡だったので僕はその会合には行けず、またまた山崎さんが一人でそのちっちゃいおじさんに会いに行った。

 (だからこれから先は山崎さんから聞いた話だ…)

 夜遅く山崎さんが約束の場所に出向くと、その自称プロデューサーのおじさんは、もう遅くて店は閉まるからホテルの自室で話をしようと言われたらしい(…)
 するとやはり最初の内は普通に話をしていたおじさんも段々と色気づいてきて、「ダンスを踊りませんか?」と誘われたらしい。
 山崎さんはこのちっちゃなおじさんの誘いをやんわりとかわして、タクシーで逃げ帰ったらしい…
 後日、この話を聞かされた僕たちは何だか安い昭和のドラマの筋書きを聞かされているみたいで、あきれるのを通り越して感心してしまった(平成の、二十一世紀の日本にもまだこんな話って残っていたんですね)
 とはいっても僕らの映画制作に寝技は不必要なので、以後ちっちゃいおじさんといえども厳重に注意するように僕たちは山崎さんに言った。

 (ほんまに…)

 「百万位持ってるちゅうねん!」

 僕らはその名刺をばらばらに破り捨てた。


2006/03/02

第六十九回「返事」

 18社に送った企画書(シナリオ)は結果的にその内の4社から返事が帰って来た。
 その内の一社は全国配給のメジャー作品の製作も手掛ける大手メジャー会社のプロデューサーさんからのとても丁寧な批評文で、その律義な文面からそういった若者との文学的な交流を持つのが趣味の元文学青年の大人の人のようだった。
 他の2社はミニシアター系の商業映画の制作や配給等をする、知ってる人は知ってる会社で「なかなか面白い内容でした」とシナリオの感想が帰って来た。
 (勿論今の時代、無名のアマチュアに簡単にお金が出るようなバブルな時代ではないので、それ以上の広がりは無かったのだが、ちゃんとした映像業界の人に初めて褒められて、僕らの今後の活動の大変な励みにはなった)
 そして最後の一社は当時はあまり聞いた事がない、Vシネマ系の作品を手掛ける映像制作会社のプロデューサーの人で「今度、仕事で京都方面に行くから直接会ってお話しませんか?」と言われた(らしい)
 それはとても急な話だったので僕は一緒に京都にはついて行けなかったのだが、山崎さんは一人でその男のプロデューサーの人に会いに行った。
 その日は小一時間ほど挨拶程度の話をして帰ってきたらしく、山崎さんいわく吉本新喜劇の池乃めだかに似た五十代のプロデューサー(おじさん)だった(らしい)
 その時に少しだけ映画の制作費のお金の話も話題に出たようで「それは百万円位で出来るの?」と山崎さんは自称プロデューサーの池乃めだかに聞かれたらしい。
 (いや、とてもじゃないが百万位じゃ出来ない。出来たら苦労しない)
 その話を聞いた限りとても有能な敏腕プロデューサーの人ではなさそうだったが、業界に顔の狭い僕らは一応その名刺を大事にとっておく事にした。
 それから何週間してまたそのちっちゃいおじさんの池乃めだかさんから山崎さん宛に電話があった。
 「今度は(山崎さんの地元の)、大阪で会いませんか?」という電話だった。


2006/03/02

第六十八回「招集」

 とりあえず出す所に出す物は出したので、会社からの返事を待っている間に身近な協力スタッフを集める事にした。
 といっても二人の母校である映像専門学校を退職してから、三年以上の時が過ぎていたので、そんなアテもツテも無かった。
 悲しいかな、人の縁は過ぎてゆく時間とともに段々と薄れてゆくものだ。
 それでも僅かに残った縁からボランティアスタッフの協力スタッフを選抜した。
 まずは僕らが専門学校のアシスタント時代、まだ現役の学生だった河合さん(女性)とその友人である同じく女性の浜口さん。
 そして三年ぶりに何かの手違いで(気の迷いで)、偶然僕の携帯電話に着信履歴を残してしまった前作の協力者でもある、僕の映像専門学校の学生時代の同級生の原田君(僕は君を今更巻き込む気は最初は無かったよ)
 最後に同じく、山崎さんの専門学校時代の年上の同級生で、今はフリーの流しの制作マンの真栄城君。

 以上、僕と山崎さんをあわせて総勢六名が僕らの映画のメインスタッフとなった。
 実際、現役バリバリで映像業界で働く現役スタッフは誰もいなかった。
 中心の二人である僕と山崎さんは元番組AD。
 浜口さんは元照明助手。 元撮影助手のカメアシだった原田君。
 真栄城君はいわゆる潜りの制作で、職業人のプロの制作マンではなかった。
 唯一、河合さんだけが現役のビデオ編集マンだったが、編集なんてまだまだ随分と先の話で、河合さんは当分の間、まったく未経験の助監(助監督)だった。
 誰一人プロの、本職と呼べる人間はいない。

 頼りない素人のアマチュアの集団だった。


2006/03/02

第六十七回「プラットホーム」

 僕が鳥類(主にハト)と勝利者なき虚しい戦いを繰り返す日々の中、山崎さんはせっせと真面目に「小夜鳴鳥」の製作活動を地道に進めていた。
 この頃の僕は特に出番が少なく、昼も夜もアルバイトにやはり生活に追われていた。
 働けど働けど我が暮らし楽にならざる、じっと手を見る(生命線がひどく短い)
 一方山崎さんはすでに昼夜かけもちしていた昼間のバイトは辞めて、夜のバイトだけを続け、空いた時間を自主映画制作に当てていった。
 二年半、人目に触れず地下活動の先頭を走り続けていた僕はしばらくの間少しお休みだ。
 個人(僕と山崎の二人)で作る個人映画の枠を遥かに越えてしまっている大型企画の自主映画「小夜鳴鳥」の制作にはどうしてもその世界の後ろ立て、業界のプロのバックアップが必要だった。
 無名のアマチュアの僕ら二人に後ろ盾といえるものは何も無い(結局最後まで何も無かった)
 この頃の山崎さんは個人制作ではとても無理な作品の制作をバックアップしてくれる、映画制作会社や業界の偉いさんを求めて、本屋で買った映画業界マスコミ手帳を片手に、作品の企画書やシナリオが持ち込み可能な映像映画関係の会社を探してちょっとした就職活動。
 かたっぱしから会社に電話をしまくった。
 (ただ、何の映像コンテストの受賞歴も無い、無名のアマチュアに門戸を開いてくれるほど業界の人は暇ではない)
 それでも彼女は驚異的な粘りで頑張りに頑張って、本のページに書いてあった約60社中、18社から企画書を送ってもいいよとの返事を貰い、映画のシナリオを送った(もちろん送ったシナリオがすぐにゴミ箱の中にポイ捨てされると覚悟の上でだ…)
 とりあえず他に良案は何も無かったので、ダメもとでやれるだけと彼女は全力で頑張っていた。
 (外交能力が乏しい社会性が欠如した精神的引きこもりの僕は、この時期、山崎さんにほとんど何も協力出来なかった…)
 そんなある日の事。
 僕は地下鉄のホームで偶然、山崎さんが当時新しく付き合い始めたばかりの、新しい彼と電車を待っている姿を偶然見かけた。
 (同じ地下鉄の沿線に住んでいる僕は何故か二人を見て瞬間的に逃げ出してしまった)
 そして逃げ出してしまった後、何故僕が逃げなければならないのかはよく分からなかったが、何故かプライベートの彼女には会いたくなかった。
 その後も何度か駅で二人の山崎さんたちを見かけたが、僕はその度に素知らぬ顔をして無視して通り過ぎた。
 (見かけた事も彼女には一切告げず完黙した)

 まだまだ僕らの自主映画制作は始まったばかりだった。


2006/03/02

第六十六回「聖戦」

 作品の共同製作者・共同出資者二人の両者の思惑の違いこそあったが、こうして再合流した僕らは再び僕らの映画道を、人生を前へ進み始めた。
 (余談だが)、この頃になると僕の鳩小屋のマンションのハト避けのネットも、ようやくほぼ完璧なディフェンスシステムを構築しつつあった。
 三日に一度はあったベランダへのハトの侵入が、一週間に一度になり、二週間に一度、一ヶ月に一度になって、僕の部屋のベランダにほとんどハトが侵入する事は無くなった。
 人間とハトとのし烈な生存争いはとりあえず人間側の僕の勝利に終わった…(人間側の一方的な理屈で悪いがマンションの家賃を払っているのは僕だ。住む権力はまず僕の方にある)
 それでも人間が作るシステムに完璧という物はなく、少しでも油断をするとハトはどこからともなくネットの網を突破して再びベランダの中に侵入を繰り返した。
 自分が生まれ育った場所へと帰ろうとする、ハトの帰巣本能の強さ、その生命力に僕は感服したが、押し入れの収納も無いような狭い安マンションの一室。
 ベランダの一角は洗濯ものを干す貴重な土地。
 僕としてはここを絶対にハトにあけ渡す訳にはいかなかった。
 僕はネットの隙間から生まれ故郷のベランダの地を再び奪還しようと侵入して来るハトを見つける度に、ハトの侵入経路を推理してそのわずかな隙間を次々と塞いでいった。
 それでも生まれ故郷が恋しいハトは、なんとか新しい小さな隙間を見つけて、二三ヶ月に一度はネットで塞がれたベランダに侵入をして来て、己が生まれ育った聖地ベランダを奪回すべくテロ行為(脱糞)を行った。
 古(いにしえ)の十字軍遠征から今パレスチナ。
 人間とハトの終わりなき千年戦争。

 聖戦(ジハード)だった。

2006/02/26

第六十五回「打算」

 今回の映画制作の企画の決定の折り、結果的に僕は打算的に彼女に折れてしまった。
 (故郷を捨てて来たばかりの僕にはもう帰る場所なんてどこにも無かった)
 ここで早々に相方と喧嘩別れをして、ここまでの苦労をすべて終わりにする訳にはいかない。
 あとこれ以上二人が企画決定でもめ続けるのは大切な予算の無駄な損失だった(タイム イズ マネー)
 月々の家賃を払わなければならない一人暮らしの僕が、実家住まいの山崎さんを相手にいつまでも籠城戦をはっても、所詮は叶うはずが無かった。
 (世間はいつだって貧乏人の足元を見てくる)
 これ以上分裂の足止めを食らって僕の貯金分。たった200万の、虎の子部隊の映画貯金を減らすのはとても賢い選択とは言えない。
 こういう場合やはり賃貸生活者の僕は大阪が実家の山崎さんにはまず勝てやしない。
 (昔、ある有名な映画監督が今のこの時代、映画の世界で生きて行こうと思ったら東京近郊に実家がなければとてもやっていけないと、この世界の収入の苦しさを夢の裏側を、世知辛いと語った)
 このままジリ貧で勝負の結果が見えていた僕は、どうしてもこちらの方(小夜鳴鳥)が撮りたいという監督の山崎さんに、ある条件付きで企画決定のOKサインを出した。
 それは最低限度のシナリオの内容を、一切変えないという厳しい条件付きだった。
 もしそれが出来ないと判った時点で、再びまったく別の第三の企画に変更する事を彼女と約束をした。
 (小夜鳴鳥は読ませるだけの脚本だったので100%シナリオの段階で物語は完成されている。映像化をするにしてもほとんど変更の余地がない。それも僕が彼女にその制作を反対する理由の一つだった)
 僕は何度もその旨(むね)を彼女に説明したが彼女の鋼鉄の意志が変わる事はついぞ無かった。
 (やりたい事がある奴がやりたくもない大勢の人間を引っ張って行くのが自主映画の世界だ。そういう意味ではこの時の彼女ほどその監督に相応しい人物はいなかった。経済的に貧しいという理由ですぐに自分の意志を引っ込めてしまった僕は駄目な奴だ)
 僕が大阪に帰って来た時点ですでに活動の主導権は彼女に移っていた。
 ただ幾らその意志が叩いても砕けない鉛色の鋼鉄でも、何の後ろ盾もない(映像業界と繋がりがない)、僕らただのアマチュアが「昭和24年」が舞台の長編劇映画の製作作業に壁にぶち当たらない訳がない。
 (いい加減な映像でもよいのなら話は別だが、彼女も僕もいい加減な映像の映画作品を作る気はさらさらない)
 厳しい現実ばかり突きつけられる、自主映画制作の製作作業の中で、いつか彼女のその鋼鉄の意志も折れるだろうと当時の僕はタカをくくっていた。
 (僕は山崎さんの後ろですぐに違う企画の脚本が書けるように身構えていた)

 しかし今振り返ればそれは甘い予測の、甘い打算だった。


2006/02/25

第六十四回「鬼(隠)」

 鬼…隠(おに)…人の心に隠れ棲む。見えざるものの名前…


 僕の胸の中に密かにあった理想の映画作りという存在が無くなった時から、僕の胸のその場所には鬼(隠)が棲み始めた。
 それは何と言ったらよい感情なのか未だに分からないが、やはり鬼としか言えない、山崎さんに対してのある複雑な感情が芽生える瞬間だった。
 もしかしたら僕よりも幸せそうな環境を生きる、単純な彼女への憧れと嫉妬だったのかも知れない(だとしたらそれはえらく安っぽい感情なのだが…)

 (それは今はさておき、)

 まず当時の僕には山崎さんの演出家としての資質と、彼女がこれから作りたいと激しく自己主張する、作品との性質が合っているようには思えなかった。
 それはその席で山崎本人にもはっきりと言った。

 (これは別に自主映画にだけ限った事ではないが、どんな人でもどんな事でも、自分がしたい事と自分に出来る事は違う。もしその違う資質の差を乗り越えて、人が新しい何かを始めようとした時、そこには必ず挑戦というものが生まれる。別に自分がしたい事を自由にしたからと言って、必ずしも人は幸せになる幸せになれるとは限らない。その挑戦は、人生とは夢とは、失敗する可能性の方がはるかに高いのだ。それでもまだその新しい何かを望むのならその人たちは過酷な修羅の道を進む鬼となる…)

 撮影現場でのライブ感覚を重視した映像演出を得意とする、かつての僕が知っている山崎さんの当時の演出スタイルと、物語の構成自体がすべて、100%紙の上のシナリオ上ですでに出来上がっていた作品(小夜鳴鳥)との間には若干(というかかなり)、双方の資質のズレがあった。
 そしてそれより何より。僕らただのアマチュアに。戦後間もなくというとてつもなく大金がかかる時代設定の、しかも長編劇映画を完全に作りきれる訳が無い(!)

 時代物はそれだけで製作費がバカみたいにかさむ。
 衣装。美術小道具。大道具のセット。そして撮影地のロケーションに至るまで、僕らアマチュアにはその手に届かない物ばかりだった…(かつてTV黄金期に沢山あった時代劇はそのドラマの製作費がかかり過ぎるというだけの理由で、今はそのほとんどを見かけなくなった…)
 「絶対反対!」という僕の声(言葉)を、当時の山崎さんは何故かかたくなに頑として聞き入れようとはしなかった。

 今回は前回と違って自分のほんとうにやりたいと思った事を絶対にする。それが当時の山崎さんが考える所の、自分自身という名前の作家性だった…(僕から見た山崎さんが持つ演出家として優れている部分とは随分と違う。それが彼女自身が出した答えだった。そしてこれから数年のち僕らはことあるごとにこの自分自身という名のモンスターと格闘し続ける事になるのだがそれはまだ随分と先のエピソードだ)

 当時の僕が考えた、僕から見た山崎さんの作家性。演出家としての資質(才能)とは、随分と違う彼女本人が出した答えだったが、人間はいつの世にだって生まれ変わる事が出来るのかも知れない…(そう考えなければ人生なんてひどくつまらないじゃないか…。だから今は前を見て、夢を見て僕らの映画道を前に進もう。その可能性を、わずかな希望を信じて…)

 この時から僕の胸の中に隠れ棲む鬼と、彼女の心の中をすくう、自分自身という名前のモンスター(怪物)との、長い長い自主映画制作という名前の戦争がたった今始まった。


2006/02/25

第六十三回「幻」


 僕にはかつて一つの映画作りの理想形があった。

 それは金銭的には充分ではないが、アマチュアのアマチュアによるアマチュアにしか撮る事が出来ないアマチュアの映画(自主映画)
 それは田舎町の浪人生の頃のコントごっこから映画学校に楽しく学生として通っていた学生時代。業界のプロたちが資金持ち出しで作る低予算の深夜番組にADとして参加させて貰ったAD時代。そのADを辞めた後、病んだように一人短編ビデオ映像を編集していた頃。母校の映像専門学校に拾われて山崎さんと出会った、人生で一番楽しかった自主映画制作の思い出の頃。そして千葉や広島で夢の映画にたった一人。孤独に妄想を膨らましていった今日までの日々。
 その時代その季節の度重なる失敗の経験が折り重なって、山崎さんとこれから作る(はずだった)、理想の自主映画、理想の映画作りがいつの間にか僕の人生の大きな夢となっていた。
 しかしその夢は夢のパートナーであるはずの山崎さんにいともあっさりとその期待を裏切られてしまった。
 (当たり前の事なのだが現実の山崎さんは、千葉や広島といった遠い異郷の地で、僕が勝手に夢描いていた理想の山崎さんなどでは無かった)
 彼女は自分発の自分が原案の。僕が撮影可能な現実的なシナリオに、地味に書き換えた。「不帰(かえらず)」というシナリオより、僕が彼女には内緒で自分たちではとても撮れやしない。また撮るつもりもない。アマチュアの僕らには夢のまた夢の時代物のファンタジー作品を。内容的に派手な「小夜鳴鳥」の方を撮りたがった…

 (こうしてあっさり僕の理想の映画は映画ピラミッドの底の底。映画墓場の一番奥深くに消えた)

 不帰…かえらず…

 (そのタイトルが悪かったのか?)

 それは本当に帰らない幻の映画になった。


2006/02/24

第六十二回「告白」

 2002年4月某日。僕たちは梅田で待ち合わせをした。
 僕の新しいバイトが決まったお祝いに山崎さんがお酒をおごってくれた。
 僕たちは普段あまり入らない小料理屋のような場末の居酒屋に入った。
 彼女の方も実家に戻った例の引越し騒ぎにようやく一段落ついたようで、これでやっと腰をすえて落ち着いて映画の話が出来るなと、破局したばかりの傷心の彼女には悪いが、内心僕はほっとひと安心をした。
 (僕が大阪に戻って来てもうそろそろ五ヶ月あまりになるがこの間映画の作業はなんやかんやとほとんど進んでいなかった…)
 その居酒屋で僕は彼女からある告白を受けた。
 (少し前から薄々とは聞いていた話で「不帰」ではなく、はっきり言って僕らにはとてもじゃないが撮影不可能な「小夜鳴鳥」の方を撮りたいという事だった)
 恥ずかしい話だが「小夜鳴鳥」という究極の片想いを描いたシナリオは平成の車寅次郎のこの僕が、今の今まで傍惚れしてはその度に見事にふられ続けてきた失恋の語録であり記録である(ラブレターならぬフラレターなのだ)

 そしてこの後、彼女はある告白を僕にして来た。

 「兄さん、(妹じゃない彼女は僕の事を兄さんと呼ぶ)、私春が来たみたい…」

 (はぁ!?)

 新しい彼氏が出来たと彼女は僕に報告をして来た。

 (何じゃそりゃ!!先日のたこ焼きパーティーの夜。彼女は今回の映画制作のために泣く泣くまだ好きだった男と別れたのだと、その大きな瞳からぼろぼろと大粒の涙を流して僕に訴えて来た。そしてその傷心の傷が癒えるのを理由に自主映画の制作作業はしばらくの間止まっていた。それが今度はその流した涙も乾かない内に新しい春が来たらしい。そんな人が僕の失恋の記録の失恋の記憶のシナリオを撮りたいと言い出し始めた。しかもアマチュアレベルでは絶対に映像化不可能な、戦後間もなくを舞台にした時代物のファンタジー作品を…)

 僕はこの時に自分の正直な気持ち(感想)を彼女にはっきりと、


 それは「嫌だ」と言った。


2006/02/24

第六十一回「空白」

 僕は僕が大阪を離れていた約二年半という時間。山崎さんが何を感じて、何を考えて暮らしていたのか、実の所は何も知らない。
 ただ十九・二十歳のまだ映画学校の学生だった頃、胸に憧れていた映画や映像に対して完全燃焼出来なかった気持ちだけは同じだと思ったので、もう一度今度こそその悔いを残さないように、改めてコンビを組み直した、アマチュア映画の自主映画の世界でも中途半端な半人前と半人前の半端者である。
 (半人前と半人前でようやく一人分のアマチュア映画監督としてまた作家として機能する事が出来る)
 でも、それは映画に限ったパートナーシップの友情で僕は彼女のプライベートな部分には出来るだけお互いあまり干渉しないように努めてきた。
 (一応僕も男だし、やはり彼女は女だった)
 僕自身は当時も今も自主映画以外のプライベートな時間なんてまるで無い。
 月々の家賃と生活費を稼ぐためのバイト以外の時間は今でも(未だに)、全部自主映画の、小夜鳴鳥の作業のために空けている(使っている)
 山崎さんが今回の僕との自主映画制作や他の様々な理由で、当時付き合っていた恋人と別れて、文字通り人生のお引越しをする中、その人との良き思い出が詰まった、一人暮らしのマンションの部屋を引き払う前に最後にタコ焼きパーティーを僕と二人だけで開いた…(シリアスな展開の中、誠にすまないが、関西人は本当に家でタコパーをするのだ)
 専門学校で一緒に働いていた頃の思い出話をしみじみとする山崎さんは、この思い出が詰まった一人暮らしの部屋と、その思い出の人と別れる事が大変辛いようだった。
 それはあえて僕がややこしい事にならないように、それまで長い事知らないふりをしていた、自主映画制作とは直接関わり合いのない、彼女のプライベートの思い出で。
 僕が愛や恋は勿論の事、夢や友情に飢えて渇いて干からびて過ごしていた、色気なんてまるでない二年半の時間とは全く違った時間の話だった。

 僕はやはり彼女の何も知らなかった。


2006/02/24

第六十回「二つの本」

 僕は大阪に帰って来る時。故郷広島で二本の映画シナリオを書いた。

 一本は「不帰(かえらず)」という撮影用のシナリオ。

 もう一本は今から撮影の準備を始める、その「不帰」という自主映画企画の、製作作業の手助けになるように、名刺代わりに書き下ろした読ませるだけレーゼシナリオ(小夜鳴鳥)

 当時の僕には僕なりの映画作りの戦略(シナリオ)があった。
 読んで面白い「小夜鳴鳥」で映画制作の協力者を集めて、実際には現実的な自主映画企画のシナリオである「不帰」を撮る。
 (「不帰」という企画は何も起こらないリアルな現代劇として作品が構成されていたので読み物としては大変地味なシナリオだった)
 逆に「小夜鳴鳥」は同じように淡々とストーリーは進んでゆくものの、戦後間もなくの時代物で、「恋愛ファンタジー」という作品としての分かり易さがまだあった…(あくまでもう一本のもっと地味な方と比べてである)

 勿論、その用途に違いはあっても、僕にとってはどちらの脚本も自分が苦労の末にようやくと書き上げた、どちらが面白いかと比べるような対象ではなかった(当たり前だ。物語の内容以前に書き上げた目的があまりにも違う)

 読み易い理解され易い、「小夜鳴鳥」には協力者を集める目的を。

 実際制作可能な現実的な「不帰」には撮影台本としての手堅さ(手頃さ)を。

 それはそれなりにその目的を達成していた二本の脚本だった…(と思う)
 どちらの脚本(シナリオ)も相方である山崎さんが初めての読者だった。
 当時山崎さんが僕が書いたその二つの脚本(物語)を。一体どんな風にどんな事を考えながら読んだのか?

 この時の僕はまだ彼女からその感想を何も聞かされてはいなかった。


2006/02/23

第五十九回「帰還(リターン)」

 2002年の1月に僕は約二年半の間離れていた青春時代を過ごした大阪の町に帰ってきた。
 第一声はもちろん「恥ずかしながら帰って参りました」
 身ひとつ。手には二本のシナリオと田舎の工場働きで貯めた虎の子の貯金通帳だけ。
 両親も中古の軽自動車も、まだ引きこもりを続ける友人のK君も、みんな故郷に置いてきた。
 山崎さんともう一度自主映画を撮りたい。
 それだけが人生の望みだった。
 大阪に帰って来た僕は早々に新しい部屋を整理し終えると新しい仕事(バイト)を探した。
 タイム イズ マネー(時は金なり)
 生活の暮らし怠慢は大事な映画の制作費を減らした。
 新しい仕事が定着するまで約二ヶ月ほどかかった。
 結局、僕は山崎さんのアルバイト先の友達の紹介で梅田のとある飲食店で働く事になった。
 昼はウエイターのホール係。夜はまた別の飲食店で皿洗いのバイトをした。
 典型的なフリーターだった。
 それでも僕は田舎の生活には最後の最後まで感じられなかった生きる感覚のようなものを取り戻しつつあった(それは自由の風と言ったら良いのだろうか)
 日本のインドと呼ばれるごみごみした大阪の町は、僕みたいな社会不適合者には近所の目を気にせず、ある意味とても暮らし易い。
 それより何よりもう自主映画や山崎さんが間近だった。
 現実から逃げ出した遠い千葉や逃げ出したかった生まれ故郷の広島の町。

 あんなに憧れた夢にまで見た、山崎さんともう一度一緒に作れる。

 自主映画制作がもう手の届く位置にあった。


2006/02/23

第五十八回「鳩小屋」

 2002年4月某日。僕は再び大阪は梅田の繁華街を徘徊していた。

 広島から大阪に引越しして約三ヶ月が過ぎていた。
 新しく住む部屋も新しい仕事(バイト)も見つかってそろそろ新しい新生活にも慣れ始めた頃だった。
 僕はこの頃、ハト小屋に住んでいた。
 正確にいうならハト小屋のような狭い安マンションに住んでいたのだが、ベランダには本当にハトたちが住みついていた。
 僕はベランダにハト避けのネットを自作して張っていたのだが、ハトはそのネットの隙間をかいくぐって僕の部屋のベランダに侵入してきた。
 その度に僕はネットの隙間をつぎはぎして塞いでいったが、塞いでも塞いでもハトはその僅かな隙間を見つけて、また僕の領土のベランダに侵入してきた。
 (ハトには己が生まれ育った場所に帰ろうとする強い帰巣本能がある)

 この頃の僕は連日に及ぶ、先住者であったハトたちとの、マンションのベランダの居住権を巡る、仁義なき戦いの戦争にすっかりと疲れ果てていた。

 僕が大阪に引っ越してきた頃、ちょうど映画の相方の山崎さんも、人生のお引越しの最中で色々あったらしいく、同じく彼女も疲れ果てていた(僕は彼女の恋愛事は詳しくは知らない)

 そして本当に四年間暮らした、誰かとの思い出のマンションを引き上げて、彼女は市外にある自宅の実家へと戻って行った。
 勿論、これから自主映画を撮るためにだった(月々払うマンションの家賃を節約した)
 大阪に帰って来たからといってすぐに映画を撮影出来る訳では決してない。
 (どこまでいっても僕らは生活者の一人だ)

 僕も山崎さんも現実の中ではまだまだ飲食店で働くただのフリーターだった。

 それが帰って来たばかりの大阪の、二人の現実だった。


2006/02/22

『ぼくらの映画道・第二部〜小夜鳴鳥リプレイ』

第二部の連載をスタートします。今後とも宜しくお願いします。

2006/02/21
「スタッフルーム」トップへ戻る
Copyright (C) 2004-2007 Okoku. All Rights Reserved. トップページへ